11 思い出のハジマリ1



 教本を教師が読み上げる。

 その言葉に耳を傾けながら、エルカは読みかけの本のことを考えていた。


 後ろの席では貴族の娘たちが世間話に花を咲かせる。


 時折、聞こえる笑い声に不快感を抱くが、エルカの視線は開かれた教本に向けられたまま。



 他の多くの生徒たちがそうだった。

 教本を開いて、授業を受けているフリをする。

 教師たちは、教本を読み上げて授業をしているフリをする。



 彼女たちの下品な笑い声は徐々にボリュームを上げていく。


 エルカたちは気にしないように、授業のフリをすることに集中していた。


 途中で、教師が重要なところに線を引くよう指示をする。

 こういうときは本当に大事な箇所なので、エルカは大人しく従った。


 フリーハンドで綺麗な横線がひけると、少しだけ嬉しくなる。しかし、表情は変えない。


 そんなことをしていると、終業を告げるチャイムが鳴り響いた。
 

 そそくさと立ち去る教師。ざわざわと立ち上がる生徒たち。


 エルカは、その喧噪に耳を傾けながら図書室へ行く準備をする。学校は好きではない。

 けれど、自宅で読むよりも図書室の方が落ち着けるのだ。

エルカ

(やっと、授業が終わったよ)

 エルカは顔を上げる。

 無機質なチャイムの音色が校舎に鳴り響くことを、誰もが心待ちにしていた。



 教室は居心地が悪い。



 その理由は、格差社会の息苦しい空気が充満しているからだ。


 貴族の娘たちが、威張りちらしている世界。

 平民の子供たちは俯いて時が流れるのを待つ世界。



 暴言は常に、時には暴力を振るわれる。

 誰も貴族の娘たちを咎めない。



 何が正しいのかも、何が間違っているのかも麻痺した世界。

 狂った子供が、更に狂った大人になるための世界。



 平民の子供は貴族に蔑まれることを学び、身体に染みこませる。


 少しでも早く、この教室から出たかったのだ。


 早く、早く、急がなければ……そんな焦る気持ちはエルカの手を震えさせる。

エルカ

……

 エルカはふと、手を止めた。





 嫌な感じの気配が近づく。

 背中に生暖かい風を感じた。

 ペタペタとした足音が聞こえた。



 その音に、吐き気を感じる。

 額と背中にジワッと冷たい汗が流れた。

 濁った、生ぬるい気配を感じる。




 何かを悟ったエルカは静かに、振り返る。

 振り返りたくはなかった。だけど、身体は自然に振り返っていた。

 背中に迫る何かに命じられたように、身体が勝手に振り返る。

エルカ

………

フランさん、図書室に行くなら、この本も一緒に頼めるかしら?

エルカ

………それは?

 そこには女子生徒の微笑があった。この教室の女王様。


 権力者の娘。その手には分厚い本が一冊。


 その本を返却してこいということだ。



 彼女の名前をエルカは知らない。知る必要がないから覚えてはいなかった。


 分かるのは、このクラスで一番のお金持ちで、親が偉いだけの女王様。

辞書よ。良いわよね?

 念を入れるようにヘビのような笑みを浮かべる。

 彼女から漂う鼻が曲がりそうな臭いは化粧なのか香水なのか。

 ファッションに興味のないエルカには分からない。



 はっきり言えることは、色々な臭いが混ざり合っていて、これが良い匂いだとは信じがたいということ。



 化粧も香水も校則違反だった。

 だけど彼女を叱れる教師などいなかった。

 理由は簡単。権力者の娘である彼女は、校内では教師たちよりも偉い立場にある。

エルカ

……はい。構いませんよ

 エルカは平坦な声で頷いた。

 拒否権なんて、はじめからないのだ。

 拒否を示せば、殴られることは目に見えている。

 とにかく、早く彼女たちを遠ざけたい。彼女たちから離れたい。




 その為には、大人しく従う方が賢い。

 彼女から一冊の本を手渡された。

 それは、辞書だった。

 辞書は貸し出し禁止だったはずなのに彼女は権力を使って借りてきたのだろう。

あ、私のも頼むわ

 取り巻きの生徒たちが、私も、私もと容赦なく辞書を重ねる。



 ずっしりとした重みに眉根を寄せると、彼女たちは意地の悪い笑みを浮かべた。


 わかりやすい嫌がらせだったのだが、エルカは無表情で応じる。ここで言い返しても何も変わらないから。

じゃ、頼んだわよ

大切な備品なのよ。廊下に落としたりしたら駄目だからね

エルカ

……はい、わかりました

 頷くのを確認もせずに、女子生徒たちは笑いながら去っていった。


 エルカはその背中を静かに睨みつける。


 睨んでいることがバレたら、もっと酷い目にあうだろう。


 受け取った辞書を机の上に乗せる。そこに借りていた本を乗せた。




 この本の続きを早く読みたいのだ。


 それを思い出すと、先ほどまで抱いていた不快感が薄れる。

 ため息をついてから鞄を肩に下げて、積み上げられた本を持ち上げた。

エルカ

……っと

 少し重いかな、と思いながらエルカはゆっくりとした足取りで歩きだす。


 本の続きを早く読むためには、これらを一度に運ばなければならない。

 それに、分けて持っていけば彼女たちに何を言われるかわからない。



 以前にもあったのだ。


 どうして、差別するのだと。

 一緒に運べば良いのに、なぜ数冊を後回しにするのだと。


 空き教室に呼び出されて、密室空間で暴言を浴びせられたことを思い出す。


 あんな怖い思いはしたくない。

第4幕-11 思い出のハジマリ1

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