井上当吾はヘルパーの派遣事務所に来ていた。
担当者は電話中で、しばらく待たされているところだ。
ったく、面倒なことになった
井上当吾はヘルパーの派遣事務所に来ていた。
担当者は電話中で、しばらく待たされているところだ。
まさか、あんなことになるとはな……
「予知」をするという不思議な高校生、
小笹小百合との対話は、
とても芳(かんば)しくない形で終わった。
わっ、わたくしは……諦めません!
わたくしは「予知」を信じています! 忠孝さんは突き落とされたのです!
それを認めてくださらないなら、わたくしは、さきほどの証言を変えません!
……って言われちまうとなあ
クソ。もっと論理的で非情に動ける刑事になりたかったぜ
……奥様も、子供もいらっしゃらないと、わたくし、聞いておりました……!!
わたくしは……わたくしは!!! たとえ好きなお方でも! 妻子おありの方と交際などいたしません! するつもりはございません!
あの告白を聞いてしまった当吾には、もう
小笹小百合の「不倫」を責めることはできなくなっていた。
彼女のしようとしているのが偽証罪にあたるとしてもだ。
まだ若いんだ。
あんな事言って、わざわざ自分に傷をつける必要はないってのに
「予知」。
当吾にはもう、客観的に小笹小百合の証言を
嘘だと断じることができない。
冷静に考えれば「予知」よりもそちらの証言の方が
理にかなっているからなおさらだ。
となれば、偽りの証言は本物として
取り上げられてしまうだろう。
あの調子では、当吾が一瞬握りつぶしても
警察署に出頭しそうだ。
彼女にバカな真似をさせない……
……あの証言をさせないためには、
証言に頼らずに事件か事故か、
きっちりと納得できるだけの証拠を見つけて
小笹小百合を納得させる必要があった。
何でこう、面倒な役回りになるかねぇ
……お待たせしました、刑事さん。
あの日但田さんの担当だった馬場ですが、もうすぐ事務所に戻ってくるそうです。それまでに何か、私でお話しできることがあれば
それはどうも。
確か、馬場羽香葉(ばば わかば)さんといいましたね?
はい。馬場さん、真面目な仕事ぶりで去年には社内の勤労賞も取っているんですよ
事件の時も速やかに通報いただいたと聞いています
……時間当日、馬場さんから事務所に連絡は?
ありました。警察に連絡した直後だとか
その際、何か気になった事はありませんでしたか?
……気になったこと?
といいますと……?
ああいえ、そうかしこまらずとも大丈夫です。何か電話口の向こうから音が聞こえたとか、そういうことは?
事故の捜査なんですよね? 電話のときにはもう、その……
前後の出来事も含めて確認することになっているんですよ。いろいろありますからね
いろいろ……
「いろいろ」です
当吾の目は、彼女の目が
好奇を宿すのを捉えていた。
大抵こういう人間は
ゴシップや醜聞が好きなものだ。
……あまり、よく聞こえなかったんですけど。電話口の向こうから色々聞こえてしまって
例えば?
あ、聞き耳を立てていたわけじゃありませんよ! でもその……馬場さんと女の子の大きな声が聞こえて、びっくりして
女の子。孫の忠美か
……ええ、それで、警察の方には連絡したのですが……
……っ!
お嬢さんいけません! こちらに来ないでください!
はあ?!
何だっていうの!
何かあたしたちに見せたくないものでもあんの?
ああ、あんたもあの人とデキてるんだもんね!
なっ……
……そう聞こえたんです
なるほど、貴重な情報ありがとうございます
あの、私が言ったって
もちろん情報提供者のことは公開しませんよ
良かったぁ
……うーん、大した話は出てこないか
当吾がため息をついたとき、
事務所のドアが開いた。
た、ただいま戻りました
あ、お帰りなさい
……ん、これはどうも。私は……
戻ってきたヘルパーにまずは自己紹介をしようと
口を開きながら立ち上がって顔を向けて、
当吾の言葉はそこで途切れる。
聞きたかったのは発見当時の詳しい状況に、
できれば自分の疑惑のエレベーターの事ーー
だったのだが。
「そんな事」は今その瞬間
どうでも良くなっていた。
え、どうしましたか……?
わ、私に何か
黒シャツに、薄い藍色のジーンズみたいなズボン……?
それが、おたくの制服なのか?
えっ?
確かにうちでは、この格好が基本になっていますが、何か?
基本? 多少変わってもいいのか?
原則はこの格好なのですが、お客様に差し支えありませんでしたら、多少は……
全く別の服着ていくようなケースはあまりありませんけど、重衣(えごろも)さんとかは冷え性らしくて、暖かい日でも首までのセーターみたいなの着て行ってますよねー
首までのセーター……
その重衣というヘルパーは今どこに?
えっ? ええと……今日は仕事が入っていないので、来てませんね
……
黒い首までのセーターに、薄い藍色のジーンズ。
それは小笹小百合が「予知」した、
犯人の格好だ。