さっきまで、寝るか気絶するかしていたらしい。激痛で意識が戻ってみれば、いつの間にか夜になっていた。

麓の村で村人たちに縛り上げられ殴る蹴るが何度も繰り返された後、妖精の丘まで連れてこられてそこでまた暴行を受けたことまでは覚えている。身体はどこもピクリとでも動かせば激痛が走る。右目が見えないが目の周囲の腫れなどによって一時的に見えないだけなのか、それとも完全に失明しているのかは分からない。眼球が傷ついているのなら、天上教の聖職者による治癒の奇跡の力でも元には戻らないはずだ。

ヴァルター

グレーテルたち、どうなったかな……

俺は、魔王討伐隊の回復役として、ずっと一緒に旅をしてきたシスターのことを考える。ザンクトフロスからここへ戻ってくる道中にも随伴してくれていたが、妖精信仰の残る地域の手前で別れた。彼女は、せめて麓の村の直前まで一緒に行くと主張したのだが、妖精が信仰されている地域に入った時点でオベロンに感知される可能性もある。妖精の丘の虐殺に加わった人間がこの先へ行くのは危険だ。犠牲は俺だけでいい。

左目だけを動かして辺りを見回すと、どうやら俺は妖精の丘の頂上の広場の中心あたりにいるらしい。少し先に石のベンチが見え、その周囲に俺を暴行した村人たち数人の姿が見える。
村人はその数人だけではなく、俺を囲むように距離を置いて広場内に幾人も立っているのが気配で感じられる。

村長

おお、幾星霜に渡り我々を見守り給う妖精の王オベロンと、その妃ティターニアよ。
勇者を僭称せしグラマーニャ人の狂戦士の襲撃により愛し児たちを残らず奪われし、この世で最も悲しき王夫妻よ。

村長

御身をその哀しみの業火へ突き落としたる狂戦士を捕らえ、御身の居城たるこの丘へ連行いたしました。
我が祈りに答え、姿を現し給え!

村長らしき人物がそう祈りを捧げると、俺と石のベンチのちょうど中間あたりに、ほのかな燐光が浮かび上がった。

そのぼんやりとした光はだんだんと形を成してきて、人間のように手足を持つ姿だということがわかってきた。だが人間ではない。その背中に光背のように広がっているのは、蝶の羽だ。

輪郭が曖昧だった姿が次第にはっきりしてくると、まばゆい程だった光は逆に少しずつ光量を落とし、闇夜の中でその人物の人相を見るのにちょうど良いくらいに落ち着いた。

その人物は、瑠璃のような煌めく羽を持ち、身長とほぼ等しいくらいの長い艶やかな髪は緑色、瞳は静かに燃える炎のような青い光を宿していた。

ティターニア

わらわは妖精王オベロンが妃ティターニア。
夫は魔王陛下の腹心に叙せられてオズィアを離れられぬゆえ、わらわのみにて降臨した

ティターニア。
俺が殺してしまった妖精たちの王妃。
彼女の悲しみと怒りはどれほどか想像もつかない。いや、『このくらい悲しいだろう』などと想像するのも失礼なぐらいだろうと思う。俺ごときの浅薄な人生経験で想像しうるレベルの悲しみと、彼女を襲った想像を絶する理不尽への絶望を比較しうるという考えは甘すぎる。

ティターニア

わらわの愛しい子供たちを一人残らず殺害した悪逆の徒を捕まえてくれて礼を言う。
さて、どうやっていたぶり殺してやろうか

もちろん、俺は殺されてもしかたがないことをしでかしてしまったのだ。ティターニアが俺を殺したとしても、誰も彼女を咎めないだろうし、文句を言う権利は俺にはない。
だが、俺は殺される前にやらなければならないことがある。

ヴァルター

ま、待て!

