04 過保護兄の過去2

 傀儡人 《クグツビト》市場を離れてから、どんな道を、どのように歩いたのかは覚えていない。


 自分がこれからどうなるのか、そんなことばかりを考えていた。


 あれこれと考えているうちに目的地に辿り着いたらしい。
 


 そこは大きな屋敷だった。



 巨大な建物に圧倒された。ここは貴族の屋敷なのだろうかと思ってしまう。

 そして、自分を買い取ったのが貴族かと思うと表情が強張る。

 眉根を寄せて足を踏み入れる。

 立派な外観と異なり、内部はあまり綺麗ではなかった。


 紙や鉄や布……何の用途に使うのかわからない。


 そんな色んなものが散らかっているので、歩く場所を探すのにも一苦労する。

 まるで、ゴミ屋敷の中を歩いているようだ。






 この魔法使いはマッドサイエンティストなのかもしれない。

 自分の研究の為ならば掃除をする時間も惜しいのかもしれない。




 ああ、自分は実験体となるに違いないだろう。


 彼の中に大きな不安と恐怖が浮かび上がる。



 あのまま死ぬか、実験体として死ぬかの違い。




 これから身体を切り刻まれるのかもしれない。



 初めて恐怖を感じ背中を震えさせる。


 彼は傀儡人 《クグツビト》として申し分のない強さと能力を身に着けた。


 しかし、その強さと能力は役に立たなかった。ただの足枷にしかならない。


 身体を震えさせる彼に、グランは笑みを浮かべる。

グラン

おっと、寒いか? まずは風呂に入ろうか

風呂?

グラン

何だ、知らないのかい? 仕方ないなぁ

 風呂というのは実験室のことなのだろうかと考え息を飲む。


 緊張しながら彼はグランの後ろをついていく。脳裏に浮かぶのは血まみれの個室だった。


 ナイフを持ったグランが彼の腹を切り裂く姿を想像して顔を青くする。

 しかし、案内されたのは血生臭い実験室ではなかった。



 大きな桶のようなものがあって、そこには湯気が立ちのぼるお湯が張られている。



 『まずは私の真似をするんだ』と言いながら魔法使いは突然服を脱いだ。



 現れたのは老人とは思えない鍛え抜かれた肉体。

 その肌をマジマジと見ていると、問答無用という表情で伸びてきた手で彼も脱がされた。

な、なにを?

