龍の姿の魔王は、起伏の多い土地の上を北へと飛び続けています。
龍の姿の魔王は、起伏の多い土地の上を北へと飛び続けています。
山々も平地も黒っぽい針葉樹に覆いつくされていて、その深緑の絨毯の中に時折、魔物たちの町や村らしきものが点在しています。
空は曇っていて、そのせいか美しいはずのこの雄大な風景も、どこか重苦しく感じられます。
これが、魔物の生息域
……なのですね
私は、自分を運んでいる龍の背にしがみつきました。魔力によって固定されているので落下の心配はないのですが、理屈で分かっていてもこの高さにいるというのは不安を覚えるものです。
この広大な地域を統べる巨龍の背中は、鋼よりも硬い鱗で覆われていましたが、意外なことにわずかな温もりを持っていました。
以前、勇者たちとの旅の途中で、馬に乗る機会があったのですが、生き物に乗ると触れ合っている部分を通して、その生き物の呼吸や身じろぎが感じられるたびに、ああ、これは私と同じように呼吸し動き回る生き物なのだということが実感できるものです。
今私を運んでいるこの龍の体温からも、それが感じられます。私と同じようにこの龍にも父と母があり、私と同じように親戚や友人やその他たくさんの他者との関係性の中で、私と同じように成長し、自我を確立してきた存在。
けれど、その成長の過程で経験してきた事柄は私とは全然違っていて、だから当然、私とは全く異なる自我を持つ存在。
同じようで、違うもの。違うけれども、等価なもの。尊重しあい、協調しあい、共生しあうべきもの。
魔王である彼の背に触れながら、私はそんなことを考えました。
前方に巨大な人工物が見えてきました。五角形の高い城壁に囲まれた城塞都市です。
城壁の南側に門があり、その門の両脇に円筒形の高い門楼があり、それ以外の場所にも一定間隔ごとに同じような望楼がそびえていました。
それらの壁も門も望楼も全てが、夜の海のような深い黒。前世紀の職匠詩人が勇者物語の中で『黒鉄の山塊』と唄った魔都オズィアに間違いありません。
オズィアが見え始めてから龍はだんだんと高度を下げ、南側から都市のすぐ上へと差し掛かりました。
城壁の内側に見える建物は、人々が平和に暮らす住み家と言うよりも、侵入者による破壊や進軍を防ぐ防衛設備といった趣の、堅牢な作りです。低い場所を飛ぶようになった分、それら一つ一つの巨大さがよくわかります。
望楼の上に立っている哨戒役の魔物が、魔王の姿を認めて右手を高く掲げる魔物式の敬礼をします。
魔王が後方に飛び去った後は敬礼を解いて良いらしく、右手を下げて城館へ王の帰還を知らせる鐘を鳴らします。
私を乗せた龍は、門とは反対側の都市の端、最奥部にある城館の屋上へと降り立ちました。
何もかもが巨大なこの都市で、城壁を除けば最大の建築物であるその城館は、見るものを威圧するかのように重厚な作りでした。望楼と同じように、屋上には多くの哨戒兵が敬礼しています。
お館様、やっとお帰りくださいましたか。
さあ、オルトロス閣下が首を長くしてお待ちですよ
階下から小走りに上がってきた家臣が、魔王に対し敬礼します。
この男には見覚えがあります。以前ヘカテーが見せてくれた映像の中で、樫の木亭までアルベルトを訪ねてきた男に違いありません。
わかっておる。
そう急(せ)くな
人の姿に戻った魔王は鷹揚にそう答え、城の中へ続く下り階段の方へ一歩踏み出してから、ついてくるようにと私に目で合図しました。
お館様、その娘は……?
ミタン人だ。詳しくは後で話す
なおも訝しげな家臣を尻目に、魔王はさっさと会談を降り始めました。私も慌てて後を追います。
大きな建物ですので、私たちは廊下を延々と歩き続ける羽目になりました。
ほぼ初対面の魔王と二人、がらんとした廊下を黙って歩き通し。廊下にいるのは敬礼したまま彫像のように動かない衛兵たちだけ。いたたまれなくて、私は無理に話題を絞り出しました。
先ほどの方、アルベルトを『陛下』ではなく『お館様』とお呼びでしたね
『アルベルト』が偽名であることは判明していますが、私は彼をアルベルトと呼ぶことにしました。『魔王』と『ミタン人の娘』というお互いの立場を抜きに、対等の、だがそれぞれ違う自我を持つ存在同士として話したかったからです。
父の死後、オズィアに戻ってからしばらくは魔王ではなく、龍族の頭領だったからな。
ワイバーン卿はその時の俺の養育係だったから、その時の癖でこうなっておる
幼少期に父ドラゴンプリーストに連れられてドラッヘンベルクへ落ちのびたアルベルトは、父の死後オズィアへ戻ったそうですが、その時点では魔王になれるほど強くはなかったそうです。
その間はオルトロスが魔王を勤め、アルベルトはワイバーン卿を後見人として龍族の頭領となったのだそうです。
アルベルトの力がオルトロスを越えた時に、アルベルトが魔王として戴冠し、腹心筆頭にオルトロス、龍族の頭領にワイバーン卿という現在の体制が出来上がったそうです。
方法は明かせませんが、私は以前アルベルトがあの方と樫の木亭で話しているのを見たことがあります
その時もやはり、貴方のことを『お館様』と呼んでおいででしたので、まさか魔王だとは思わず……
ふん。
以前の馴れ合いの癖が抜けぬのをオルトロスにたびたび咎められてきたが、皮肉にもその悪習のおかげで勇者どもの情報攪乱に成功したというわけか
そう考えればこの習慣も悪いものではないではないか。ワイバーン卿以外の者にはちゃんと『陛下』と呼ばせているから威厳は保てている
そう言って笑いながら廊下の曲がり角に差し掛かったアルベルトは、向こうから来た何者かにぶつかりそうになりました。魔物の姿ではなく人間に化けているところからすると、腹心クラスの強力な魔物のようです。
あ、はーちゃん帰ってたんだー。
おかえりー
……はーちゃんってお前……
『ハイエロファントドラゴン』を他にどう略しようがあるのさ。
エロちゃんがいい?
