しばらくゆうなが写字を進めていると、後ろから図書館には似つかわしくない大声が響いた。

あらあ、ここが図書館の裏側あ?

 突然響いた声に、ゆうなや他の作業員たちは振り向いた。

 狭い仕事場の出入り口に、すらりとした若い娘が立っていた。

 ゆうなと同い年か、それ以上といったところだろうか。茄子紺色の上質な着物を纏い、頭には花模様の髪飾りをくっつけていた。

あらら、中は案外汚いのねえ

 まるで外の人間に聞かせるような大声だった。

 少女は方々から向けられる驚愕の視線をまるで意に介すことなく、部屋中を一瞥した。

 と、彼女の後ろからもう一人、少女が出てきた。

ちょっとるりは、声が大きいよ

 その少女を見た瞬間、ゆうなは眉をぴくりとさせた。

あの子は、昨日通りで衝突した…

 少女の方もゆうなに気づいたらしく、目を丸くして声を漏らした。

あっ

なあにひゆな、知り合いでもいるの

 衝突した方の少女はひゆなと言うようだった。

い、いや

べべべべつに!?

 彼女はゆうなの視線から逃れるように、るりはの陰に隠れてしまった。

平民と知り合いだなんて知られれば、彼女の沽券に関わるだろうな

 るりはは、先ほどからこちらを向いているゆうなに気付いたのか、再び声を上げた。

あそこにいるの、何だか平民みたい

 ひゆなの肩がぴくりと上下した。

 るりははゆうなの方につかつかと歩み寄ると、頭からつま先までじろじろと眺めまわした。

ふうん、こんなの雇ってるんだあ

 るりはの声音に驚嘆の色はなかった。ゆうなは彼女の声から嘲りを、表情から嫌悪感を、目から好奇心を感じ取った。

きっとこの子は、棘のある蔓のように絡んでくるだろう

ねえあなた、この職場はどうなの

 るりはの問いに、ゆうなは落ち着いた声で答えた。

どう、とは

全体の印象を聞いているのよ
言葉通じないの

静かで良い職場であると存じます

 予め用意されていたような台詞がすらすらと出てきた。
 るりははふうん、と口元で言い、更に質問を続けた。

ねえあなた
汚い、って言われない?

るりは、あっち行こうよ

 るりはの声を遮ったのは、ひゆなだった。彼女はるりはの袖を引っ張り、部屋の外を指し示している。

うるさいわね
今、話し途中なんだけど

そんなに行きたいなら、一人で行ってきなさいよ

………

 るりはの辛辣な返事に、ひゆなは顔を強張らせるしかなかった。

ねえ、どうなの、言われるでしょう

言われます

 ゆうなの声は書物を音読するようだった。

そうでしょうそうでしょう!

着物は薄汚れてるし、髪はぼさぼさだし、最悪ね

 るりはは満足げに言い、踵を返した。

勝手なことを

 ゆうなは彼女を悪意の籠る目で見送った。

 部屋にはゆうな、そして作業に戻ろうと努力する貴族たちが残された。部屋全体に沈黙が訪れる。

 ゆうなも作業の為、再び机に向き直ろうとした。

 と、後ろからひゆなの声がかかった。

あ、あの……

わわ、私の連れが失礼しました

 ゆうなは筆を置き、体ごと少女の方を向いた。

 目の前に、深く俯く小柄の少女が立っている。
 表情は翳り、唇はぎゅっと結ばれていた。低い姿勢は、小柄な少女を一層小さく見せていた。

何を謝るのです

 震える少女と、一貫として冷静なゆうなでは、まるでゆうなが少女を励ましているようだった。

でも

あなた様のご友人が仰ったことは正しい

私は貴族殿に比べれば、身も心も汚れております

………

 ひゆなはふるふると首を横に振ると、呟くように言った。

正しく、ないです

……!

 弱い声できっぱりと言い放つ彼女に、ゆうなは一瞬何と返せば良いのか分からなかった。

 すると、少女はもう一度言葉を重ねた。

正しくないです

るりはの言ったことは、間違っている

あなたの心は真っ直ぐで、綺麗だと思います

それに比べ、私たちは…

…いいえ、私たちが悪いのです

 少女の言葉はたどたどしく、脈絡もなかった。しかし、ゆうなは心の中で、何かが拭い去られていくのを感じた。

 それは彼の心に根付いていた、上位身分への憤りだった。光の注ぐ日中で、誰にも気付かれず灯っていた蝋燭だった。

 その蝋燭をあるべき場所に動かし、暗い部屋を照らし、影を消滅させたのは、間違いなくひゆなだった。

何故だろう
彼女の言葉は、不思議と心に響いてくる

 ゆうなは感心の眼差しで彼女を見つめた。

四方が閉ざされた部屋の中に、いきなり風が舞い込んできたような心持ち

心の重石がどけられて、ひとつ呼吸しやすくなった、そんな感じだ

ひょっとすると僕は心の中で、貴族を憎らしく思っていたのか

 黙ってしまったゆうなに対し、ひゆなは再び狼狽し始めた。

ああああの

何です

頭がいいんですね、ここで働けるなんて

 ひゆなの口元はほころんでいた。

そんなことはありません

えっ、でも、平民って学校に行かないから、字の読み書きなんてできないはずなのに

…あ

 言った瞬間、ひゆなは手で口元を押さえた。しまったという心の声が、ほとんど聞こえてくるようだった。

ご、ごめんなさい

………

 再び沈黙が訪れる。ゆうなはしばらく押し黙った後、言った。

父は平民、母は貴族でした

…!

 聞いたひゆなの表情が驚きのものになる。

 これはゆうなにとっても、親友以外に口外したことのない情報だった。彼は構わず続けた。

駆け落ちだったんです

貴族である母は平民の暮らしに馴染めず、幼い時分に家から出て行きました

しかし、財産は僅かに残されました
少しのお金と、書物…

お陰で私は、不器用ながらも書物と触れ合いつつ、幼少期を過ごすことができました

 彼はかつてを思い出しながら言った。

 母親の残してくれた医学書は、妹の薬を作るきっかけとなったのだった。頁がぼろぼろになるまで読まれ、今でも大切に保管されている。

その、成果ではないでしょうか

そう、だったんですね

 ひゆなはゆうなの発言に戸惑いながらも、納得、といった風に頷いた。

あなたの言葉遣いは、私なんかと違って、とても綺麗…

写字、という仕事に合ってると思います

ありがたいお言葉、痛み入ります

 ゆうなは少しだけ胸の浮くような気持ちがした。

余計なことを喋っただろうか

しかし、単なる哀れみかもしれない彼女の言葉に、喜んでいる自分がいる

こんな僕にも価値はある、と思い込んでしまいそうだ

 ひゆなは落ち着きなく視線を動かした。

ああああの

あなたの名前を、教えて頂いてもいいでしょうか

ゆうな、と申します

ゆうなさん

あの、お仕事、頑張ってください

はい

 ひゆなはお仕事の邪魔をしました、と謝ると、出入り口から出て行った。

 ゆうなは比較的和らいだ視線でそれを見送ると、紙上に向き直って筆を滑らせた。

 墨を含んだゆうなの筆先は真っ白な紙面に馴染んでいき、なだらかな曲線を描き出した。

pagetop