井上当吾

別れを告げに……?

小笹小百合

……忠孝さんの事は本当にお慕いしておりました

小笹小百合は静かに息をついて、ゆっくりと
コーヒーを手に取った。

小笹小百合

華道の関係で出会ったのは事実です。とても作品はその……わたくしのとは違い創造的でしたが

井上当吾

創造的、ねぇ

小笹小百合

出会って……先に惹かれたのは、わたくしの方です。わたくしが、忠孝さんに付きまとったのです

井上当吾

……こう言っちゃなんなんだが……

小笹小百合

いえ分かります……わたくしのような人の事を、枯れ専、などと呼ぶのでしょうか?

井上当吾

……いや、悪い。つまり、あちらさんから迫られて嫌々ってわけじゃないんだな?

小笹小百合

ええ……

小笹小百合

あまりにも年齢差が大きい、と思われるでしょうが、わたくしにとっては優しく、強く、格好の良い方です……いえ、そういう方だと思っていました

小百合の顔色はずっと暗い。

存じ上げませんでした…… 

……いえ

居ない、と聞かされておりました

小笹小百合

……奥様も、子供もいらっしゃらないと、わたくし、聞いておりました……!!

井上当吾

小笹小百合

わたくしは……わたくしは!!! たとえ好きなお方でも! 妻子おありの方と交際などいたしません! するつもりはございません!

あの時わたくしは忠孝さんに、もう会いませんときっかりお伝えしてきたのです!!

井上当吾

……なるほどな

小笹小百合

……お見苦しいことをお聞かせしました

でも、わたくしは……

井上当吾

……あんたがまだ但田忠孝を好きなのは分かるが、その不当性は分かるな?

小笹小百合

……はい

井上当吾

……ま、話はここで終わり。実質何もあんたらの間に無かったんなら、何に問われることもないさ

小笹小百合

……刑事さん、私は……

井上当吾

終わりったら終わりだ。そもそも不倫は刑事事件じゃないんだよ

……

小笹小百合

……刑事さん。忠孝さんは本当に、事故なんでしょうか

井上当吾

事故だろうな。
気になることはないでもないが……

小笹小百合

気になる事?

井上当吾

……ま、さっき言っちまったことだし良いか

井上当吾

一つ聞かせてくれ。事件の日にあんたは二階に行ったんだよな?

小笹小百合

はい……そこで忠孝さんに……

井上当吾

降りるとき、階段で降りたか?

小笹小百合

……? はい、階段を使いましたが 

井上当吾

なら、やっぱり妙だ

何故、エレベーターは下で止まっていた?

井上当吾

俺が現場で見たとき、エレベーターは下の階に止まっていた。階段から落ちたんなら忠孝は上にいたんだろう? そして落下を聞きつけてやって来た階下の人が上に登ったりエレベーターを開く必要も無い。 どうして下に止まってた?

言っておくが、鑑識だって現場保全の為でもエレベーターは使わない。ただの事故だと思っていたんだしな

小笹小百合

あっ……そういえば、わたくしが訪ねたときは、エレベーターは上で止まっていました

井上当吾

憶えてるのか?

小笹小百合

はい。記憶力には少し自信が

井上当吾

……それで無意識に「予言」できているのかもしれないな

小笹小百合

でも、家族の誰か、あるいはヘルパーさんが上り下りに使ったのではありませんか? アリバイがあるのは落下時の話で、わたくしが帰ってから事件が起きるまで時間はあったのですよね?

井上当吾

何故だ?

小笹小百合

えっ?

井上当吾

階段で移動しなかった理由は?

小笹小百合

それは……エレベーターの方が楽だった、荷物があった、などでは……?

井上当吾

まず前提として、家族が上階に上ることはあまり考えられない

井上当吾

全員女性関係のトラブルでガイシャを嫌ってる。あんたという女が訪ねてきた直後に、上に行く気になるか? それも、普段ガイシャばかりが使ってるエレベーターをわざわざ使って?

