02 不安と安堵

エルカ



 それは、何か大きなものが落ちた音だった。

 エルカは反射的に振り返った。
 砂埃と綿埃が立ち上がり、視界を覆い隠す。

 エルカは綿埃に火が燃え移らないように後退る。
 後退りながらも、警戒は解かないように砂埃の向こうを凝視した。



 目を瞬かせると、その煙の向こうに人影が現れるのが見えた。
 体系的に判断すれば、成人男性だろうか。
 悪魔の類かもしれないと考えたエルカは、身を強張らせる。

エルカ

(まさか、本当に魔王なの? お爺様がいなくなったから来たっていうの?)

ゲホ、ゲホ……

ソル

なんだ、これ、

 激しく、その人物が咳き込んでいた。
 その声に聞き覚えがあったので、エルカは目を瞬かせる。

 埃を吸い込まないように、口を抑えていたエルカが見たのは……

エルカ

え……ソ……ル?

 その人物はエルカのよく知る男だった。

 子供の頃のような、有り得ない妄想をしてしまったエルカは安堵する。
 心の中で思っただけで、誰にも聞かれていない恥ずかしい妄想だ。

 だけど、間違いではない。

 彼はエルカにとって、少しだけ恐怖を抱く相手なのだから、





 名前はソル・フラン。
 チョコレート色の髪と赤茶色の瞳の青年。血気盛んな十代の若者に見えてしまう外見だが、一応は二十歳である。
 彼はエルカの父親の再婚相手の連れ子、つまりは義兄。

ソル

え………エルカ? なん………ゲホ、ゲホ

 ソルはエルカを見た瞬間、目を見開いて、何かを言いかけて……再び咳き込む。

 その姿を何だか不憫に思いながら、エルカは口を開いた。

エルカ

ソ、ソル、どうして………降ってきたの?

ソル

は? き………気付いたら落ちたんだよ

エルカ

え? どう……いうこと?

ソル

お、オレが知るかよ!!

エルカ

………

 大声と共に視線を反らされたので、エルカは小さく息を飲む。

 エルカはこの義兄が苦手だった。

 記憶の中の彼は常に怒っていて、不機嫌を外にバラまいて生活していた。



 声も大きくて、それだけで怖かった存在。
 だから、なるべく近付かないようにしていたはず。



 曖昧な記憶のピースから、エルカはそのことを思い出していた。


 普段ならば、これ以上は彼に踏み込んではいけないところだが、今は状況が違う。


 この闇の中でようやく自分以外の誰かと会えたのだ。


 知らない誰かではない、よく知る人物。
 一人より二人の方が、不安は和らぐような気がした。
 だから、エルカは彼を怒らせないように、気を付けながら静かに声をかける。

エルカ

え……と……ソル?

ソル

あんだよ?!

 勢いよく睨まれ、身体を萎縮させる。
 そして、エルカは喉の奥から何とか言葉を出そうとするが、それは上手く言葉にならなかった。

エルカ

………ご、ごめんなさい。わ、私も、どうしてここにいるのか………ここがどこなのか、わからなくて……

 彼を目の前にすると、言葉が震えてしまうらしい。

 怒られたらどうしよう、殴られたらどうしよう、そんな思いがエルカの声を震えさせていた。

 その所為で、聞き取りにくい言葉になってしまって、それが相手を不快にさせてしまう。

 きっと、彼はとても怒っているだろう。
 エルカは目を細めながら、ソルの顔色を伺っていた。

ソル

わからない? 地下書庫はいつもいるだろ……それより……

 ソルは拳でドンっと壁を叩いた。
 それに反応して、天井からパラパラと土が降り落ちる。

 やっぱり怒っているのだ……とエルカは確信する。

 今の衝撃で壁が壊れたら、壁が壊れたら、崩れて、そのまま生き埋めになるだろう。
 もちろん、それはエルカの想像で実際は崩れる気配はなかった。

エルカ

……っ

ソル

ああ、お前には何もしないから、普通に話せって……怯えられると…………こ、困る

エルカ

 ソルは威圧的にエルカを睨んだままだ。
 だけど、勢いのあった声が次第に弱々しくなる。

 ソルは今も壁にガンガンと拳を叩きつけている。
 先程よりはずいぶん優しく殴っていた。


 エルカは曖昧な記憶の中から、彼の不器用な性格を思い出していた。

エルカ

(ソルも混乱している………ぶつける場所がわからない怒りを、わからないから壁にぶつけているだけ、私を傷つけないように、代わりに壁を傷つけているだけ……なんだよね?)

