01 閉ざされた扉
01 閉ざされた扉
それは突然の目覚めだった。
(……何? この扉……私、知らない……それに、ここはいったい………)
見覚えのない扉の前にエルカは立っていた。
眠っていたという感覚はなかったが、目覚めたという自覚はある。
つい、一瞬前までの出来事が何かで切り捨てられたような感覚に眩暈を感じた。
着ているものは部屋着だけど、何故か靴を履いている。
いつから、いつの間に、どうして自分は、ここに居るのだろうか。
この扉は何なのだろうか、何のためにそこにあるのだろうか。
エルカは少し考えたが、思い当たるものはなかった。
右も、左も、後ろも、天井も、足元も黒一色の世界だった。
どうやら視界に捉えることが出来るのは、この扉だけのようだ。
扉と自分を照らす灯りは見当たらなかった。
灯りが見当たらないのに、自分と扉だけが見えるらしい。
押しよせてくる不気味な感覚が、背中を溶け掛けた氷で撫でる。
ジリジリとした息苦しさと、理解のできない圧迫感にエルカは苦笑いを浮かべた。笑うことで、気を紛らわした。
暗闇の中にエルカと扉だけが浮かんでいるみたいだが、浮遊感というものは感じられない。
だけど、床に足をつけて立っているという感覚があった。
床は見えない。だけど、木の板のようなものの感触はある。
しかし、どんなに目を凝らしても、そこには黒一色の空間があるだけ。
自分の足と靴は見えるのに、肝心の床が見えなかった。
扉以外は漆黒の暗闇。
それが、今のエルカの目に映る世界。
不気味さを感じながら少しずつ近付いた。
恐る恐る扉に触れてみる。
冷たく硬い鉄の感触と、フワッとした綿埃が指先にまとった。どうやら、この扉は鉄で出来ているらしい。
(わ……汚い)
不快感に眉根を寄せて、慌てて手に付いた埃を落とした。
パラパラと舞う白い埃は、床に落ちることなく、そのまま闇の中に吸い込まれていく。
………
エルカは目を閉ざし思考する。
確認することは、自分が何者なのかということ。
名前はエルカ・フラン。
年齢は十四歳。家族構成は兄が二人。他に父親とその再婚相手。実の母親とは別居中で十年程会っていなかった。数年前に亡くなった祖父は偉大な魔法使いだった。
半年前までは学校に通っていた。平民と貴族が共に生活するそこは、差別社会が当たり前。魔法使いであるエルカに友人と呼べる相手はいなかった。
だけど、話し相手になってくれた男の子がいた。黒髪の目立たないルイという男の子だ。
(だけど、彼も人間。魔法使いと人間は相容れない関係にある。私たちは……確かケンカをしてそれっきり。他にも………嫌な思いをたくさんして、そして、そして……もう嫌になった…………あれ? 何が……あったんだっけ)
ふいにエルカは思考を止めて首を傾げる。
何があったのかが思い出せなかった。
それは、とても嫌なことがあった気がする。きっと、嫌なことを言われたのだろう。
身体を傷つけらることは滅多にない。だけど、心は散々傷つけられた。
何を言われたのかは思い出せない。
だけど、自分の心が傷つけられたことは覚えている。
頭が割れそうなほどの頭痛と、胸の奥の痛みが治まらない。
(嫌なことを言われて、誰も助けてくれないことを知って……学校に行くのは嫌だから、ここに引き篭もっていた)
エルカは学校に通うことを放棄して、祖父の遺した地下書庫に引き篭もった。
これが不登校と退学の理由。
そのはず……
何か大切なことを忘れているような気がして、胸がモヤモヤする。
エルカは胸に手を当てて考える。思い出す。
(他にも理由があった気がするけど……何だったろう)
考える、
考える、
考える、
でも……
(……思い出せない……)
ただ、頭が痛いだけで何も見えなかった。
だから別のことを考える。
自分好きだったことを考える。
そうだ、エルカは本を読み、周囲の喧騒を拒絶して、ただ自分の世界に浸る時間が好きだった。
(あの時だって、そうだった……)
エルカはいつものように、祖父の地下書庫に引き篭もって本を読んでいていた。
そして、それから、どうしたのだろう。
(………【あの時】っていつの時のことなの? わからない)
自分の名前は覚えていたから記憶喪失ではないと考えていた。だけど、肝心なことを忘れている。記憶はあるのに何かが抜けている不安が湧き上がる。
声は出せるから、助けは呼べるだろう。だけど、助けてくれる相手がここにはいない。助けてくれる相手なんて、居たのだろうか。
そんなの、わからないよ……
エルカは頭を抱えてしゃがみ込む。すると、目の前の白い棒状の何かに気付いた。
(これは……ロウソク?)