気のおけない親友にでも会った様な態度で、その男は自分たちの王であるはずのアルベルトに接しています。
……こいつは幻獣族の頭領のフレースヴェルグ。
こいつはアレだが、他の魔物は全員俺のことを陛下って呼ぶからな!
こいつは例外だ例外! 同じ幻獣族の長老であるオルトロスにもこんな態度だし!
何故か私に向けて、必死に言い訳をするアルベルト。フレースヴェルグは笑いながら、どこかへあるき去っていきました。
……ふん。
先を急ごう
それからまたしばらくの間、廊下を右に曲がったり左に曲がったりした挙げ句、ようやく目的の部屋についたと見えて、アルベルトはドアを開けました。
ドアの向こうは執務室のようでした。ドアから見て正面に豪奢な飾り彫りの施された大きな机がありましたが、その机の主は不在のようでした。向かって左側には背の低いテーブルを挟んで五・六人が座れるソファがあり、右側には正面のものより一回り小さな机があって、その席には隻眼の男が一人、羽根ペンを握って紙に何かを書いていました。
陛下! 待ちわびましたぞ!!
新たな腹心オベロン公の叙任式のために、陛下がなさるべき事が山ほど溜まってございます
留守役の任、大儀であったぞオルトロス。
余が最初にやらねばならん仕事は、まずは叙任式の正式公布の手続きと、式典に使う祭具がある宝物殿を開ける許可だな
オルトロス?
この方が……
三百年前の魔王腹心ケルベロスの弟にして、当時の腹心たち三人に匹敵するほどの勇将だったオルトロス。魔都オズィアの正門を守護していて、オズィアに到着した勇者を大いに苦しめたと言われています。先代勇者の活躍を描いた勇者物語ではこのとき、勇者はオルトロスの右目を潰したと書かれていますが、私の目の前にいるこの男も右の目に眼帯をしているところからすると、その伝承は本当のようです。
三百年前の勇者と魔王軍との戦いの生き残りである老将を実際に目の当たりにすると、あらためて自分が歴代の勇者たちの最終目的地、魔都オズィアにいることを実感させられます。
陛下の調印がないと決済できない書類のたぐいは、只今財務大臣に持ってこさせます。ご一読の上、調印をお願いいたします。
また、各地より招集いたしました主だった首領たちの到着予定日のスケジュールがこちらです。すでに到着している者たちは謁見を希望しておりますし、これから来る者たちも同様でしょうから、ご予定を調整してください
それは事務処理が一区切りついてから、ワイバーンと相談して調整しよう
あとは叙任式の式次第でございますが……
ところで、そちらにいる人間は一体なんなのですかな?
オルトロスは自宅にいつの間にか住み着いていたネズミを見るような目で私を睨みながら、アルベルトに問いました。
ミタン人のシュラートゥス家の娘だ。
ミタン人との和平交渉のための第一歩になるかと思って、まずはこいつを我が城に招待することにしたのだ
また考えもなしにそのようなことを……
オルトロスが頭を抱えたのも無理からぬことです。
ミタン人は千年以上も前からグラマーニャ王国の支配下にあり、民族固有の国家も共同体も持っていません。民族を代表する政府や中枢が存在しないのですから『ミタン人との和平交渉』などできないのです。
民族の総意など存在せずミタン人個々人がバラバラに存在しているのですから、ミタン人全員とそれぞれ交渉して一人一人合意を取り付けでもしない限り交渉は不可能です。
さらに言えば私の家名であるシュラートゥス家はかつては代々ミタン帝国の宮廷魔術師をつとめた家柄ですが、グラマーニャ王国によるミタン帝都ヴァーシュ征服後はグラマーニャの法律上は何の地位もない平民となりました。
しかも私の家はヴァーシュ陥落時まで家系を遡れば当時の筆頭宮廷魔術師ユリアン・サルヴス・メレクス・シュラートゥス九世に行きつくのでシュラートゥス姓を名乗っていますが、傍流の傍流のそのまた傍流と言えます。ミタン帝国滅亡後は正式なシュラートゥス家本家がどれなのかは曖昧になってしまいましたが、基本的に筆頭宮廷魔術師の長男が本家を継ぐという旧来の伝統に則れば、ユリアン九世の五男の次男に連なる私の家は間違っても本家ではあり得ず、何世代も前にヴァーシュから近隣の村に移住した私をミタン人代表と認めるミタン人などいないでしょう。
……とにかく、今はその事にかかずらわっている暇はございません。
どなたかが人族の国でのんびり物見遊山などしていたせいで、叙任式の準備が遅れているのです
わかったわかった
……それではシュラートゥス家の娘よ。部屋を用意させるので、しばらく休まれると良い
今日のところは賓客用の部屋に泊まっていただくが、叙任式のために世界各地から招集された有力魔族だちがこれからも続々と到着してくるゆえ、貴殿にはどこか別の部屋へ移ってもらうかもしれぬ
そう言ってアルベルトは、小間使いを呼んで私を賓客用の部屋の一つに案内するように命じました。
私はアンデットモンスターらしき外見の小間使いに導かれて、再び長い廊下を歩くことになったのでした。
(断章:エリザの視点・完 断章:ヴァルターの視点へ続く)