ふむふむ、身体を洗わねばな……洗浄の精霊よ、ここに

 グランがパチンと指を鳴らすと、羽根のついた妖精が現れる。


 妖精はグランと目で会話したあと彼に視線を向ける。


 そして、口から泡を吹き出した。



 白い泡が全身を包み込む。


 そして、頭からお湯が降ってくると全身の泡がスーッと流れていく。

 彼の身体の汚れも泡と共に流れていく。



 そして、湯気が立ち上がる湯舟の中に放り込まれた。



 お湯を飲んで苦しい、顔まで沈んだから苦しい、そして熱い、だけど気持ちが良い。


 不思議な感覚が全身を駆け巡る。

 程よい温度のお湯だった。それが、身体に蓄積された疲労や不安を流してくれるのを感じられた。

これが、風呂……か

気持ち良いだろ? では、次は着替えよう。それが済んだら食事だ

 
 魔法使いに手伝われながら、悪戦苦闘して着替えを済ませる。


 傀儡人 《クグツビト》の頃は、着替えるという行為は年に数回あるかないかだった。


 臭くない服を着るのは初めてかもしれない。



 そして次に大きなテーブルと椅子の並べられた部屋に案内された。

 テーブルの上には色とりどりの何かが並べられていた。グランによればそれは料理なのだという。



 それは初めて見るものばかりで彼の目を楽しませてくれた。


 久しぶりの食事。そして、温かいスープが身体を暖める。

あったかい……

 この世界に、こんな場所があるなんて。

 だから彼は、これは夢なのだと自分に言い聞かせた。






 世界はとても冷たい。

 目が覚めれば、夢が終わり。

 また冷たい世界に戻るだけ。





 綺麗な姿になったのも、美味しいものを食べさせてもらえたのも、実験体になる為。

 そうなのだ、そうなのだと自分に言い聞かせる。



 まだ、自分は実験体になるのでは……そんな思いは拭えなかった。



 檻の中でしか寝たことのない彼にとって、信じられないほどに柔らかいベッドは心地の良い夢へと誘う。



 この束の間の幸せは全てまやかしだと思いながら、心地良さに身を委ねていた。


 翌朝、彼は魔法使いから呼び出された。
 いよいよ、実験に使われるのだろう。幸せの絶頂から不幸の底に突き落とすつもりなのだ。

 そんな恐怖が背中を撫でる。


 おそる、おそる、呼ばれた部屋に足を踏み入れる。


 そして、魔法使いはニコリと微笑みながら彼を迎え入れてくれた。


 そこは汚い実験室ではなかった。


 そこは甘いミルクのような香りの漂う、暖かい空間だった。グランは優しい口調で告げる。

グラン

お前に生きる場所と、目的を与えてやろう

……え

 その時、彼の濁った目に光が差し込む。

 魔法使いの腕の中には生まれて間もないような赤子がいた。

この子は?

グラン

孫娘だよ。お前は今から、この子の兄になって欲しい

どういうことだ?

グラン

……この子の両親が、この子を愛していないからだ

 魔法使いが悲し気な声でそう言う。



 無垢な瞳が誰かを探していた。



 小さな手が伸ばされ、それを彼は握りしめた。



 微かな力で握り返されて胸が熱くなるのを感じた。


 どうして、この子の両親は愛することを放棄したのだろうか。


 握り返された瞬間、感じたのは愛おしいという感情。



 彼は生まれてこの方、何かを愛おしいと思ったことはなかった。


 その言葉だってわからなかった。それなのに、その気持ちは頭の中に浮かび上がる。

これが、生きる目的?

グラン

ああ、そうだよ。お前はこの子を守る為に生きるんだ

 この子を守りたいと思った。


 だけど、自分で良いのかという不安が過る。


 戦闘狂と呼ばれた傀儡人 《クグツビト》の自分で良いのかと、グランを見上げる。



 ふと、手が握られた。



 視線を移すと、心配そうな目がこちらを見つめて来る。

 この子は、この瞬間にも捨てられるのではと不安なのだ。



 この子は幼いながらに、愛情を求めている。
 それに応えてやれるのは、自分しかいないだろう。

……俺で良いのか?

……

 幼い彼女は言葉を発することができない。

 だけど懸命に手を握り締めてくる。これだけで十分だった。

わかったよ。俺が愛情を与えて育ててやるよ

グラン

よかった。年若くて、この子を護れる騎士となれる者を探していたのだよ。お前は強いから心配ないな。今から、お前はこの子の騎士だ

………俺が騎士……

 それは不思議な響きのする言葉だった。

 その言葉を彼は噛み締める。

グラン

そうだな、お主に名を与えなければな……お主はもう傀儡人 《クグツビト》などではない、この子の兄……ナイトだ

それが……俺の名前

グラン

そうだ、お前は人間で、この子……エルカの兄だ

俺が人間に………俺は誓うよ。俺の全てはこの子だ、俺の命はこの子のものだ

 そしてナイトは、グランを見上げて誓いを捧げる。


 昨日までの自分は奴隷Ⅸだった。だけど、今日からは違う。




 この屋敷に足を踏み入れた。

 そして、身体に溜まった色々なものを洗い流した。


 もう、自分はⅨではない。Ⅸであった頃のものは全て昨日のうちに風呂で洗い流したのだから。


 今の自分はナイトという名前がある。


 そして、この少女を守る兄である役目を与えられた。

 ナイトの強い視線に、グランは苦笑を浮かべた。

グラン

全て……とは重すぎる気もするが

……俺は元傀儡人 《クグツビト》だから、それぐらい重い枷が欲しいんだよ。枷がないと不安になる。

そうじゃないと、この子の兄貴なんて出来そうにないからさ

グラン

そうか

この誓いっていうのは、俺自身との約束でもある。俺はこの子を護ることを、俺と約束する。そして、貴方と……グランさんと約束するよ

 彼はグランの前に跪く。

 ただの傀儡人 《クグツビト》だった彼の人生は終わった。

 そして、エルカの兄としての人生がこの日始まったのだ。

第3幕-04 過保護兄の過去2

facebook twitter
pagetop