09 真実は檻の中に2
09 真実は檻の中に2
足音が完全に聞こえなくなるまで動くことが出来なかった。
もう、あの男はいないというのに……まだ体の震えが治まらない。
周囲をグルリと見渡す。
静寂に包まれた食堂。テーブルの上は潰れたプリン、そして皿の破片が飛び散っていた。
床には足の折れた椅子が転がっていた。その欠片が散らばっている。壁は大きく凹んでいた。
酷い惨状だと思った。
突然、この食堂に未知のバケモノが現れて暴れたようだ。
そんなことを言ったところで信じてもらえないだろう。
ナイトやグランが返って来たら、どう言い訳しようかと考えた。とにかく、あの男が来たことは知られたくなかった。
………ソル
近付いた気配に振り返る。
小さく震えた声で彼女が名前を呼ぶ。
あ……今のは……
エルカの目は濁っていた。
書きかけの自分の日記帳を強く抱きしめて立ち尽くしている。
見てはいけない何かを見てしまったような瞳。
その瞳のまま、エルカは笑顔を作った。
本人は笑っているつもりだろうが、少しも笑えていない。
あのね……大きな音がしたから、慌てて隠れたの。耳も塞いで目も閉じていたから……よく見ていなかったけど。大きなネコでも来たのかな? 変なもの食べて騒いだんだね
見てないのか?
……え?
ソルの問いかけに対して、エルカは瞳を震えさせていた。
彼女が見ていないはずがない。すぐに危険を察知して隠れていたのだから。
あ、覚えていないなら、覚えていない方が良い
ど、どういうこと?
それでも知りたいのか? オレがやったんだ
ソルも無理矢理な笑顔を作った。
エルカはその下手な笑顔を見て首を横に振る。
ちがう………それは違うよ………大きなネコやイヌが暴れてたんだよ
見ていないのに、どうしてそう言えるんだ
そ、それは………
エルカは黙ってしまう。
何もなかった、と、言って欲しいのだろう。
そうすれば、見知らぬ男が現れて暴れたという事実が消えるから。エルカとソルが何もなかったと言えば、何もなかったことに出来る。
食堂が散らかっているのは、動物が忍び込んで暴れたのだ。
彼女はそう思いたいのだ。
エルカも、見知らぬ男の来訪をなかったことにしたかったのだろう。
二人が口裏を合わせて動物が暴れたと言えば、ナイトもグランもそう思ってくれる。
疑いはするだろうが、二人が男の存在を匂わせない限りはそれ以上の詮索はしないだろう。
今日という日は何も起きていない。
今まで通り、良くも悪くもない時間が過ぎて行ったのだ。少しだけ良いことがあって、ソルと二人で美味しいプリンを作ったのだ。
その話をグランやナイトに聞かせる。
エルカはこの幸せな時間を失くしたくなかったのだ。
楽しかった今日をなかったことにしたくなかったのだ。その為に、現実を嘘で上書きする。
それはソルも同じ気持ちだった。
この幸せを失くしたくはなかった。
だけどソルはエルカが望まない言葉を口にする。
この幸せな時間は箱に閉まって蓋を閉じて、永遠にしまいこむ。
そして、見知らぬ男が暴れたという怖い記憶も同じように鍵をかけてしまうのだ。
代わりに、ソルが暴れたという事実を与える。そうしなければ、この状況の説明がつかないからだ。
ソルはエルカとは異なる嘘で、現実に上書きをする。
《《オレがやった》》んだ。頼むから、そうだと言ってくれ!!
強く言うとエルカは目を細めた。
頼むから、そう何度もソルは繰り返していた。
………ソルがやったの?
そうだよ
じゃあ…………何で、泣いているの?
ソルは自分の目元に手を伸ばした。
水滴が指先につく。
泣いているのか。
自分が泣いていることに、ようやく気付いた。
目からボロボロと何かが零れ落ちる。
……暴れたら、手が痛くなっただけだ。これはオレがやったんだよ!!
そう、大声でソルは怒鳴る。
そうすれば、彼女は怖がってくれるから。
ソルのことを怖がれば、もうソルには近付かないだろう。
ソルに近付かなければ、あの男との接点はなくなる。
…………ソルがやったんだね
そうだ。だから、またオレが暴れるかもしれないから……オレに気をつけろ
……わかったよ。ソルのことは気を付ける……
エルカは無表情のままソルの言葉を復唱する。
それで、いい
……ソルは怖い人だから、気を付けるよ。だから、もうそんな悲しい顔しないでね
ああ……そうだな。オレは暴れて迷惑をかけるから……お前はオレを怖がるんだよ
うん、そうだね。暴れていたら……怖いからね
ソルは言葉通りに毎日のように暴れていた。
周囲に迷惑を巻き散らして過ごしていた。
ソル・フランという男はすぐに暴れて、迷惑をかける。
そういう危ない男なのだと、エルカや周囲の人々に印象付ける為に。
ソルの期待通りにエルカはソルを避けるようになった。
近所の住人たちも、ソルを問題児として見るようになった。
視界が闇に閉ざされたので、ソルは瞼を開く。
過去の映像から、檻の中に意識が戻って来たのだ。
裁判長である魔女は呆れたような表情を浮かべてソルを見ていた。
あの子が貴方を怖がっていたのは、貴方が仕向けたことだったのね。意識して怖がっているように見えたのはその所為だったのね
いや、あいつは元々オレを怖がっていた
一緒にプリンを作って……せっかく兄妹として近付けたのに、何でまた離そうとしたの?
見ての通りだろ。あの男の存在をなかったことにしたかったんだ。エルカだって、それを望んでいた
あの子は貴方が暴れたという事実には不服のように見えたけど
動物が暴れたなんて嘘はすぐにバレるだろ。オレが暴れたと言えば、ナイトたちは一応は信じるだろ。オレだけじゃなく、エルカも言っているのだから
そうでしょうね
それに……オレと一緒にいてあの男に目をつけられるのが怖かった。あの男の存在なんて、知らない方が絶対に良い
ソルがあの男の息子であることは変わらない。
それは、変えようのない事実だった。
そして、あの男はソルをこれからも苦しめるだろう。
そんなソルの側にいれば、いずれ彼女も狙われてしまう。
彼女は魔法使いの孫なのだから。
ソルは彼女と兄妹として近付くことが出来た。
そして、護りたいと思った。
無力なソルが彼女を護る方法は一つしかなかった。
自分から遠ざけること。
そうしなければ彼女を護ることは出来ない。
なるほどね……それが、貴方の本当の気持ち
視界に映る魔女が微笑む。
その姿は、ピントが合わない顕微鏡のようにぼやけて見えた。
……あれ? 何だか、眠くなって……
焦らないで……場所を変えましょうか
魔女の声がゆっくりと遠のいていく。