10 本の蟲2
10 本の蟲2
本の蟲が指差した氷は、おぼろげな光を放っている。
それに異質な何かを感じたので、エルカは距離を取って氷を見ていた。
あの氷は?
あれは過去の記憶の氷……二人が一緒に氷を覗き込めば、過去が見えるのだ。それを覗くだけで、物語は始まるのだ
…………本の蟲は色々と詳しいのね
エルカの怪訝そうな視線に、本の蟲は微苦笑で返す。
そして、目を伏せながら、どこか遠くを見るように呟いた。
我は本の蟲になってずいぶん経つのだ……
エルカのように自分の過去と向き合う者とも、何度も関わっているのだ。そして、その末路も見届けているのだ
そうだったんだ……
見た目は美少女だが、我は幽霊なのだ
………でも、長い年月を幽霊として過ごした中で言葉を交わせたのは、エルカだけなのだ
本の蟲は少女の姿で命を落とした。
それは、不慮の事故だった。
彼女は、まだ若かった。
彼女は、もっとたくさんの本を読みたかった。
その願いが届いて本の蟲となった。
彼女が生前、どんな人生を歩んでいたのかはエルカは知らない。
だから、エルカは私の最初で最後の親友みたいなものなのだ。
うちは貧乏で、私は幼い頃から働いていた。友達なんていなかった。でも、寝る前に本を読むことだけが楽しみだった。やりたいこと……たくさんあった。
その為に本を読んでいた。夢を叶えるために。でも、死んでしまった私は……何もできなかった
ふいに、本の蟲が悲し気な表情を浮かべる。
先ほどまでと口調が変わっていることにエルカは気が付いていたが、指摘はしなかった。
おそらく、これが過去の彼女の姿なのだろう。
………
………だから、エルカには悔いを残さないで欲しい。それが、今の私の望み……
きっと、エルカの物語は私を満足させてくれると信じているよ
………
彼女は本を読むこと以外にも、たくさんの悔いを残して命を落とした。
本の蟲となった彼女は、本を読むことでしかその悔しさを埋めることができなかった。
私はエルカの選ぶ本が大好きだった。私たちは好みがとても合うみたいだから
……だから、エルカは、私にならないで欲しい
本の蟲になるな……ってこと?
いい? 本の蟲は本を読むことしかできないの。最初はもちろん楽しかったよ。でも、終わりがないのは辛い
この心が満たされる本と、宿主が出会うまで
満たされたら………成仏できるらしいのだけど……それは、なかなかに難しい。我と同じぐらいに宿主がその物語に満足しなければならないのだから
エルカは本好きの末路として、本の蟲になることに憧れたこともあった。
しかし、それは間違いだったのかもしれない。
自分を満足させてくれる本との出会い。
いつ訪れるか分からない、その瞬間の為に、永遠に誰かに取りついて、本を読み続ける。
それが、本の蟲。
エルカはゆっくりと彼女を見上げた。
彼女は親友と言ってくれたが、エルカにとっては友であり姉のような存在だった。
…………ねぇ、あなたの本当の名前を教えて
…………残念ながら、本の蟲になったときに私は名前を捨てているの。もう、忘れてしまったわ
そう、それじゃ、今まで通りに本の蟲って呼ぶね。本の蟲……どうか、私たちの物語を見守っていて欲しい
彼女は今までもエルカのことを見守ってきた。
彼女はエルカと同じ真実を見ている。
だから、この真実を知る権利があった。
………もちろんなのだ! 特等席で見ているのだ!
エルカはルイを振り返って、ゆっくりと見上げる。
過去と向き合う準備は出来た。
ルイくん……待たせて、ごめんなさい
大丈夫?
……うん、私は逃げたくないもの
二人の視線が氷に向けられると、その向こうに影が浮かび上がる。