――ああ、耳鳴りがする。

これは、アレに似てるな…
そうだ…波音だ。

イヤだな…嫌いな音じゃねえけど、こう、頭ん中でザーザー鳴られると――

波の騒ぎ立つときは、決まって昔の夢を見るから。

ジョキンッ

ギュンツ?

ジョキン ジャキッ

ああ、ヴルムか。
こっちの船倉に来るなんて、めずらしいな。

何の用だよ。
弟が心配で見に来たのか?

いや、ギュンツがここにいるとは知らなかったが…

あっそ。ぐーぜんか。

ジャキッ

ギュンツこそ、一人でいたら危ないだろうが。こんなところで船の大人に見つかったら、痛い目に遭うぞ。

ハサミの音がするが、何をしているんだ?
またこの間みたいに、いたずらしてるんじゃないだろうな――

! それはっ

どうした?
そんなにビックリしてさ。

その本は、おまえが大切にしていた薬術書じゃないか。
どうしてそんなふうに、ハサミで切りきざんでしまうんだ。

おい、やめろ!
薬作りがイヤになったのか?
それとも、また大人たちに酷いことを言われたか?

ククッ

何を笑って――

だって、すごい顔して怒るんだもんよ。

そーんな真っ青にならなくたって、おまえの弟の頭がイカレちまったわけじゃないから安心しろよ。八才のガキでも、自分が何やってるかくらい分かってるさ。

では、なぜそんなことを…

なんで? なんでって??
う~ん、なんでだろぉなあ。

おい、ふざけているのか。

甲板に出ようぜ、ヴルム。
今日は朝から晴れてたろ。舳先からこの紙の山をとばせば、青い海に白い紙吹雪が光って、きれいだと思うんだよな。

ま、待てギュンツ。
説明をしていけ!

昼すぎなら風もあるだろうし!
今は春だから、東風…なあヴルム。東と言えばさあ。

オレ、大人になったら、ファルナに行きたいんだ。

ファルナ…?
というと、〈虚無の砂漠〉を越えた東の地か。

そう!〈東の果て〉ファル・バザールでは、このあたりじゃ少ししか手に入らない香薬が足元にまでこぼれて、じゅうたんみたいになってるんだって!

さらに東のシルキアでは、不老不死薬の研究がされてるらしい。
きっと東の地には、こっちにはないようなクスリがたっくさんあるんだよ。

なあ、行ってみたいよな!

…本気で思っているのか?

なに?

俺たちが大人になれると、本気で思っているのか?

ガタッ

いっけね。
ランタン落としちまった。

この船の大人たちは乱暴で、残酷だ。
俺たちのような子どもが、泣こうがわめこうが、死のうが――やつらは何とも思わない。

抵抗できない弱者は、ちょうどいい八つ当たりの的なんだ。
昨日もドナウが殴られていた。打ち所が悪ければ死んでいた。

明日、殴り殺されるかもしれない。
そうでなければ明後日、海に沈められるかも。
ギュンツ…俺は――

自分が大人になるということが、想像できない。

ガコッ

ああ、やっと甲板に出られた。
風がきもちいいな。

見ろ、ヴルム。今なら、舳先にはだれもいない。
あそこからとばそう。

飛ばそうって?
何を手に握りしめて…

あ! おまえ、本当にあの本の残骸を持ってきたのか!

そぉれっ!

…いいのか?
つなぎ合わせればまた読めたかもしれないのに、飛んで行ってしまうぞ?

薬作りをやめるつもりか?
それがおまえの本心なら、止めはしないが――

なぁに、バカ言ってんだ。
オレがそんなダダこね始めたら、全力で止めろよな。

は?

オレたちにはそれしかねえだろが。

ドナウは武器がありゃ強いけど、ふだんは大人たちに取り上げられてる。
だからあいつは、何もできずに殴られてる。

ヴルムはオレたちの中でいちばん体がでかいけどさ、まだ十才だろ。
力でかなうようになるまで、あと何年かかるか…

そうだな…
ふがいない兄で、すまない…

でも、オレの作るクスリなら!

え?

体の大きさはカンケイない。使い方を知ってるか知らないか、だ。
オレはチビだし力も弱いが、殴る蹴るしかできねえバカどもをツブすやり方を山ほど知ってる!

