01 悪夢
01 悪夢
それは、悪夢。
忘れてはいけない、忘れることのできない、罪の記憶。
教室の中央で黒髪の少年とエメラルド色の髪の少女が向き合っていた。
加害者のルイと、被害者のエルカは二人とも俯いている。
この教室で事件が起きた。
それは小さな事件。
当事者たち以外にとっては、取るに足らない些細な出来事だった。
内容はシンプルなもの。
エルカの持っていた本が紛失した。
それはエルカの不注意で起きた、些細な出来事だった。
エルカもクラス全体を巻き込むつもりなんてなかった。
彼女は一斉に向けられる視線に怯えながら、『女王様』の言葉を待っている。
掃除の時間、この教室に居たのはルイ・バランだけ。だから犯人はルイ・バラン。あなたよ!!
本を盗んだ犯人がルイ・バランであることを、一人の女子生徒が断言した。
彼女が声を発するだけで、誰もが彼女に注目する。
制服に派手な装飾品をつける女子生徒は、香水の匂いを巻き散らせながら微笑んでいた。
その女子生徒は、このクラスの実質リーダー的存在。裕福な家に育ち、父親はこの街の権力者である。
ただそれだけで、彼女はこのクラスだけでは留まらず、学校内の女王様だった。
女王様が黒と言えば、純白の雪ですらも黒になってしまう。
生徒たちは大人しく彼女に従い、二人を取り囲んでいた。
無数の視線に晒された二人の弱者は、顔を上げることが出来なかった。
女王様は名探偵の如く、左手を腰に当てると右手の人差し指をルイに突きつける。
そうでしょ!! 皆さんもそう思うわよね
彼女は、周囲の生徒たちに同意を求める視線を向けた。
彼らは小さく頷いた。
頷く以外の動作を彼らは許されていない。
群衆の反応に彼女は満足そうに頷いた。
そして、全員の視線がルイに向けられる。
責めるような、哀れむような、蔑むような視線が彼に注がれる。
犯行時刻は掃除の時間。
その時間、教室の花瓶の水を取り替えていたのはルイだ。
教室の中にいたのはルイだけ。
ただ、それだけで彼は犯人として吊るしあげられていた。
女王様は、今度はエルカに視線を向けて微笑む。
視線に気づいた少女が、ビクリとした。
それとも、あんたの自作自演?
……え?
妖艶に彼女は笑う。
それと同時に、先ほどまでルイに向けられた視線が一斉にエルカに向けられた。
あんたの被害妄想じゃないの?
群衆の刺すような視線が痛い。
彼らは同じ顔で、同じ表情で、同じ方向を向いていた。その視線が怖くて、エルカは目を伏せる。
……っ
時間の無駄になるから、そういうの止めてもらえる?
ち、ちがう……本当になくなって……
なくなった証拠もないでしょ? 本なんて持っていなかったんじゃないの? あんたが騒いでいるだけでしょ?
目立ちたいの? 同情されたいの? そういうの迷惑なのよ。平民ごときが私の貴重な時間を無駄にしないでくださる?
エルカは涙を溜めながら俯く。
証拠なんてあるわけがなかった。
『ある』ことを示すことはできても、『ない』ことを示すことはできない。
その為には、それ以前に『あった』ことを示さなければならないのだから。
彼女がわざと言っていることは明白だった。
エルカが本を持ち歩いていることぐらいは、彼女たちも知っていたのだから。
ここは、冷静にならなければと思うのに、エルカの思考はグルグルと激しく回るだけ。
息苦しい。
早く、今すぐ、ここから離れたい。
足がすくんでしまう。
そんな気持ちが心を圧迫していく。
嘘でも『自作自演でした』と言ってこの場から逃げた方が楽かもしれない。
エルカは考える。
そうだ、肯定して逃げてしまえばいい。
そのまま、二度とここに来なければ良いのだから。
楽な方を選ぼう。
そう焦っているとルイが呟いた。
………僕だよ、僕が犯人だ
小さく、震える声で彼は言う。
否定して欲しかった声で彼は肯定する。
彼の俯いた視線は床に固定されていて、表情はわからない。
だから、エルカは訪ねていた。
……ど、どうして……
えっと……大事にしたいた本を失くしたら……どんな顔をするんだろうって、思ったんだ……知的好奇心ってやつかな
ルイはエルカと互いに目を合わせないまま言葉を吐き出す。
生徒たちの視線がルイに向けられた。
先ほどは同情的な視線もあった。
しかし、今ははっきりとした軽蔑の視線だけだ。
それらが、まっすぐに彼に向けられる。
……本当に、ルイくんが……とったの?
