09 本の蟲1

ルイ

ここは……?

 エルカとルイは周囲を見渡す。

 二人の目に映るのは黒一色の闇ばかり。


 お互いの姿だけが鮮明に見えるようになっただけで、他に変化はなかった。



 それだけでも、エルカには十分だった。

 一人が二人になったことで、不安と恐怖はどこかに消えてしまうのだから。




 ルイに対する疑念は晴れていないというのに、側にいることで安心感を抱いてしまう。


 エルカは視線を前に向けたまま、彼の問いに答える。
 

エルカ

ここは、本の中のはずだけど

 何度、目を凝らしても、お互いの姿以外は何も見えなかった。
 
 だけど、何も見えないはずはない。


 二人の物語を一冊にまとめた特別な本。

 だから、読み方も他とは異なるのだろう。


 エルカは目を凝らして周囲をよく見渡す。


 ふいに、視線の先に人影のようなものが見えた。

 ぼやけた光が人の影を作る。

 その姿にルイも気付いたらしく目を大きく見開いた。

ルイ

……誰か、いるのか?

 一人の少女が大きく手を振っていた。


 銀髪の少女。二人の視線は、少女の足元に向けられる。

 足首から下が透けて見えなかった。


 足のない少女はユラユラと浮かびながら二人の前に降り立つ。

本の蟲

エルカ、久しぶりなのだ!

エルカ

あなたは、もしかして本の蟲?

本の蟲

その通りなのだ!

 ピョンピョンと宙を飛び跳ねる少女は、満面の笑顔を浮かべている。

 エルカは眉根を寄せたまま、その少女を見ていた。


 ルイの視線は、見えない足元に釘付けになっていた。

ルイ

エルカ? この人は……知り合い?

エルカ

えっと……本の蟲、私に取り憑いている本好きの幽霊だよ

ルイ

………ええ? 幽霊? それに……と、取り憑いているって……

エルカ

何で、驚いているの?

 顔を引きつらせたルイを、エルカは不思議そうに見ていた。

 そんなルイの反応を理解できない少女は、小首を傾げる。

 エルカの頭上で本の蟲と呼ばれた少女の溜息が聞こえた。
 
 エルカは怪訝そうな視線を上に向ける。

本の蟲

……幽霊に取り憑かれているなんて言われたら、当然の反応なのだ

エルカ

え、そうなの?

 キョトンと首を傾げるエルカに、ルイは何度も頷いていた。


 ――本の蟲。

 活字や本に未練を残して命を落とした、本好きの幽霊を総じてそう呼んでいる。



 幽霊である彼らは自分で本を読むことができない。
 
 だから、本が大好きな人間に取り憑いて、その人間の目を通して本を読んでいる。


 彼らは取り憑いた人間が読む本を必ず読む。


 本の蟲はそれを拒むことができない。拒むことが可能なのは、取り憑かれている人間だけ。



 しかし、人間の多くは本の蟲に取り憑かれていることに自覚がなかった。

 エルカのように本の蟲の存在を認識して、言葉を交わしているのは稀なこと。



 本の蟲は幽霊なのだ。

 肉体のない、魂だけの存在。



 幼いエルカはそれを知ったところで恐怖を抱かなかった。

 自分と同じぐらいに本が好きな同志を見つけて喜んでいた。


 いくら妹が好きでも、ナイトは本好きにはならなかった。

 グランだって女の子向けの本までは読まなかった。



 話題を共有したいエルカが本を渡しても、誰も読んでくれなかった。


 誰かと感動を共有したかったエルカにとって、本の蟲との出会いは運命的なもの。

本の蟲

だが、エルカは最近まで我の存在を忘れていたのだ

エルカ

ご、ごめんなさい……

本の蟲

仕方ないのだ。これは、成長の証なのだ。

 ここで、本の蟲の姿を見るまで、エルカはその存在を忘れていた。

エルカ

どうして、忘れていたのかな? とても、大事なことだったのに

本の蟲

心配しなくとも、我はずっとエルカの目を通して物語を見ているのだ。見ることを我は拒むことができないのだ

エルカ

本の蟲が、ここにいる理由は……私が本を開いたから?

本の蟲

その通りなのだ。我もエルカの目を通して、この本の中を見せられている

エルカ

でも、おかしいよ。これは私たちしか読めない本のはずだよ

 エルカは首を捻る。

 これはエルカとルイの二人の記憶を一冊にまとめた本だ。

 これを読むことができるのは、記憶の持ち主であるエルカとルイだけ。


 ナイトでさえ読むことができない、特別な本のはずだった。

本の蟲

本の蟲は、本好き故に図書棺の法則から外れているのだ

エルカ

だから、読めてしまうのね

本の蟲

そういうことなのだ。だが、心配する必要はないのだ。我がここで、見た内容を第三者に告げることはできないのだ。

本の蟲

大人しく諦めて、早く二人の物語を見せるのだ

 嬉々とした表情を浮かべる本の蟲。


 彼女はエルカとルイの本が読みたくて仕方ないのだろう。

エルカ

見せろって言われても、どうすれば良いのか分からないの。貴方は何か知っているの?

本の蟲

そこの氷に近付くのだ

 本の蟲が暗闇を指さす。


 先ほどまでは、そこには何もなかったはず。


 その漆黒の闇の中に、氷の塊が宙に浮かんでいた。

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