03 扉を開こう

 エルカはソルの背中をぼんやりと見ていた。

 先ほどエルカが開けようとした扉を、ペタペタと触っている。
 そこで、埃が手について不機嫌そうに顔を歪ませる。
 ソルが触れた扉の表面に、くっきりと手のひらの跡がついていた。

ソル

汚い……でも、ただ、立ち止まっていても仕方ないからな。開けるか………………ん?

 扉の取手に触れたソルの表情が曇る。

 どうやら動かないようだ。
 握力に自信があるわけではないが、ソルは二十歳の男性だ。そのソルが眉間にシワを寄せて力を入れてもビクリともしない。

 それは、まるで何かの力に阻まれているかのように。

 ソルは取手を握ったままの体制で静止していた。
 無言で扉を凝視する姿が異様だったので、エルカは隣に寄り添い、顔色を伺うように見上げた。
 
 ソルは不安そうなエルカに、何と伝えればよいのか悩んでいた。
 口を開けば、先ほどのように彼女に当たってしまうような気がして、言葉に出せずにいる。

 ソルが何やら悩んでいることに気付いたエルカは小首を傾げる。

エルカ

もしかして、鍵……閉まっているの?

ソル

みたいだな……力づくで開けても良いか?

エルカ

力づく?

ソル

拳を握ってバンって殴って、扉を壊す

 それが正攻法であるかのようにソルは言う。
 しかし、エルカの意見は違っていたので、ジト目をソルに向ける。

エルカ

こ、これ、鉄の扉だよ。ソルの手が砕けちゃうよ。力づくは良くないよ

ソル

……鉄なのかよ

 ソルは両手を上げてお手上げのポーズをとる。
 鉄を拳で殴るなんて、無謀なことはしたくないらしい。

 ソルの隣でエルカも試しに取手を捻ろうとするが、ビクリともしなかった。
 鍵が閉まっているのでは仕方がない。

エルカ

この扉の先に行かなければ……そう、思ったけれど、扉が開かなければ、それは不可能なわけだよね?

 エルカは振り返る。

 そこには、祖父が愛用していた机があった。

 最初に目覚めた時、扉以外は何も見えない闇の空間だった。

 まるで自分が闇に浮いているような感覚にあった。
 だけど今は違う。



 ロウソクの炎の灯りでここが部屋であることは確認できている。
 床も壁も天井も机も椅子も、あの地下書庫と同じものがあった。

エルカ

やっぱり、ここはお爺様の地下書庫だよね

ソル

そう、見えるよな

エルカ

………あ……れ?

ソル

どうした?

 エルカは視線を一周させてから、首を傾げる。
 そして、慌ててソルの顔を見上げた。

エルカ

……ないの……

ソル

え?

エルカ

ないの!