体中の痛みでうまく声が出ないが、出しうる限りの声で俺はティターニアに言った。

ヴァルター

俺には『誓約の火炎』が掛けられている。誓約の履行を妨げるような行為をすると、お前が殺す前に火炎で焼け死ぬぞ。
俺を自分の手で殺したいなら言うことを聞いてくれ

メレクの巫術師の使う魔術は魔物たちの使う魔術と同系統なので、『誓約の火炎』がどういうものかティターニアに説明する必要もない。
そのうえ、ある程度魔術に長けた者ならば俺にかけられた魔術から誓約の内容を読み取ることができる。

満身創痍で喋るのも億劫なので、説明の手間が省けるのはありがたい。

ティターニア

ふむ。
妖精王夫妻と交渉し、陛下がかどわかしたエリザという女を解放させること。期限は十日後。か……

ティターニアは俺の誓約の内容を読み上げる。村人たちは「この期に及んでティターニア様に取引を持ち掛けるなど傲慢な!」と色めき立つが、ティターニアは片手をさっと掲げるジェスチャーでそれを制した。

ティターニア

確かに、魔王陛下が人間の娘を連れてきたのは事実だ。わらわも夫の叙任式の場でそやつを見た

ヴァルター

俺は殺されて当然のことをした。だがその少女は、そんな俺の間違いを気付かせてくれたんだ。彼女なら、俺以外にもたくさんの人をそうして更正させていくだろう

ヴァルター

俺は今更間違いに気づいたところで、この先どう生きたって償いきれない罪を犯した。お前に殺されるのは当然だ。でも彼女が更正させる人の中には、善行によって罪を償う人もたくさんいるはずだ

ヴァルター

そういう人たちの善行の積み重ねは少しずつ世の中を良くしていく。それはこの村を含むすべての人間にとって、ひいては魔物たちにとっても利益になるはずだ

口の中があちこち切れていて喋るたびに痛むが、俺は必死でティターニアに訴えた。
だがかの王妃は、一ミリの情も籠っていない、道端の死にかけのセミでも見るような目で俺を見下ろしながら言った。

ティターニア

役に立つから助けてやれ、とな?
貴様が無慈悲にも屠ってきた我が子供たちの中に、お前の役に立つから殺さないでくれと頼んだ者はいなかったか?
人間に害はなさぬし頼まれごとなら聞いてやるから殺戮をやめてくれと、命乞いするものはいなかったか?

そう言われてしまうと、何も反論ができない。
あの時まさにこの場所で、妖精たちの宰相ウィルオウィスプは言ったのだ。自分をダンジョン内を照らす松明代わりに使ってくれてもいいから、これ以上妖精たちを殺さないで欲しいと。

そんなウィルオウィスプを、俺は一刀のもとに斬り殺した。

ダメだ。仕方がないことではあるが聞く耳を持ってくれない。
俺のしてしまった行動が悪逆すぎる上、手加減や目こぼしもしていなければ行動の理由に情状酌量の余地も一切ない。ティターニアでなくてもそんな相手が言い出した取り引きに乗ろうなどとは思わないだろう。

ヴァルター

俺がクズすぎるせいだ。
……エリザ、ごめん

あの時、トイフェルに憑かれていたとは言え少しでも妖精たちに同情できる、勇者らしい心が残っていたならば。
トイフェルに完全には支配されてしまわない程度の、最低限の心の強さを持てていたならば。
ティターニアが交渉に乗ってくれて、エリザを救える未来もあったかもしれない。

そんな俺の思いをよそに、ティターニアは淡々と言う。

ティターニア

誓約の火炎が対象者を焼き尽くすのは、期限までに誓約が守られなかった場合と、誓約内容の関係者が誓約内容を知りながら、能動的な行為によって履行不可能な状況を作ること

ザンクトフロスからここまでの道中で、エーミールからも同じことを説明された。
関係者と言うのは誓約内容に記載のある人物、今回の場合で言えば俺、オベロン夫妻、魔王、そしてエリザだ。

ティターニアが俺の要請を断るだけなら火炎は発動しない。要請に従わないというのは能動的な行為とは言い難いし、俺は誓約の期限である十日後まで、何度でも交渉を繰り返すことができる。

だがティターニアが俺を攻撃した場合、その攻撃を俺が回避可能かどうか、回避不可能ならばその攻撃で俺が死ぬかどうかといったことが、メレク神の眷属の誓約の神によって判定される。判定の結果俺が死ぬか、誓約の履行が不可能な状態に陥ると判断された場合、ティターニアの攻撃が当たる前に俺は火炎に包まれて死ぬことになる。

ティターニア

つまりは、誓約内容に記載されている人物以外であれば、貴様を殺すことができるということだ

それを聞いて、村人たちが感情を抑えきれない声を上げる。

村長

おお! ティターニア様!
恐れながら、どうか不肖この私めに、こやつの殺害をお命じくださいませ!