………ああ、僕がやった
それで、本はどこにあるのかしら?
女王様は楽し気に笑いながらルイに問いかける。
ルイは目を泳がせながら、言葉を紡ぐ。
え………ちょっと手違いがあったんだ。それで、あ……えっと……
しどろもどろになるルイに、無数の冷たい視線が向けられる。
ルイは言うべき言葉を手探りで探していた。
両目が右左に彷徨う。
そ、そうだ……窓から落ちて、学校の隣の森に………
森に……
エルカは冷たい声でルイの言葉を復唱する。
校舎のすぐ脇に小さな森がある。ちょうど、教室の窓からもそれは見えていた。
鬱蒼とする森は学生は立ち入りを禁じられていた。
塀があるから下からは入ることができないが、上からの侵入は不可能ではない。
危険だからと、森側の窓を開けることは禁じられていた。
それを開けることが可能なのは、教師すら支配できる女王様ぐらいだろう。
ルイ・バラン。悪い子ね、たまたま私が空気を入れ替えるために窓を開けたのを見ていたのね。
その隙にそんなことをしたのね。危ないわ、私が犯人になるところだったわ
ケラケラと笑う女王様。
取り巻きの生徒たちが同調するように笑う。取り巻きに睨まれた生徒たちも、乾いた笑い声を上げていた。
そんな彼らの様子を、エルカもルイも気にしていなかった。
ルイは頭を深く下げる。
………ゴメン………ごめんなさい
……っ……酷いよ、大事なものだって言ったのに、酷いよ
…………だから、待ってい……
ルイが何かを言いかけた。
しかし、エルカはその言葉を聞きたくなかった。
これ以上、彼の言葉を聞きたくなかった。
目を閉ざしたかった。
耳を塞ぎたかった。
早く、こんな場所から離れたかった。
貴方の言葉が信じられない。もう知らないよ
…………っ
涙を溜めながら教室から飛び出した少女を、ルイは茫然と見ていた。
エルカは学校近くの空き地で立ち尽くしていた。
泣きながら走ってきたが、今は落ちついている。
鼻をすすりながら、先ほどのことを思い返していた。
ルイは何かを言いかけていた。
きっと、それは大事なことだったのかもしれない。
だけど、あの場にいることが苦しくて、エルカは勢い余って教室を飛び出してしまった。
彼の言葉の続きが気になる。
しかし、このタイミングでは二度と教室には戻れないだろう。
言葉の続きを聞くことは不可能な状況に陥ってしまった。
これで、おしまいなんだね。ごめんなさい、お爺様………わたし、無理だった
もう、戻れない。
戻ってはいけない。
学校に自分の居場所がなくなったことを胸に感じる。
そしてエルカは、そのまま学校に通うことを放棄した。
しばらくしてから、彼が転校したことをナイトから教えられた。
そのとき、胸の奥が晴れたような気がした。
彼はきっと、エルカがいる街に居たくなかったのだ。
だから、街を出たのだろう。
そうに違いない。
一緒にいたら、女王様たちに目をつけられるのだ。
エルカが知らないだけで、嫌な思いをたくさんしたに違いない。
それが嫌で………だから酷い事をして、彼はエルカを切り捨てた。
そう思えば、納得できる。
仕方がないことだ。
それで、彼が幸せになれるのなら。
酷いことをされたのに、それでもエルカは彼の幸せを望んでいた。
自分の意思で初めて作った友達だから。
彼を不幸にはしたくない。
自分の心が矛盾していることぐらい、エルカは分かっていた。
嫌いなのに大切ってどういうことなのだろうか。
きっと、それは今でも変わらないエルカの中の、ぼんやりとした心だった。