午後になったかという頃のことだった。

おい

 仕事場の扉が開き、ゆうなの上司が姿を現した。

 詳しい役職は不明だが、ゆうなに仕事の指示をよくする男だ。

 彼は巨体を左右に揺らし、ゆうなの席に近づいて来た。
 苛立ちの籠もった呼吸音と足音が迫ってきて、ゆうなは振り向いた。

何でございましょう

 男は鼻をふんとならし、言葉の大剣でゆうなの首を薙いだ。

お前、その本を写し終えたら、もう仕事場には来るな

…!

 突然の解雇の言葉に、ゆうなは硬直した。
 一体どういうことなのか。一瞬のことに頭が真っ白になった。

理由をお訊ねしても宜しいでしょうか

先ほど、上からの指示があった
小汚い平民などを図書館に入れるなと

苦情…
先程の、派手な着物の少女か?

その点に関しては、一般人の目に触れないということで了承を得ていたはずですが

一般人だけじゃない
周りの写字生にも害だから解雇しろ、だとよ

先刻、若い娘さんがこの部屋に来ただろう
図書館長の娘だ

もうじき十五の成人、今後、此方の管理者となる

その彼女が、お前を目障りだと言っているんだ
もうあきらめろ

 ゆうなの脳裏に、るりはの見下した笑顔が浮かんだ。

やはり、あの娘か

突然の入室と好き放題な振る舞いから、ただの来訪者ではないと思っていたが
まさか図書館の娘だったとは

若い娘の判断だ、覆すのは厄介だろう

何とか雇って頂けることはできないのでしょうか

無理だな
例えお前の仕事が余程優秀でも無理だろう

ですが

 ゆうなは唇を噛み締め、顔を上げた。

お願いです、それだけは

写字生というのは特別な職業だ

簡単な諾の言葉で引き下がるわけにはいかないんだ

うるさい
こちとらあの娘の相手するだけで十分なんだ

それに、おれだってお前の顔を見るのにはうんざりしていたんだ

ここを辞めたらわたしには、食べていくお金がありません

父も妹もです
後生ですからどうか…

お前の家計の事なぞ知るか

そこをどうにかして頂きたいのです
写字だけでなく、下働きでも何でも致しましょう

採用されたからには、まだまだご検討の余地があるのではないですか

 ゆうなが息巻いた瞬間、腹部に拳が飛んできた。彼は呻き声を上げた。

 見上げると男がふうふうと息を鳴らし、青筋を立てて見下ろしていた。

煩いと、何度言ったら分かる

 後ろから貴族の笑い声が降りかかった。

何を喚いている、見苦しいぞ、平民

おれたちも目障りだと思っていたんだ。さっさと出ていけ

 ゆうなを誹謗する言葉は、扇のように広がった。

しかし、…

 何かを言おうとしたが、続く言説は出てこなかった。男が側にあった本を掴み、ゆうなに振り上げようとしたからだ。

 怖れで体を強張らせると、男は腕を振り動かし、本を壁に叩きつけた。

 右耳に触れるか触れないかの位置に本が当たる。本はばさばさと音を立て、床に落ちた。

黙れ

彼を説得するには、意思が頑なすぎる

加えて、誰一人味方のいない状況

どれほど効果的に説き伏せても、周囲の哀れみに頼ってみても、場は満場一致で退職の方に傾くだろう

でも

この職は…ぼくが兄として胸を張れる、たった一本の命綱なんだ

無様でも、何でもいい

簡単に手放すわけにはいかない

 ゆうなはがばりと身を伏せ、その場に跪いた。

お願いです、この通りです

しつこいぞ

 男が足を床に叩きつけた。そのまま歩み寄り、ゆうなの眼前に影を落とす。

殴られるか

 彼は身を固くした。
 しかし男が放ったのは、やけに落ち着いた声だった。

お前がここで土下座したところで、あの年若い娘が納得すると思うか

この場にいる全員がお前を煙たがっている状況で、平穏に仕事が続けられると思うのか

 心の底からひやりとした。男が言ったのは冷静な現状の分析だった。それはゆうなの心を屈させるのに、何よりも有効なわざだった。

その、通りだ

彼が言ったのは、ぼくが考えていたこととまるで同じ

誰が見ても、解雇は免れられない

あきらめるしかないのか

暴力でもなく、人の言葉に負けて、あきらめるのか

そんなのは、嫌だ

嫌なのに、言葉が出てこない…

 彼は苦虫を噛み潰したような顔で、以下のように言うしかなかった。

免職は…この本を写し終えたら、ですね

そうだ

そかと言ってちんたらやっていたら減俸だからな、覚悟しておけ

相手に負けたのか、自分に負けたのか分からない

ぼくは本当の意味で、無能になってしまった

 ゆうなはできるだけ落ち着こうと努力しながら、作業机に向き直った。取れたと思った胸の支えが、再びせり上がってきている。
 息苦しさを覚えながら、写字を続けた。

 あと少し。この本を書き終わるまでに、道筋を見出さなければならない。

 でなければ、本当に刻印童子に縋るしかなくなるだろう。

pagetop