口々に言い募る人々に、さっと片手をあげて静まれと命じると、ティターニアはまた落ち着いた口調で話をつづけた。

ティターニア

わらわは貴様を、他の誰でもなくわらわ自身のこの両手でもって、人の子に与えうる最大の苦痛を与えた上で殺してやりたい。
だが誓約の火炎があってはそれもできぬようだし、それにわらわが殺すよりもっと貴様に苦しみを与える殺し方を、たった今思いついた

そう言ってティターニアは、俺の口に猿ぐつわをはめて喋れなくすると、何やら魔術をかけた。

ティターニア

幻視の魔術で貴様の顔と服装を変えた。貴様の姿は、勇者ではなくそこらの村の若者のような風体に見えるようになる

そして別の魔術を使って、俺の目の前に幻影を浮かび上がらせる。この幻影は、……俺の死体だ。

ヴァルター

何をする気だ……

ティターニアは俺と幻影を交互に一瞥して満足そうな笑みを浮かべた。
そして総仕上げとばかりに指で中空に魔法陣を描くと、呪文の詠唱を始めた。

エーミールやエリザたちメレクの巫術師の使う魔法と似ているが、彼らとは比べ物にならないくらいの魔力を有しているのがわかる。詠唱途中の魔法が他者へ何らかの作用を及ぼすことなどないはずだが、近くにいるだけで総毛立つような気がするほど、ティターニアの魔力が高まっているのが察せられる。

ティターニア

最も尊き神々の王。比類なき力持つ偉大なるメレク神よ。
我が嘆願に応じ、グラマーニャ人の都ケーニヒスブルクからかの者をこの地へ呼びよせ給え

ほの光る魔力の塊が遙か南方、王都の方向へと飛んで行ったかと思うと、すぐに戻ってきてティターニアの眼前で燐光を放ちながら静止した。
その魔力の光はだんだんと形を変え、人間の姿になった。

ヴァルター

は……母上……様?

現れたのは、俺の母親、ランベルト男爵夫人ヘンリエッタ・フォン・フォイエルベルクだった。

ヘンリエッタ

あらあらまあまあどうしたことでしょう。
さっきまで私、ラウラさんとお話をしておりましたのに

生来すこし浮世離れしていた母らしい、夢心地のようなぽかんとした表情で、彼女は妖精の丘を見回していた。しばらくあちらこちらと視線を動かしていた母は、やがてある一点を見つめて息を飲んだ。

ヘンリエッタ

!!
ヴァルター!

そう叫ぶと、母は俺の死体の幻影へと走り寄った。
実態のない見せかけの遺骸に取りすがり、必死に声をかける。

ヘンリエッタ

ヴァルター! ヴァルター!
どうしてこんな事に……!

嗚咽をもらす彼女のもとに、ティターニアが歩み寄る。

ティターニア

おいたわしや。
勇者の母御よ。このような事になってしまい、大変申し訳ない

ヘンリエッタ

あなたは……?

ティターニアの方へ顔を向けた母に、ティターニアはグラマーニャ式のお辞儀をして名乗った。

ティターニア

わらわは妖精族の王妃ティターニア。
わらわの統べるこの妖精の丘にて、勇者ヴァルター殿が悲劇に見舞われたため、母御殿にご報告と謝罪を申し上げようと思って、わらわの力によってそなたを召喚申し上げた

ヘンリエッタ

ヴァルター……。
ヴァルターに……何が起こったのです?

瞳に涙をいっぱいに溜めながら問う母に、ティターニアは沈痛な面持ちで答えた。

ティターニア

実は申し開きのしようもないのだが……。
この麓の村に住むあの若者が、物盗り目的で勇者殿を殺害したのだ

そう言ってティターニアは、母の目には村の若者に見えている俺の方を顎でしゃくって示した。

ティターニア

村の自警団が逮捕して存分に懲らしめた上で、わらわたちの力で何とかしてもらおうとわらわを呼び出したのだが……
わらわの力を持ってしても死んだ者を生き返らせることはできない。せめて母御殿へ謝ろうと思い、お呼びだて致した

村長

我が村の不届き者がとんでもない事をしでかしまして、面目次第もございません

村長もティターニアに話を合わせ、地べたにひざまずいて深々と頭を下げる。

ティターニア

ついては、せめて母御殿みずからの手で、この憎き狼藉者へ鉄槌を下していただこうと思ってお呼びしたのです

ティターニアの目論見がようやく理解できた。母に俺を殺させようとしているのだ。

幻術によって俺だとわからない姿にさせられ、更に俺を殺した犯人だと思わされていると言っても、自分を生み育ててくれた母に殺されるというのは、自分自身の全存在を否定される様な気分になる。

