11 物語の欠片
11 物語の欠片
その【本】から聞こえてきた声の主はエルカだった。いつも何かに怯えているように話しかけてくる彼女。その控えめな声が懐かしくて笑みが零れてしまう。
【本】を通して、向こう側にいるエルカと言葉を交わした。
そして、互いの状況を確認し情報を交換する。
ソルが置かれている檻の中の檻は孤独な空間。
壁も床も天井も黒一色。
全方向から圧迫されるような感覚は、気持ちを不安にさせた。
だから、このやり取りが孤独感を薄めてくれた。
知っている声が聞こえる。ただそれだけのことなのに、相変わらず周りには誰もいないというのに安心感を抱くことができた。
姿が見えないので、彼女の口調からその様子を伺う。人の顔色を伺うことは苦手だった、相手の目を見て話すことが苦手だった。
だけど、なぜか彼女のことなら声だけでわかるような気がする。
……
(今のエルカは図書棺にいる時より声が明るい。だから機嫌は悪くなさそうだな。あいつは、今どこにいるんだろう……オレの状況とは違うよな…)
エルカは開いた絵本の中に取り込まれたらしい。
彼女によれば絵本の中は絵に描いたような色鮮やかな世界なのだという。
(本に取り込まれるなんて有り得ない……って笑い飛ばしたいところだが……オレの置かれている状況も理解しがたいからな。本当なのだろう)
ソルが吸い込まれた時点では、エルカは本を開いたままだった。その後、取り込まれたのだろう。
絵本の中でエルカは『プリン王子』と再会した。この『プリン王子』は、図書棺で出会ったカボチャパンツの男。
そして、絵本の物語を完結に導くことが、エルカが外に出る為の条件。
向こう側のエルカは物語の存在を覚えていないらしい。
エルカとソルに起きている異常の中には共通点があった。
(オレもエルカも【プリン王子の物語を完結】させなければならないんだ)
この条件はソルが檻《おり》から出る為の条件と同じ。
それは、都合が良かった。エルカの言う【プリン王子の物語】をソルは覚えているのだから。
しかし、それも正しい内容かと言われたら言葉に詰まってしまう。それは、ぼんやりとした曖昧な記憶。
何よりソルは絵本をしっかり読んでいたわけではない。何となく目にした程度の頼りない記憶だ。
それでも、手がかりがないよりは希望になるだろう。
(……でも、結末になんて導けるのか?)
ふと、ソルは表情を曇らせる
幼い頃のエルカは結末まで描いていた。
しかし、その後に彼女は、書いたものを黒いインクで塗り潰していた。
ソルが静かに瞼を閉ざすと、視界に記憶の映像が浮かび上がる。
(この現象にも、いい加減慣れてきたな。さて、見せてくれよ……オレたちの過去を)
グランに呼び出されたソルは、彼のいる地下書庫を訪れていた。
プリンを作って食堂を散らかした時の話だろうか。あの犯人はソルだと伝えている。エルカも否定しなかった。
しかし、大人であるグランの目は誤魔化せなかったのかもしれない。
あの時に何かがあったのか、問い詰められるのだろう。
何を言われても自分がやったと言い切ろう。
ソルは自分に言い聞かせながらグランの部屋の扉を開いた。
重く冷たい扉の向こう側でグランは渋面を浮かべていた。
そして、ソルに一冊の本を差し出す。
これを読みなさい
これは?
あの子の日記だ。あの子はそこに絵本を描いていたそうだ……わしが許可をするから、読みなさい
他人の日記を勝手に読んで良いものかと躊躇する。
しかし、グランの鋭い眼光はソルに『読みなさい』と言っていた。
仕方なく、本をめくると可愛らしい女の子と王子様のイラストが描かれていた。
それは夢見がちな少女が空想した、純粋な幸せな物語。
何枚かページをめくり、目を細める。
そこにはインクで塗り潰された黒いページがあった。
物語の終盤、結末が描かれていたであろうページは黒で塗りつぶされていた。
幸せな物語の結末は、幸せではなかった。結末も与えられなかった、残酷で悲しい物語。それを眺めたソルは本をグランに返す。
どうして、こんなことを?