あの本をやぶりすてたのは、武器を取られないためだ。オレの使うクスリが武器だと、やつらに知られないためだ。

本がなけりゃマネされることもない。
これで、オレが、オレだけが、あの本に書かれてた戦い方を使える。

安心しろよ、ヴルム。
オレたちは大人になれる。オレが、毒でも薬でも何でも使って――

おまえら全員守ってやる。

――――ツ

ギュンツ――

ギュンツ!

う…

よかった、気がついた!
ギュンツ、大丈夫?

何度も呼びかける私の声に、ギュンツはようやく目を開いた。

まだ少しぼんやりしているものの、自力で半身を起こし、だるそうに首を回して辺りを見る。

海の音が聞こえねえ…
ここは…?

ああそっか…砂漠か。
オレ、ファルナに来てたんだっけ。
チバリの薬術書を探しに――

記憶が混乱してる?
ギュンツ、私がわかる?

あ、うん。おまえのことはわかるよ、アイラ。オレが雇った用心棒で、砂漠の旅の案内人…

ただわかんないのは、オレの置かれてる状況なんだけど…

なんで半ば埋められかけてんの、オレ。

埋葬にはまだ早いんだけど。

あっ違うよ!
これは体を冷やすために…

砂漠の砂は、表面は熱いけど、少し掘れば冷たい面が現れるんだ。
だから、穴の中にギュンツを横たえて…

依頼人を死なせてしまった証拠隠滅を図ったと…

体を冷やすためだって言ってるでしょーが!

覚えてない?
ギュンツ、熱砂病で倒れたんだよ。

熱砂病?
熱中症には気をつけてたんだが。

熱中症とは少し違うかな。
砂漠で熱砂を吸い込みすぎると、体が内側から熱せられちゃうんだ。呼吸には支障ない程度だとしてもね。

でも熱砂病って普通は、幼い子どもがかかる病気なんだけどな…

喧嘩売ってる…?

こんなときに売らないよ!

と、あわてて否定したものの…
これまでの君の所業を思い出せば、子ども呼ばわりも当然と、思わなくもない。

おいコラ。

だって、昨日も夜遅くまで、フラマンさんの巻物を夢中で読みふけっていたでしょう。ご飯もろくに食べずにさ。

冒険小説全巻セットを買い与えられた子どもかっての。

んなことされたら三日はまともに生活できねえな…

たとえ話に共感するな。

ほらこれ、飲んで。脱水症状を改善するお茶だから。
本当はもっと量があればいいんだけど…

水、あとどれくらい残ってる?

もうほとんどないよ。
困ったな…まだ町は遠いし、近くに泉もないし――

……!

どうした?

聞こえない?

鈴の音…
シャン、シャンって、遠くでたくさんの鈴が鳴っている。

人がいるってことか?

それも、隊商だ。
これはマラク市街から来る隊商が、ラクダの脚につけている鈴の音だよ。

お願いすれば、水を分けてもらえるかもしれない。
体を動かさない方がいいから、ギュンツはここで待ってて!

は!?
置いてかれても困る。オレも――

そのお茶、ちゃんと飲んどいてね!

ギュンツをその場に残し、私はラクダに飛び乗った。
そして鈴の音を頼りに砂漠を駆けた。

砂埃を上げて砂漠をゆくと、やがて遠目に、動くものが見え始めた。

――見えてきた。ラクダの隊列!

リーダーはきっと真ん中辺りだ。
何かあったとき、先頭からも最後尾からも連絡しやすいよう、中間にいるものだから。

あの人かな?
青いターバンの人に話しかけられてる、女の人――

ザッ

すみません!

ラクダの足を止めつつ呼びかけると、隊商の人たちの目が一度にこちらを向いた。
私の呼びかけに答えたのは、青いターバンを巻いたおじいさんだった。

早かったね。遠くに砂埃が見えたから、誰かが来るのはわかっていたけど、隊商長に報告する間もなく追いつくなんて、優秀なラクダを持っている。

隊商長…じゃあ、やっぱりその人がリーダーですね。

突然すみません。
でも、助けてほしくて!

ラクダから下りたらどうかしら。

え?