そしてそれよりも何よりも、俺を手に掛けた後で真実を知った母がどれだけ絶望するか。それが一番怖い。

ティターニアは、自分の子同然の妖精たちを皆殺しにされた哀しみを、俺の母にも味わわせようとしているのだ。俺への憎しみは俺を殺すだけでは釣り合わず、母にまで哀しみを背負わせなければ足りないと考えているのだ。

ヴァルター

俺は自分をどれだけ犠牲にしてもやり遂げるつもりでいたけど、母上まで悲しませてしまうなんて

自分が犯してしまった罪の代価なら、何をされても受け入れるつもりだった。だけど、母まで巻き込むことは考えていなかった。俺の覚悟は甘すぎたのだ。ティターニアは我が子とも言うべき妖精たちを、何千何万といたその子供たちを、すべて失ったのだ。それに対する復讐なのだから、この程度は当然想定すべきだった。

ティターニア

さあ、母御殿。
貴方の大切な息子殿を殺した不逞の輩をこの短刀で一突きにして下さいませ

そう言ってティターニアは、母に短刀を渡す。母はそれを両手でしっかりと握ると、両目から涙をこぼしながら、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。

ヴァルター

母上……

俺は猿ぐつわをされていて喋ることができないが、仮に猿ぐつわがなくても、母に声をかけることができたかどうかわからない。何と声をかければいい?
『殺さないで』か? 母が後で自らの手で俺を殺したことを知って悲しむのを避けるためにはそう言うべきだが、俺には命乞いなんかする権利があるのか?
何千何万の妖精たちの命乞いを無視して、何の罪もない命を一方的に殺戮した俺が、命乞いなどしても良いのか?

そんな事を考えているうちに母は俺のすぐそばまで歩いてきて、横たわっている俺の前でしゃがみ込み、俺の方へゆっくりと短刀の刃を近づけていって……

そしてその刃で、俺を縛っている縄を、切った。

ティターニア

な、何をしているのですか母御殿!?
その男は、御身の愛し子を私利私欲のために殺した悪党なのですよ?

ティターニアが動揺した声を上げる。俺も動揺している。魔王腹心に匹敵するほど強力な魔物であるティターニアの幻術が、ただの人である母に見破れるわけがない。俺だと分かって助けたわけではなく、俺を殺した犯人だと思っている相手を、母は助けたのだ。

ヘンリエッタ

そうかも知れませんが、この方にも親がいるでしょう。この方が死んだら悲しむ人がいるでしょう

ヘンリエッタ

『復讐してはならない。汝の敵を愛しなさい』と、神もおっしゃっています

ティターニア

こ、こいつは罪もない人間を自分勝手な理由で殺す様なやつだぞ。殺したのは貴方の子だけではない。数えきれないほど罪を重ねてきたんだ!

ティターニア

きっとまたこいつはいくつもの罪もない命を奪う。そのそれぞれに親がいて、こいつに子を殺されたことを悲しむんだ!

母はティターニアの問いに、俺の口の猿ぐつわを切りながら答える。

ヘンリエッタ

『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である』とも、神はおっしゃっています

ヘンリエッタ

この方が今後、人の命を奪うかどうかなんて、神様以外にはわかるわけがありませんわ。
この方が生かしてはおけないほどの悪党ならば、神がその生命を奪うでしょう

そう言って母は、にっこりと笑った。
とめどなく涙を流しながら、自分の子を殺した犯人を、笑って許そうとしている。

ヘンリエッタ

私、治癒の奇跡の力を少しだけ使えます。十五のころから四年間、修道院におりましたから。
……さあ、治してさしあげましょう

そう言って母は、天上教の祈りの言葉を詠唱して、俺の傷を癒やし始める。
小さい頃、転んで膝を擦りむいた時も、母はこうして癒やしてくれた。そんな事を思い出して、止めようもなく涙が溢れてくる。

ティターニア

わらわの負けだ。母御殿。
騙して悪かった。実は、貴方のご子息は死んでいない

ティターニアが幻術を解くと、母は「あらあらまあまあ」と言ったきり、絶句してしまった。状況がうまく飲み込めないらしい。

俺は泣きながら、経緯を説明した。
自分が強くなるために、何の罪もない妖精たちを殺したこと。その罪滅ぼしのために、ティターニアの元を訪れたこと。

そして、自分が強くなることしか考えていなかった俺の目を覚まさせてくれたメレクの巫術師が魔王に囚われていて、それを救うために自分に誓約の火炎をかけてティターニアに取引を持ち掛けたこと。