それは、確かにロウソクだった。
それだけでは役に立たないが、幸いにもエルカは火を灯す手段を持っている。
……これぐらい、私にも出来るよね……私だって魔法使いの孫なのだから
両親の才能の程は分からないが、祖父は偉大な魔法使いだった。
魔法の使い方を教えられたのは祖父が生きていた頃だ。思い出しながら、ロウソクに手をかざす。
次は、目を閉じて意識を集中して、ロウソクに灯される炎をイメージする。
勇ましき炎の精霊サラマンダーに我は願う……ロウソクに炎を……闇を照らすともしびを……お願いっっ
魔法は精霊の協力を得ることで発動される。
祖父が生きていた頃、練習で風の魔法を使ったことはあった。
風の精霊は少し気まぐれで悪戯好きで、幼いエルカを困らせたが最後には力を貸してくれた。
だけど炎の魔法は初めてだった。
果たして、炎の精霊がエルカの声に答えてくれるかが不安だった。
祖父の死後は魔法修行も怠っていた、劣等生で未熟な魔法使いのエルカの願いを聞いてくれるだろうか。
だから、エルカは強く願う。
しばらくの静寂の後、ボッと音を立ててロウソクに火が灯された。
魔法は成功したらしい。
ありがとう、サラマンダー
それは、小さく優しい炎だった。
未熟なエルカは精霊の姿を認識することは出来ない。けれど、炎に目線を向けてそこにいるであろうサラマンダーに微笑みかける。
すると、ロウソクの炎が左右に揺れた。
エルカの感謝の言葉はサラマンダーに届いたらしい。
エルカはロウソクを手に立ち上がると、調査を再開させる。
ロウソクのお蔭で、一段と視野が広まる。
今まで見えなかったものが、少しずつ見えてきた。
土色の壁があった。
机のようなものも見える。
ここは、どこかの【部屋】なのだろう。
(ここの雰囲気には見覚えがある。きっと、お爺様の地下書庫だね)
記憶がぼやけているから、はっきりとは断言できない。
だけど地下書庫は、こんな感じだった気がする。
歩くと軋む床。壁や天井の汚れにも見覚えがあった。
ここは慣れ親しんだ場所のような気がした。
そう思うと、少しだけ安心できる。
(だけど………何かが違う)
エルカの中に不安な気持ちはまだ残っていた。
地下書庫のことをエルカは、家族の誰よりも知っている。
だからこそ分かるのだ。地下書庫にこの【扉】はないはずだ。
(私、どうしてこの扉の前にいるの?)
エルカは最初の疑問について再び考えていた。
だけど、目覚める以前の記憶が穴だらけで、特に直前の記憶に繋がるものがなかった。
……痛い……
更に、最後の記憶を思い出そうとすると、激しい頭痛が襲い掛かった。
何かが、見えそうで見えない。
何かを、ノイズのようなものが遮る。
頭が何かで締め付けられるような感覚。
思い出してはいけないものが、そこにある……そんな気がする。
ゴメンナサイ
ごめんなさい
誰かが繰り返し叫んでいた。
謝罪の声が頭の奥に響いている。
男の声か女の声かも分からない声が反響していた。その声は、誰のものだったろうか。
考えると、ガンガンガンと何かで殴られるような、激しい頭痛が襲い掛かる。
……
ゴメンナサイ
ごめんなさい
瞼をきつく閉じると、その声は遠くに消えていった。
エルカは大きく息を吐き出した。
呼吸をすることが苦しい。
無意識に扉に手をかけて、フラついた身体を支えた。
埃が汚いなんて、もうどうでもよかった。
――――開けなければいけない
――――進まなければいけない
根拠はないけれど、そんな気がしたのだ。
————開けなければ……行かなければ
扉は簡単に開くだろう。
だから、扉の取手に手をかけた。
早く、この息苦しさから解放されたい。
扉を開けば、この苦しさから解放されるはずだから。