そっけない第一声。
あっけにとられる私に、隊商長は厳しい声で続けた。

私たちはこの通り、ラクダに荷物を満載しているの。
だから自分たちは、自分の足で歩かざるを得なくてね。

それが見えていながら、ラクダの上から私たちを見下ろして話すなんて、礼儀がなってないわ。
頼みごとがあるならなおさらね。

き、気づきませんでした。
今、下ります。

ワルダート、君の言い方はきついよ。
こんな女の子に対してさ。

甘ったれないで、ハジャル。
女の子だろうと、お役人だろうと、私は態度を変えないわ。

それに…油断しちゃだめよ。

この子、剣を隠し持ってる。
ラクダから下りるとき、さやが日の光にきらめくのが見えたわ。

! 剣を…

職業柄持っているだけです。
敵意のない人に向けるつもりはありません。

あら、聞こえた?
ごめんなさいね。

隊商長は、笑顔を浮かべた……けど、変わらずこちらを警戒していることは、ひしひしと伝わってくる。

どうしよう…厳しそうな人だ。
いや、どうしようと言っても、正面切って頼むほかないんだけど…

も、申し訳ないのですが、水を分けてもらえないでしょうか。
病人がいて、飲み水が足りないんです。

ワルダート。病人だって。

いいえ、ハジャル。
甘い考えは捨てなさい。

お気の毒ではあるけれど、水を分けることはできないわ。
私たちも大勢からなる隊商だし、人数分の水しか用意してないの。

お金は払います!

砂漠で水は命にも等しいものよ。
命がお金で買えると思って?

せめて来て、見てやってくれませんか。
私一人じゃ手に負えなくて…!

そんな危険なことできないわ。
無害そうな女の子に頼まれてついて行ったら、盗賊のアジトだったなんて話、よく聞くもの。

私は盗賊の仲間なんかじゃありません!
剣を持っているのは、仕事のためだって…!

そうね。
あなたは本当に、困っているただの旅人かもしれない。

だけど私たちは、これだけの荷物をラクダに積んで、運んでいるの。
羊の群れがオオカミを警戒するのは当然でしょう?

私たちのことはあきらめてちょうだい。
恨むなら、十分な水を用意しなかったおのれの甘さを恨むことね。

そんなっ

ウヴァ~!

…あれ?

あの、あなたが連れているラクダ…

ヴァ~

? この子が何か?

首に星の模様がありますよね。
首の反対側にも、同じ模様がありませんか?

…あるわよ。
どうして知っているの?

やっぱり。
その子、盗賊に使われていたのを私が放したんです。

よく見ると、他にも見覚えある子が何頭か…
どうしてあなたたちが、その子たちを使ってるんですか?

…砂漠で拾ったの。
人慣れしているから、野生じゃないとは思っていたわ。

僕たち、旅の途中で、虫の運ぶ病気にラクダをやられてね。
見ての通り荷物が多いから、困っていたんだ。

何頭もラクダを失ったら、運べない荷を砂漠に捨てなきゃならなくて、大損するところだったのよ。

十分なラクダを連れていなかったおのれの甘さにほぞを噛んでいたよね。

お黙りなさい、ハジャル。
…まあ、その通りだけれど。

大きな仕事での失敗は、信用第一の商人にとって死にも等しいものよ。
そこに現れた野良ラクダの群れでしょう。思わず神の御名をつぶやいたわよ。

そう…あなたが放したラクダだったの。
それが本当なら、あなた、私たちの恩人だわ。

嘘じゃないと思うよ、ワルダート。
首の模様のことも、ラクダが元々僕らのものじゃないことも知っていたんだから。

お嬢さん、お名前は?

アイラです。

私は隊商長のワルダート・アルラムル。
隣にいるのが副隊商長のハジャル・アルカマル。

よろしくね。

他はおいおい紹介するわ。
今は一刻も早く病人の元に案内して。

え…

な、なんで突然…

失礼な態度を取ったことは許してちょうだい。盗賊という連中には、一度手酷くやられているの。ただ…

何かを得たくば代価を払い、得たならば対価を払う。

それが商人という職業の、違わざるべき生き方なのよ。

こっちです!

私はワルダートさんとハジャルさん、それに何人かの隊商の人たちを連れて、ギュンツが休んでいる場所に案内した。

その穴の中に寝ている子ね?
よく見せてちょうだい。

顔色が悪い。肌が熱い。詰まったような呼吸…明らかに熱砂病だわ。砂を吸いすぎたのね。
この子、あなたの弟さん?

いえ、私は雇われた案内人で…

案内人ですって!?

あの、何か?

何かじゃないわよ!
この子、セレナの人でしょう?
顔立ちを見ればわかるわ。

セレナには砂漠がほとんどないのよ。砂漠の旅に慣れてないの。
だからあなたを雇ったんでしょう!
その自覚が足りてないんじゃない?

自覚ならあります。
私は砂漠にくわしいから雇われたって…

熱砂病について、きちんと警告した?

してないです…
だって、熱砂病なんて、普通は子どもがかかるものですよね?