 エルカは叫びながら周囲を見渡す。

 ここが地下書庫だとすれば、大事なものがなかった。
 どうして、それがないのに地下書庫だと思ったのだろうか。

 背筋が冷やっとするのを感じた。

 バッと顔を上げてソルの目を凝視する。

エルカ

ここ、本がないよ。書庫なのに……本がないの

ソル

え……

 言われて、ソルが周囲を見渡して目を瞬かせた。

 視界に映る世界はぼんやりとしている。
 目に捉えられるものは限られていた。

 床と壁と天井、机と椅子……あとは引き出しのついた棚。



 それ以外は、ロウソクの炎を前にしても闇色に染まっている。
 しかし、部屋の中の全様はほとんど見えているはず。



 記憶の中では本棚に本が詰められていて、床には本が積み重ねられていた。



 しかし、ここには本らしきものはなかった。見えない場所に本棚があるのかと考えて、闇色の空間に手を伸ばすがそこには何の感触もなかった。

 ソルは安楽椅子に近づいて、その肘掛けに触れる。

ソル

…………本当だな、本がない。でも、雰囲気は地下書庫と変わらないよな。この臭いも覚えている。鼻が痛くなる臭いだ。

ソル

この椅子だって、あのじぃさんのお気に入りのやつだ。ほら………ここの肘掛けの傷、オレを叱ってくれたときについた傷だよ

 
 言いながら、ソルは懐かしさに目を細める。
 ソルには叱ってくれる親がいなかった。
 自分に怒りをぶつけてくる親しかいなかった。

エルカ

覚えている。そこを、激しく叩いて怒ったよね……お爺様

ソル

殴られることが当たり前だった……何もしていなくても殴られていた……初めてだったんだ……理由を説明されて怒られたこと……自分が悪いことをしたんだって理解できた。

ソル

悪いことをしたのに、じいさんはオレを殴らないで、ここを叩いただけだった

 ソルは何が正しくて、何が悪いのか分からない子供だった。
 そんなソルを叱った、唯一の大人がエルカの祖父グランだった。

 グランはその思いを拳ではなく言葉で、ソルの心に刻みこんでいた。


 ソルは今でも他人に迷惑をかけているが、その程度は小さなものだ。
 今の姿をグランが見たら、いい加減に子供は卒業しなさい……とか言って笑いながら叱っていただろう。

 ソルにとって、グランの存在は大きかった。
 聞き流されそうな些細な不満さえもグランは聞いてくれた。
 そして、褒めたり、叱ったり、ソルの為の言葉を投げかけてくれた。
 ソルは当時を懐かしむように、椅子に触れている。



 魔法使いは外見だけで年齢はわからないが、グランは百年以上は生きただろう。
 しかし、エルカが彼と過ごしたのは十年程度。
 もう帰ってこない人を思いながら、エルカは安楽椅子を撫でる。 

エルカ

……うん、これはお爺様の椅子。小さい頃、私は椅子に座るお爺様の膝の上が大好きだった

ソル

そういえば、そうだったな

 確かにそれは祖父のものだった。
 祖父がそこに座って、その膝の上にエルカが座った椅子だった。

 祖父が亡くなった後は、誰も座っていない。
 エルカが地下書庫に引き篭もってからも、この椅子は祖父のものだから……とエルカは絶対に座らなかった。



 きっと、座ったら泣いてしまうだろう。
 そこに、彼のぬくもりを感じられないことを認めたくなかった。
 見ているだけでも目頭が熱くなるのを感じて、エルカは首を横に振る。
 今は感傷に浸っている場合ではない。

エルカ

お爺様の書庫で間違いはないのね

ソル

……そう思うよ。じぃさんが亡くなってからは入ってないけど……お前はどう思う?

エルカ

私も、お爺様の書庫だと思うよ。でも………書庫と呼ぶために必要な本がない

 ここは祖父の地下書庫。
 そう思っていたけれど肝心の本が見当たらない。

 棚には本が入っていないのに、ここを書庫と呼んでもよいのだろうか。

ソル

ここが何処かなんて、この扉の先に行けば考える必要はないだろ

エルカ

でも、どうやって先に進むっていうの?

ソル

……この鍵を試してみないか?


 そう言って、ソルは首に下げていたペンダントを取り出す。
 銀色の鎖の先にあるのは、錆ついた鍵だった。

エルカ

鍵?

ソル

ああ、お前のじぃさんから………亡くなる前に御守り代わりだって言われて貰ったんだ

エルカ

お爺様の鍵? だったら魔法の力で扉が開くかもしれないね

ソル

ああ、目に見えない何処かを探すより、目に見えるものの先を進んだ方が安心かもしれないだろ?

 
 偉大な魔法使いと呼ばれたグランのものなら、何かの奇跡を起こしてくれるかもしれない。二人は鍵を手に再び扉の前に立つ。

 息を飲み、呼吸を整えて、視線を交わす。

エルカ

そうだね……お爺様のお守りが私やソルを危険に晒すとは思えない。それじゃあ試してみようよ

ソル

……い、いくぞ

 ソルは荒い息を吐きながら鍵を鍵穴に差し込んだ。
 大丈夫だと思いながら、不安なのだ。
 

エルカ

鍵穴に入ったね

ソル

ああ………ここからだな

 ソルは額ににじみ出る汗を手の甲で拭う。
 彼の緊張が伝わってくる。

 ソルはそれを静かに回す。
 エルカは固唾をのんで、鍵が回るのを見ていた。

 音がどこからか聞こえた。

 それは、目の前の扉からのもの。

 鍵穴に鍵が収まり、それは静かに回された。
 カチっという小気味の良いこの音は、鍵が開いた音なのだ。

 次は扉を開かなければならない。
 ソルは、深呼吸をしながら扉の取手を握る。

 ガチャっと音がした。

 あとはこの扉を押すか、引けば良い。

ソル

いいか? まずは見るだけだぞ

 ソルが確認する。考えなしで行動する彼が慎重なのは珍しいと思ったので、エルカも気を引き締めるように深呼吸をして頷いた。

エルカ

わかっているよ。入った瞬間に扉が閉まったらここに戻れないものね。先に扉の先を確認して……大丈夫そうなら入る

ソル

扉の先が、家の廊下かもしれないしな

エルカ

そうだね

ソル

じゃあ、扉を開くぞ

エルカ

うん、手伝う

 二人は再度視線で頷き合う。

 そして、扉は開かれた。

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