日は傾き、ゆうなはとぼとぼと帰路を歩いていた。写すべき原本の残りは半分もなく、あと四日もつかどうかのところだった。

これから、どうするのが良いのだろうか

通常の平民ならば、農業に従事するのが大抵だ

だが、駆け落ちである僕の家には耕すべき土地すらない

とばりのような専門職に就く手もあるが、技術を身に付けている時間はない…

 考えあぐねながら家に入ると、先ず始めに台所に向かった。
 職を失った彼は、手持ち無沙汰な状態で妹に顔を合わせる気にならなかった。

 薬湯を火にかけながら、水面に映った自分の顔を眺めた。黒々とした鍋に映るその顔は、余りにも朧げで、頼りないものであった。

かつて、ののが言った科白がある

お兄ちゃんが写字生になれて、本当に良かった、と…

 ゆうなの心の中に、釘となって刺さっている言葉だった。この言葉は写字生であるゆうなを支えた。同時に写字生である彼を縛り付けている言葉でもあった。

 彼は辛苦を噛みしめながら、水泡の弾ける水面を見つめた。

 出来上がった薬を容器に入れると、妹の扉の前に立った。

免職を受けたことをどう報告するか、考えなければならない

そして、それを聞いた妹がどういった反応をするのかも…

 扉の表面に拳を当て、二度叩いた。
 返事はなかった。寝ているのかと思い、そっと取っ手を開くと、すぐにその予想が外れていたことに気付いた。

 左手から、何かが滑り落ちていくのを感じた。薬湯の入った容器が、大きな音を立てて床に落ちた。

 床に液体が散らばったが、彼は気に留めなかった。より重要な液体が、寝台に散らばっていたからだった。

 それは紛れもなく、ののの血だった。

 ゆうなが今までに見たこともない、大量の血が、布団の上に散開していた。

 その上には妹が、ぐったりと座っている。

……

 髪は乱れ、貌は青白かった。ぜいぜいとした荒い呼吸音、見開かれた黒色の目が、彼女が身悶えするような、激しい苦痛に耐えていることを物語っていた。

のの

 ゆうなは叫び、駆け寄って彼女を支えた。彼女は激しく息をしながら、血を吐き続けた。
 どろりとした赤が、絶え間なく胸元を汚していく。

一度発作を起こしてしまえば、打つ手はない…!

 彼女の身体を支えながら、空しく名を呼んだ。

 少女の華奢な背中が、今にも倒れてしまいそうに震えていた。瞳は苦痛を忍びながら、床の一点を見つめている。

何故、もっと早くに彼女の様子を確かめなかったのか

何故、部屋に入ることを躊躇っていたのか

 沸き立つ自己嫌悪と罪悪感に、彼は目の前が真っ暗になっていくのを感じた。

 妹を支えていた手が、緩んでいく。

 薄暗い部屋の中、ゆうなは立ち竦んでいた。

 途方に暮れることしかできなかった。どうか妹を死なせないでくれと、神に懇願するしかなかった。

 床に転がった薬の容器が、黙ってゆうなを見上げている。

あとどれだけだ

どれだけ、妹は持つのか

送ってくださり、ありがとうございました

とばりは上司に礼を言うと、俥(くるま)の上から降りた。

 夕日が地平線に沈む刻の頃だった。先程まで青かった空は、闇を濃くして黒ずんでいる。

 立ち去りゆく俥を見送りながら、彼は東午ノ村の門扉を通った。

ゆうな、あの時はつい苛立ってしまったが、お前は気にしていないだろうか

こんな夜になると、人の感情の機微がいやに気になってしまう

 とばりから見たゆうなは、何を考えているか分かりづらい、不可思議な少年だった。

 しかし彼の内に秘められている「出来ない」という気持ちを、とばりは見抜いていた。

 それに対して苛立たせられることも数度あった。
 だがいつも冷静な判断で反論するだけに、とばりは彼を説得しきる事ができなかった。

確かに、刻印童子の力を借りることは難しい

現状の把握、判断に関してはゆうなが正しいのかもしれない

が、あいつが自ら幸せを遠ざけているように感じられて仕方がない

 考えに耽っているうちに、自宅に着いた。ため息を吐いて床(とこ)に座った。

 母親が夜食を用意する音と、義妹がどたどたと走り回る音を聞きながら、変わらない日常だと実感する。

 こうしている間にも、ゆうなの妹は刻一刻と命を削っているのだろう。

……

 机の上に置いてある真っ赤な林檎が目に入った。
 とばりが東午ノ村に越してきた際、初めてゆうなに贈った食べ物だった。

 当時のゆうなは、ひどく孤独の人間だった。誰とも遊ばず、常に難解な書物を読んでいるような子供だった。

お前、いつも本読んでるな

誰かと遊んだりはしないのか

周りの子供とは合わないんだ

でも、今日は楽しかった

ゆうなは頑固者だが、働きかけることは、全くの無意味ではない

あいつの恵まれない性質を、何とかしてやりたいが…

そのためには、真髄である妹を、何としてでも死なせてはならない

 とばりは寝台に寝転がった。刻印童子のことについて思いを馳せていると、不意に玄関がどんどんと叩かれた。

 十八刻だというのに珍しいものだ。体を起こし、出ようとする母親を押し止め、玄関を開いた。

 どう、という音と共に、 生ぬるい風が、屋内に吹き込んできた。深い闇が姿を現す。

 横にあった燭台を取り、前方を照らした。
 ぼんやりとした明かりが、闇に近づくにつれてその存在を溶かしていく。

 それは木彫りをするように、来訪者の影を削り取っていった。

……

 闇の先には、顔を蒼白にしたゆうなが立っていた。
 外套は羽織っておらず、着の身着のままで来たという感じだった。

 髪はぼさぼさに崩れ、長い前髪が簾のように彼の顔を覆い隠していた。

 顔は強張り、前髪の隙間から、妙に見開かれた目がとばりを見つめている。

いつもの彼ではない

 暗い暗い闇に見つめられ、とばりは愕然とした。玄関先にあったのは、蝋燭の光で照らせるだけの暗闇でなかった。

…どうした?

……

 ゆうなはすぐに答えなかった。ただ着物の隅に血が付着しており、とばりはただならぬ出来事が起こったことを察した。

ののさんに、何かあったのか

 ゆうなは唇を閉じてこっくりと頷いた。
 胸がひやりとするのを感じた。

 外に出てゆうなの家に駆けつけようとすると、ゆうなが腕を掴んで左右に首を振った。

今、落ち着いたところだから

それよりも、早く話を済ませたい

 冷たい声が、とばりに囁きかける。

何の話だ

 ゆうなは初めて顔を上げ、とばりに目を遣った。

 闇の色が、再び彼を穿った。雨が降った後の泥濘を、何もかも呑み込んだような底無しの色だった。

 彼は口を開き、低い声で言った。

刻印童子のことを、教えてくれ

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