18 安らぎの代償4

 エルカは教室で誰かと世間話をするのは久しぶりだった。


 もしかすると、初めてのことかもしれない。



 この教室でエルカがクラスメイトから声をかけられるときは限られている。


 主に面倒事を押し付けられるときや、嫌味を言われるとき、罵詈雑言を浴びせられるときだけ。



 だから、緊張で顔を強張らせる。

 生徒たちが自分たちを見ている視線も気になっていた。


 ルイはそんなエルカを安心させるように、しゃがみ込むとエルカと視線を合わせて苦笑する。

ルイ

そんなに緊張する必要はないよ。いつも通りにしてくれれば。周りの目が気になるなら……そうだね、僕の目を見て

エルカ

………う、うん

 穏やかな声で話しかけられたのは久しぶりだ。


 そう思うと、目の前のルイ以外の生徒が見えなくなったのだ。



 周囲の視線は怖い。けれど、ルイの目を見ていれば少しも怖くなかったのだ。


 だから、ジッとエルカはルイの漆黒の瞳を見据える。

ルイ

僕、叔父さんの家で、すごい本みつけたんだ

エルカ

すごい本?

 目を輝かせて食いついたエルカにルイは苦笑しながら続ける。

 本の話題になると、彼女は元気になる。

 あふれんばかりの笑顔。ルイの好きな表情を見せてくれる。



 だから、今日はこの話題にしようと思って、昨夜から考えてきたのだ。


 親友のレイヴンと決別してから自分が孤立することは目に見えていた。



 これを機にエルカとの距離を縮めようと考えたのだ。


 そして、彼女が興味を持ちそうな話題を調べて準備する。


 彼女を楽しませるための努力をルイは惜しまない。

ルイ

大昔の人が書いた本だよ

エルカ

それって、古書?

ルイ

そういうのかな。気になる? 探偵に関する古い本だ

エルカ

気になる!

 目を輝かせる少女の姿に、ルイは満足そうに頷く。

ルイ

君ならそう言うと思った。でも、その本は触れたら崩れそうな本だった

エルカ

それじゃあ、読めないね……残念

ルイ

叔父さんに頼めば読めると思うよ

エルカ

本当に?

 一瞬だけ落ち込んだ彼女の目がキラキラと輝く。


 狙い通りの反応を見せてくれた。



 その綺麗な瞳をルイは見つめていた。




 周囲から冷たい視線を感じていた。

 彼女がその視線に晒されないように、彼女が盲目になるような話題を出す。



 エルカの表情はその冷たい視線を忘れさせてくれる。


 誰も声をかけなくても良かった。


 ルイが彼女に声を届けて、彼女の声を受け取ることが出来れば十分なのだ。



 自分たちは互いだけを見ていれば大丈夫なのだ。









 ルイは忘れていた。

 この細やかな幸せを壊そうとする存在を。

 失念していた。







 ただ、ルイは彼女の心地の良い声に耳を傾ける。

エルカ

古い本って、癒やされるんだよね

ルイ

エルカの、その本も古そうだな

 ルイが指さしているのは、今エルカが読んでいる本ではない。


 隣に置いたままの古い革表紙の本。いつも彼女は、それを持ち歩いていた。

エルカ

これは……母親が私に残した本なの

ルイ

そっか……どんな本?

エルカ

古い民話や伝承が、古い言葉で書いてあるから面白いの

ルイ

大事な本なんだね

エルカ

……不本意だけど一番好きな本かな。だから宝物だよ

 エルカはその本を抱きしめる。



 これは彼女にとって大事な本だった。


 家の事情は皆に知られている。祖父が魔法使いと呼ばれた男であること。

 両親が離婚していること。母親が子供を捨てて出て行ったこと。




 隠したいことなのに、皆が知っていた。

 誰にも言っていないのに、皆が知っていた。




 それが、幼い頃は怖くて悲しかった。



 これは大事な本だ。自分を捨てた母親のものだからすぐにでも捨てたい本。

 なのに、子供の頃からこれを持っていると心が落ちついた。



 本音では悔しいことだが、エルカはこの本がないと心が壊れそうになるのだ。


 だから学校にも持ってきている。

ルイ

触っても良いか?

エルカ

うん、良いよ

 ルイが本に手を伸ばして表紙に触れる。

 慎重に指先で触れた。

ルイ

ありがとう。うわ、ザラザラしている

エルカ

古いからね

ルイ

……壊れそうだな

エルカ

結構、丈夫だよ

ルイ

叔父さんの本とは違うね。あれは触れたら、壊してしまいそうで怖い

エルカ

壊したらダメ

ルイ

そうだな。探偵になる僕が重要文化財を破壊した罪で逮捕!とか言われて捕まってしまう

エルカ

そうだよ……私の話し相手はルイくんしかいないんだから……いなくならないでね

 不安そうな双眸が揺らめいたので、ルイは胸が締め付けられる思いになった。


 この子を守れるのは自分だけだ。

 その思いは、一層強まっている。




 強まるごとに、ルイは周囲の冷たい視線の真意を読み取れなかったのかもしれない。

ルイ

……分かっているさ………捕まるようなことはしないから

エルカ

約束だよ

ルイ

ああ

 二人の小指と小指が絡まる。


 互いの熱を感じながら、その瞬間の幸せを噛み締めていた。

 氷の中に映る、二人が微笑み合う。

 その光景を二人は無表情のまま見ていた。

 



 音を立てて氷が砕け散る。

 氷の中でバラバラなる自分たちをぼんやりと見ながらエルカは口を開いた。

エルカ

この頃は幸せだったね

ルイ

そう思うのか?

 エルカは小さく頷いた。

 ルイ以外に友達がいなかったエルカにとって、それまでの孤独な日々と比べれば幸せな時間だった。

エルカ

ここから、だね

ルイ

そうだな……

 この先に待っていること。


 それが、二人たちが見なければならない真実の物語。



 ゴクリと息を飲みこむ。



 心の準備が出来るのなんて待ってはくれないようだ。


 物語は容赦なく進行するらしい。黒い光を放つ氷が地面からゆっくりと現れた。

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