小笹小百合

あっ……

井上当吾

となると行く可能性があったのはヘルパーってことになるが、客でもないヘルパーが使うのか、って疑問が出てくる

面倒だからと使うのか?
掃除用具程度で大荷物?

ま、別に使っても構わないが、ヘルパーが電話したんだから、警察沙汰になったのは知ってるんだ。それなのに俺が行ったときに居たのは家族だけ。つまりヘルパーは帰っていた。聴取を受けると思ってなかったわけだ

疑われるのを恐れていない理由は、そもそもその日、上になんて一回も行ってないから、じゃあないか?

井上当吾

……というのが俺の、刑事のカンだ

小笹小百合

なるほど……

井上当吾

ま、それもまだ推論。ぶっちゃけあんたの話を聞くのが先で、まだヘルパーには話聞いてないんだけどな

井上当吾

だから、まだ「気になる事」。
案外ヘルパーがものぐさで、いつもエレベーター使ってるのかもしれないし、あの家族があんたみたいな未成年を連れ込んだガイシャに一言文句でも言いに上った可能性もある

後は、間違って誰かが階下のボタンを押しただけかもしれないからな

当吾は、喋り通して渇いた喉にコーヒーを流し込んだ。

本当は紅茶の方が好きなのだが、舐められないように
自分の強面にプラスして威厳を与えるため
今はコーヒーを飲んでいたりする。

井上当吾

嫌いじゃないが、焦がした豆よりハーブっぽい香りの方が好きなんだよな

小笹小百合

……刑事さん、私も気になることがあるのですが

井上当吾

ん?

いろいろと渋い趣味を持っているらしい小笹小百合は、
そういう視点で見れば似合いのブラックコーヒーを、
ゆっくりと味わって飲む。

小笹小百合

車椅子で階段から転げ落ちたはずなのに、階段に何も傷がついていないということはあり得るのでしょうか?

井上当吾

ふむ……

当吾は頭に手をやった。

正直なところ、それはあまり聞かれたくない
質問だったりする。

井上当吾

分からん

小笹小百合

分からない?

井上当吾

…………あんたの証言が信ぴょう性なしと思われること、三人全員が互いのアリバイを証言してること、怪しい痕跡がないこと

総合すると警察としては、これを事故として考えて、事件の時にするような検証をしてないんだよ。今の時期そんなに暇じゃないし、よくある事ではあるからな

言い訳をしながら当吾は、自分の中に眠る
これをただの事故として処理することに
納得していない本心に気づく。

――もし小笹小百合の証言が無ければ、
表に出ることもなかっただろう思いに。





捜査方針に自分の疑問が潰される。


警察に与していれば、そういう体験は
あまりにもありふれている。

刑事ものの二時間ドラマなんかはあまり正確ではないが、
納得のいかないまま事件が事故として処理される時の
刑事の苛立ちや現場の気怠さにはなかなか
共感するものがある、と当吾は思っている。

もっとも昼行灯(ひるあんどん)とまで言われる刑事に
そういった事件で苛立つ状況など
そうそう訪れはしないのだが……

小笹小百合

……私の証言さえ崩れれば、事件性無しになるんですね

井上当吾

そういう事だが――

小笹小百合

ではわたくし、証言を変えます

井上当吾

はっ?!

小笹小百合

「電話口で通報したときにはわたくし、後ろめたさからひとつ嘘を吐いておりました」

「嘘と言うのはわたくしが、車窓から事件を目撃したのではないということです」

井上当吾

何言って……

小笹小百合

「わたくしは『覗き』をしておりました! 但田忠孝さんを愛していたからです。その日家を訪ねた直後でしたが、名残惜しく、忠孝さんをもっと見ていたいと人気のない道から二階の窓を見続けていました!」

井上当吾

おい、せっかく穏便に済ませようとしたのに、そんな証言したらあんた達の関係がバレる――

小笹小百合

構いません!

――それでわたくしは、突き落とされる忠孝さんを見て、とっさに警察に電話しました

小笹小百合

……これなら、事件性を主張する証言になりますよね?

警察の方が勝手に結論を出してしまわれるなら、わたくしも勝手にさせていただきます!

井上当吾

おいおい……

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