どうして熱砂病は、小さな子しかかからないと思う?

どうしてって…砂を吸い込んでしまうことが原因でしょう?
大人になると吸い込まなくなるからなんじゃ…

それがどうしてかって言ってるの。
らちが明かないわね。

どうしてなんですか?

呼吸法よ。
例えば、あなたはラクダで旅をしているようだけど、ラクダの歩調に合わせて呼吸をしているでしょう?

え?
まあ、言われてみればそうかも…

タイミングだけじゃない。口の形や息の吸い方にも、砂漠で生きる人ならではの癖がある。

それって、熱砂を吸わないように――熱砂病を避けるために、自然と身についたもののはずよ。

あ…

セレナの人が、その呼吸法を知っているはずがないでしょう。
あなたが教えるべきだったのよ。

あなた、そんな甘ったれた仕事ぶりで、お金をもらっているわけ?
お客をこんな目に遭わせて…全額返金すべきだわ!

……っ

ハジャル、水を。
町までの旅に足りるギリギリまで、この子のために使っちゃいましょう。
こうなったら、乗りかかった舟だわ。

はいは~い。
でも、意識がないなら、すぐに飲ませるのは危険だね。

とりあえず、直射日光が当たらないように、天幕を張ろうか。
アイラさん、手伝って。

はい…

ねえ、そんなに落ち込むことないよ。

ワルダートの言うことは正しいけど…
でもそれは、君がそれだけ砂漠に慣れているってことなんだから。

長所を伸ばしていこうっ。
ね?

はい…
ありがとうございます。

ハジャルさんの言葉が優しさだとわかったので、私はなんとか笑顔を浮かべた。
でも内心は、笑っている余裕なんてなかった。

慣れているって?
ただ傲慢だっただけだ。

ワルダートさんの言うことは、何から何まで正しい。
本当は、私も自覚していたはず。自分が未熟者だってこと…

ラキヤさんの、言う通り…

育ての親の、するどく厳しい目が脳裏に浮かぶ。
〈戦士団〉を出ていくとき、彼に言われた言葉を思い出しそうになって――

私は首を振った。

今は、へこんでる場合じゃない。

それより、これからどうするかだ。
これ以上間違わないために。

……う

ギュンツ!
目が覚めた?

次にギュンツが意識を取り戻したのは、数時間後だった。
その体の脇に座っていた私は、即座に顔を向け、数時間ぶりに目覚めたギュンツとばっちり目が合った――

と、思ったのだが、ギュンツはまだ、はっきり覚醒してはいなかったようだ。

……ヴルム?

え?

…………。

じゃねえや、アイラか。

ほんの二秒ほどだった。
すぐに人違いに気づき、ぐっと体を伸ばしてギュンツは完全に目を覚ました。

ヴルムって、お城で話してくれた人のこと? たしか、お兄さんだっけ。

血のつながりはねえけどな。オレの兄貴分で、船の仲間。
耳鳴りが波の音に似てて、船の夢ばっか見ちまうぜ。

耳鳴りが酷いの?

へーき。それより、オレ、何時間寝てた? 遅れた分取り返さねえと。

体は楽になったよ。それに見たとこ、もう夕刻だろ?
夜になれば気温も下がるから、ちょうどいい。出発しようぜ。

ああ、まだ立ち上がらないで。
今から出発なんてできないよ。

ギュンツは今、体内に熱がたまってる状態なの。気温が下がったからって、油断しちゃダメ。

ちぇ、そうかよ。

焦る気持ちはわかるんだけどね。
一晩休めば、動けるようになるからさ。

…? なんか、妙に静かだな?
おまえが離れたあと、また意識失っちまって、このザマだってのに。

二度も倒れたりしたら、二倍ガミガミ言われるもんだと思ってたぜ。
ちゃんと食わないからだーとか、夜は寝ろとかさ。

…君に説教する資格なんて、私にはないよ。

何?

ギュンツ。
話しておきたいことがあるの。

私は、本当は、一人で仕事ができるほどの者じゃなくて…まだ〈戦士団〉で修業を積むべき未熟者なんだ。

一日銅貨十五枚だなんて、マルジャーンさんの買いかぶり。
それなのに仕事を引き受けたから、こうして、君が倒れるハメになった。

これ以上、君に迷惑を掛けたくない。

…それで?

町に着いたら、剣技があって旅慣れてる、別の案内人を紹介する。

それで私は――

この仕事から、手を引くよ。

 

つづく

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