ヴァルター

だから母上、俺がティターニアに殺されても、彼女を恨まないでくれ。彼女には俺を殺す正当な理由がある。ただ、母上からもティターニアにエリザの解放をお願いしてほしい

母にそう伝えた後、俺はティターニアに向き直って行った。

ヴァルター

ティターニア、厚かましいと思われるかもしれないが、お願いが二つに増えた。
エリザの解放ともう一つ、俺を殺すなら母上の見ていないところでやってくれ

ティターニアは俺の方を見て、ゆっくり、静かに首を横に振った。

ティターニア

いや、殺したりなどせぬ。お前の母御殿に毒気を抜かれたわ。
ただし、許したわけではないからな。罪の意識があるのなら、今後の人生すべてをかけて償うがいい

ティターニア

それに、お前の命が助かるかどうかは、まだ分からぬぞ

そうだ。ティターニアが俺を殺すのをやめてくれたとしても、誓約の火炎の力はまだ残っている。
誓約の機嫌である十日後までにエリザを解放してもらえなければ、俺は結局、炎に焼かれて死ぬことになる。

ティターニア

急ぎオズィアへ戻り陛下を説得する。
成功する保証はないが、最善を尽くそう。お前の母御殿が悲しむ姿はもう見たくないからな

そう言ってティターニアは、母の方に向き直った。

ティターニア

いろいろとお騒がせしてしまって申し訳ない。
貴方の息子殿へのわらわの怒りは消えていないし、わらわは魔王陛下の眷属ゆえ、息子殿とは引き続き敵対せざるを得ぬが、この場で殺すようなことはせぬ

ティターニア

もちろん貴方のことも、すぐにケーニヒスベルクのご自宅へ戻そう。息子殿としばしの別れの挨拶を済ませていただきたい

母は、あまりにも色々なことを急に知らされてまだ混乱してるようだった。

ヘンリエッタ

え、ええと……
私、なんと言ったらいいのか……

ヘンリエッタ

とにかく今は、
ヴァルターが生きていて良かったですわ

そう言って母は、俺の手を優しく握った。

ヴァルター

母上。
今、ようやく『勇者』ってものが何なのかわかった気がする

ヴァルター

俺が勇者なんじゃない。
父上と母上が生み育ててくれて、たくさんの人に支えられている存在が『勇者』なんだ

ヴァルター・フォン・ランベルトがただのヴァルター・フォン・ランベルトでしかなかったら、トイフェルに憑かれたままに魔物を殺し続ける悪鬼になり果てていたかもしれないし、虐殺された妖精たちの復讐に燃えるティターニアに殺されていたかもしれない。

エリザが道を間違った俺を正気に戻してくれた。母がティターニアから救ってくれた。その他たくさんの人たちの助けを受けて、俺は勇者としてここに立っていられる。

ヴァルター

勇者を名乗るのもおこがましいくらいの酷い罪を犯したりもしたけれど、最後には必ず、貴方の息子として恥ずかしくない、立派な勇者として家に帰ってくるから

ヴァルター

もう少しだけ、待っていて欲しい

ヘンリエッタ

ええ。
かならず、無事に戻ってらっしゃい

ヘンリエッタ

帰ってきたら全部聞かせてくださいね。貴方の為したことをすべて。
過ちも失敗も怒らず聞くから

母と俺が別れの挨拶を済ますと、ティターニアはまた呪文の詠唱をはじめた。
空中に魔法陣が浮かんだと思うと、母の体は燐光に包まれ、南の彼方へと飛び去った。

ティターニア

では勇者よ。わらわはこれからオズィアへ戻る。
エリザとやらが無事解放されることを、せいぜい祈っておれ

そんな言葉を残して、ティターニアの姿は忽然とかき消えた。
ティターニアがいなくなると、俺たちを囲んでいた村人たちはどうしたら良いかわからずしばらくぼそぼそと何か相談していたが、やがて俺を放置したまま、黙って丘の下へと降り始めた。

(断章:ヴァルターの視点・完 黒鉄の山塊編へ続く)

断章:ヴァルターの視点

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