 そのことを本人に言えば、今度こそ暴れてしまうかもしれない。


 照れているときも、怒っているときも、暴れ出す面倒な義兄にエルカは微苦笑を向ける。

エルカ

えっと…………大きな音立てたよね。今のは……少しだけ、怖かったよ

ソル

あ、そうだよな……ごめん。イライラしていたから……今のは、自分を、落ち着かせるために気合い入れただけで

エルカ

………こういう状況だから仕方ないよ。でも、壁……落ちるかと思った

ソル

そこまで強くやったつもりは…………いや、悪かった

 ソルはパラパラと落ちる壁の土を見て、そしてエルカを見ると大きく肩を落としていた。

 義妹を怖がらせたことを、後悔しているのかもしれない。


 ソルの癇癪はいつものことだ。


 エルカは少しばかり過剰に怯えてしまったことを後悔して、俯いたソルの顔を見上げた。


 決して大きくないソルだが、十四歳にしては小柄なエルカとの間には身長差がある。



 だから、こんなに近くで彼を見るのは怖かった。
 だけど、これぐらい近くにいないと、孤独を感じて不安になってしまう。

エルカ

私も怖がってごめんなさい

ソル

……そういうこと、お前が気にするなよ……

エルカ

もう、落ち着いた?

ソル

大丈夫だ。落ち着いている

エルカ

本当?

ソル

ああ……

エルカ

じゃあ、もう一度聞くけど……ソルは落ちて来たんだよね?

ソル

ああ、よく覚えていないけど……足元に穴が空いてそのまま……どうして穴が空いたのかは……ごめん、覚えていない

エルカ

うん、大丈夫。私も同じ……私も、どうして自分がここにいるのか分からない。ここが、どこかも分からない

ソル

ここは地下書庫だろ? ここが分からない……ってどういう意味なんだ

エルカ

ここは地下書庫だよ………たぶん

ソル

多分?

 不安そうな返答に、ソルは訝しむような表情を浮かべる。

 今度は、エルカの話を聞いてくれるだろう。
 それに、エルカも落ち着いたから冷静に話ができる。


 目を細めたソルに、小さく頷いて例の扉を指さした。

エルカ

これを見るのは初めてなの。こんな扉はなかったよ。ソルは見覚えあるかな?

 上目遣いでソルを見上げると、ソルはこめかみに人差し指を当てて、『うーん』と唸り声を上げた。

ソル

……オレがここに来ていたのは、じいさんが生きていた頃だぞ。お前が見ていないものを、オレが見ているはずない

エルカ

そうだよね……今の私には気になって仕方のない扉。だけど、私もソルも記憶にない扉……もしかすると、お爺様の地下書庫にはなかった扉っていうのが正解なのかも

ソル

じゃあ、どうしてここにあるんだ?

エルカ

……その答えは、扉を開けばわかることだよ

ソル

開けたいのか?

エルカ

……うん。わからないけど、【開けなきゃ】……って思うの

ソル

お前、ここが怖くないのか?

エルカ

怖かったけど、今は怖くないよ。多分、一人じゃないからかな?

ソル

何言うんだよ

エルカ

二人なら、怖いことも半分にできるから

 エルカの言葉に、ソルは顔を赤くして視線を逸らす。


 ソルと再会してから、先ほどまでのような息苦しさは感じていない。
 どちらかと言えば、安心感のようなものを抱いていた。


 普段はあんなに怖いと思っていたのに、今は恐怖より安堵が強かった。
 それは、とてもフワフワとした不思議で心地の良い感覚。

 しかし、完全に安心はできなかった。
 扉を開かなければ……という圧迫する思いはまだエルカの中に蠢いているのだから。

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