納得できなかったのだろう
納得、できなかった?
何度も描いて、そして消して、その結果がこれだよ。あの日、何があったんだ?
………え?
この男がソルを呼び出した理由はそれだった。
“あの日”がどの日を指しているのか、それぐらい分かっている。
彼女がこの結末を与えた日。この老人には全て、御見通しなのかもしれない。真実を見たソルに確認を取りたいのだろう。
あの子は現実にあった出来事をもとに絵本を描いていた。これは、あの日までのことしか描いてない……
お前と一緒にプリン作りをしたところまで。一緒にプリンを作って楽しかったというところまで……
ああ………
ソルは知っていた。
あの日、彼女はこれを目の前で描いていたのだから。
……その先は塗り潰されていて読めないのだよ。プリンを食べてどうしたのか、それが分からない。お前たちは最近は仲良くなったかと思ったのだがな。あの日以来、どういうわけか、互いを避けているように見える
………
何も言えなかった。
あの男のことを語って良いのか分からず、俯いて立ち尽くす。
本当は言いたい。
そして、助けて欲しいと思った。
でも、これは自分の問題だから助けてもらってはいけない。無言になったソルに穏やかな視線が向けられた。
……わかった。これ以上は何があったのかは追及しない。話してくれるまで、待っている。話せなくても、その日記にお前の本音をぶつけなさい
そして、グランはソルの手にある一冊の本。
エルカの持っていたものと同じ日記帳を指差して微笑んだ。
静かにソルは目を開いた。
ここは、檻の中の檻。
四方を囲む壁も天井も床も黒一色の世界。
エルカの祖父グランを思い出していた。
ソルは、あの穏やかな笑顔が懐かしかった。
唯一、尊敬できる大人だった。
だから、嫌われることを恐れたソルは本当のことをグランに明かすことはなかった。ただでさえ、毎日のように迷惑をかけている。
父親の影に怯えているだなんて、余計な心配はかけたくなかった。
結局、あの出来事を伝えることが出来ないまま、グランの魂は遠い世界へ旅立ってしまったのだ。
手元にある日記に視線を向けた。滅多に書いていない日記帳。
同じものをエルカも持っていて、彼女は物語を描いていた。
あちら側にいるエルカが知りたい物語の結末。それは彼女自身が塗り潰すような物語だ。
そこに導いて本当に良いのだろうか。
物語の鍵は、あの日に起きた塗り潰された出来事にある。
そこに、
“あ の 男” の 影 が 見 え て ゾッ と し た。
ぼんやりと、自分の日記を読み返す。
あの日の出来事と、誰にも言えなかった気持ちは、この日記の中に記されていた。
殴り書いた、あの日の心の叫びがこの中に溢れている。
だけど、楽しかった思い出も書いてある。あの日に感じた温かい時間もこの中に残されている。
(オレの日記の思い出を伝えれば、あいつなら自分の描いた結末に辿り着くだろう。)
(父さんが来る前に、描こうとしていた結末に……でも、本当に、伝えても良いのだろうか)
こういう時にこそ魔女の助言が欲しかった。
だけど、彼女はここにはいない。
そうなると自分で考えなければならない。
(不安はいっぱいあるけれど、伝えよう……あいつが知りたいって言っているのだから……)
ソルは日記帳を開いて目を閉ざす。
そして、彼女声が届くのを待っていた。
そして、彼女に伝えたのだ。
『二人で作ったプリンが美味しかった』
それを伝えるだけなのに言葉に詰まる。あの男のことは伝えないように、楽しかったことだけを言葉にするのは難しい。
彼女がこの情報からどう物語を動かすのかわからない。ソルは期待と不安を込めて、躊躇いながら言葉を紡いだ