26 とある妹の語る事件5
26 とある妹の語る事件5
ふいに、視線を感じエルカは振り返った。
そして、目を大きく見開いた。
炎の中に茫然と立ち尽くすソルがいたのだ。
いつから居たのかは分からなかった。
咄嗟にエルカは地下の鍵をかける。その奥で聞こえる声が彼に届かないように。
鍵を開けられては困るので、エルカはその鍵を炎の中に投げ入れた。
これで、二度と開かれないだろう。
何事もなかったように、エルカはソルに笑みを向けた。
どうしたの?
なんで、ソルがここに居るのだろう。どうして、そんなに焦っているのだろう。
理解が出来なかった。地下書庫への扉を背にしたままソルの目を見上げる。
彼の真剣な眼差しをエルカは初めて見る。彼らしくない目だと思った。
ソルの口から放たれたのは、エルカの疑問の答えではなかった。それは、予想外の言葉だったのだ。
……逃げるぞ
彼は低い声ではっきりと言った。エルカにはその言葉の意味が理解できなかった。
逃げるって何処にだろうか。なぜ、ソルはそんなおかしなことを言い出すのだろうか。
エルカは立ち止まったままソルの目を見据える。
逃げる? どこに? 逃げ場所なんてないよ。私ね、お爺様の大事な書庫を穢してしまったの。
私は自分が逃げる場所を穢してしまったの。鍵もないのに、どうやって逃げるの?
地下書庫がエルカにとっての逃げ場所。そこは誰も近づかない、非力な自分を護ってくれる最後の砦。
だけど、そこに異物を落としてしまった。あそこは穢れてしまった。
あんな穢れた場所になど逃げたくない。
………
(なんで、おかしい。ソルの目が優しいのが、あまりにもおかしい。だけど、昔はこうやって、たまに優しい目を向けてくれた気がする)
潤んだソルの双眸を見ながらエルカはそんなことを考えていた。
ソルは本当は優しい人だった。それを知っているから、エルカは彼の言葉に従っていた。
でも、逃げるという言葉には従いたくなかった。
立ち止まったまま動かないエルカにソルは歩み寄ると、その腕を掴んだ。
少しだけ震えた手で、でもしっかりと強く握りしめる。
何言っているんだよ……逃げるんだ
どうして? 逃げるなら一人で行けば良いのに
この状況を招いたのはオレだからだ。オレの所為でお前を困らせたくないんだ
そうなの?
母さんたちを殺した……多分、火もつけたと思う。お前がいたのに
……知っていたよ。殴っているところ、あの二人を殴り殺しているところ……私、見ていたから……
………えっ
知っているよ。だけどソルは悪くないってこと。他に選択肢がなかったのよね。だから二人を…………
あの男が二人を襲っている姿をエルカは目撃していた。だけど、あの男なんて【居】ないのだ。
だから、ソルが二人を殺した。あの時、エルカが目撃したのはソルだった
そういうことにすれば、あの男が地下書庫に【居】ることは誰にもわからない。
あの男は永遠に発見されないだろう。永遠の牢獄で苦しませる。
これは、幼い頃の約束だった。
ソルはあの男の行動を、全てソルがやったことにしてくれと懇願した。
だから、エルカはここで起きた惨劇をソルがしたことだと言う。
しかし、それではダメなのだ。
(だけど、真犯人は私ってことにしたいの)
その為に細工をしなければならない。
そんなことを考えて立ち尽くすエルカに、ソルの強い声が放たれる。
お前……行くぞ!
だから、私は、ここにいるの
行くんだよ………っ
え? ちょ………
力強く手を引っ張られたら抵抗なんて出来ない。
エルカには抵抗する気力なんて残ってなかった。
抵抗する必要なんてなかった。しばらくすれば、この炎が自分を灰にしてくれるのだから。
ソルは米俵を担ぐみたいに持ち上げるとそのまま走り出す。
やるべきことは、やった。
あとは、証拠を残して容疑者がいなくなれば全て終わるはずだった。予定では炎の中に残るつもりだった。
エルカを助けるであろう、ナイトは仕事中だから帰ってこない。
異変に気が付いても間に合わない。
エルカを助ける者なんていないはずだった……それなのに、
(何で、彼は私を助けようとするのだろう。私を助けたところで、何も良い事なんてないのに……)
ザワザワと色んな人たちが集まってくる。
外に出たのだということには気付けた。誰かが何かを叫んでいるが、言葉を聞きとることは出来なかった。
そこで意識は途切れる。
意識が切れる直前に、願った。
このまま、目覚めたくなかった。
だから……
――頭の中に、開かれた本をイメージする。
古い皮表紙の本を頭に思い浮かべて、それを開いた。
――次に、本に描かれていた魔法陣を思い出す。
黒いインクで描かれた魔法陣。何度も見たから覚えている。
イメージの中の本。
開かれたページにその魔法陣が浮かび上がった。
――あとは、本に書かれていた呪文を頭の中に浮かべる。
この言葉も自然に浮かび上がる。
眠れる魂は記憶の底に、記憶は本に、本は棺に……
――開け、棺の扉
――図書棺への扉は開かれた