与兵が町に降りてきた

午後になって、与兵はおじいさんの診療所に来ていました。

与兵

…………

鶴太郎は納屋ではたを織っています。

家事を済ませて家を出て、町まで降りてきて薪を売り、吾助の家に行きましたが留守で、それで診療所に来たのです。

鶴太郎には言わずに来ていました。

与兵

できるだけ
早く帰らないと。

お昼ご飯は置いてきてありますが、鶴太郎が淋しがるのはわかっています。

でも、なんだか診療所のドアを開ける気になりません。

与兵

薪代を渡す
という理由はある……。

ここへ来た理由をなんとかして捻出しています。

与兵

してもいいか聞きに来たなんて言ったら、吾助になんて言われるか……。

言えるはずがありません。

与兵

それにやっぱり
帰るって言ったのに、帰らなかったのは気になる。

とりあえずそういうことにして、与兵は思い切って診療所のドアを開けました。

中に入ると、近所のおばさんがいました。

驚いた、
与兵ちゃんかい?

与兵と吾助を小さい頃から知っています。

おばさんがドアを開けようとしていたところで、先に与兵が開けてしまったようです。

与兵

え……、ああ……
こんにちは。

大きくなったねぇ。

おばさんは、与兵を見てしみじみと言いました。

今、吾助ちゃんとも話してたんだよ。与兵ちゃんは元気かって。

与兵

じゃあ、吾助は中に?

いるよ。先生はお留守だって。吾助ちゃんに診察してもらって、お薬もらったところだよ。

与兵

そうですか……

久しぶりに帰ってきたんだね。ゆっくりしていきなさいね。


そう言って、おばさんは帰りました。

与兵

……

与兵は黙っておばさんを見送りました。
そして、誰もいなくなったので待合室を通り、診療室の戸を開けました。

与兵

吾助、いるのか?

入口でそう言います。
診察室には誰もいませんでした。

吾助

いるぞ。

奥にある部屋にいた吾助が出てきて言いました。

与兵

入ってもいいか?

吾助

ここ、
お前んちだぞ。


以前は与兵もおじいさんと一緒にこの診療所に住んでいました。

与兵

いや、もう俺は
山奥の家に移ってるし。

吾助

ジジイんちなんだから
お前んちだろ。

与兵

俺よりお前の方が
馴染んでるぞ。

吾助

俺はジジイに
留守を頼まれただけだ。

そう言って、吾助は診察台の上にあった物を片付け出しました。おばさんの診察をしていたので、後片付けをしているようです。

与兵

やっぱり吾助の方が、
ここに馴染んでいる気がする……。

与兵は吾助が出てきた奥の部屋を見ました。

奥の部屋には薬や難しい本がたくさんあり、診察をしていない時は、おじいさんもよくいます。

診療所にいた頃、与兵は上にある屋根裏部屋で生活をしていました。おじいさんの部屋も上にありましたが、おじいさんはめったに来ませんでした。

与兵は診療所に住んでいた時も、建物の上の階と下の階で隔たれているように感じていました。吾助は奥の部屋に小さい頃から入り浸っていましたが、与兵は掃除をしに入るくらいです。

奥の部屋はなんだか不思議な部屋でした。小さい頃から与兵はその奇妙さに、入りたいと思いませんでした。

一度、こっそり入った時、見たこともない何かを見た気がして、

与兵

なんか変なものいる?

そう思って、大きくなった今でも入るのが怖いのです。

与兵

なんで、
吾助は平気なんだ?

おじいさんもいないのに、平然と奥の部屋に出入りしている吾助を見て思いました。

吾助

何か問題でも
起きたのか?

手を動かしながら吾助が聞きました。

与兵

いや、特に問題とかは起きてないけど……。

鶴太郎は元気にはたを織っています。

吾助

そか。

そう言って、忙しそうにしています。

与兵

鶴太郎が
心配してたぞ。

鶴太郎

吾助が帰ってこない……

与兵

って。
帰ってくるまで待ってるって言ってたんだぞ。

鶴太郎のせいにしました。

吾助

そうか、
悪かったな。


申し訳なさそうに吾助は言いました。

与兵

じいさん、
どこ行ったんだ?

与兵がそう言うと、吾助は手を止めました。

吾助

俺にもよくわからないんだ。いつものジジイじゃない感じで、刀持ってどこかに行ったんだ。

与兵

じいさんが?


吾助はうなずきました。

吾助

ここ任されたから、
空けられなかったんだ。

吾助は意外に真面目です。
おじいさんがいなくなってからずっと、診療所に来た患者の診察をしていました。

与兵

そうだったのか……

吾助

悪い……。

与兵

いや……、俺は……、
鶴太郎ががっかりしてて……。

鶴太郎

吾助は?


そう言ってしょげている鶴太郎を思い出しました。

吾助

お前は?

与兵

え?

吾助

俺がいなくて、
がっかりしたか?


吾助がニヤっと笑って与兵に言いました。

与兵

俺は……、
どうでもいいだろ?

吾助

ふっ

鼻で笑ってニヤニヤしています。

与兵

俺だって、
淋しかったけど……。

吾助

そっか……。


嬉しそうに微笑みます。

与兵

……。

与兵は思いました。

鶴太郎

吾助、帰ってくるまで、待ってる……。

吾助くんは……?

吾助、いないの?
あ……、そう……。

与兵の元カノたちは、みんな、吾助のことを気にしていました。

今になって考えてみると、吾助の名前を口にし出すと、みんな、与兵の元から去っていったような気がします。

与兵

鶴太郎は
行かないと思いたい……

与兵はそっと思いました。

吾助

ジジイについて、
おまえ、なんか知らない?

作業を止めて吾助が聞いてきました。

与兵

じいさん?

吾助

ジジイ、なんか変だったんだ。
刀が近くにあるだけで。

与兵

刀?

吾助

納屋にあったヤツだよ。

与兵

ああ……、
あれか。

与兵には刀は邪魔なだけでした。

与兵

じいさんって
いつもヘンじゃね?

昔はヘンだとは思いませんでしたが、離れてみるとヘンであることに気づきました。

吾助

そうなんだが、
めちゃめちゃ真面目な顔してて……

与兵

じいさんが
真面目な顔?

吾助

ああ

与兵

それはヘンだな。

吾助

……

与兵

悪い物でも
食べたんじゃないか?

与兵はそれぐらいしか思いつきませんでした。

吾助

腹、壊したから
どこかに行って治してるのか?

与兵

どこかに行く
必要ないだろ?

ここはおじいさんの診療所です。
おじいさんはスーパードクター吾助の師匠でもっとスーパーなドクターです。

吾助

ここにある薬じゃ
治せないとか。

与兵

ここで治せなかったら
どこ行っても治せないだろ?

吾助

こんな簡易な施設だと限界あるぞ。

与兵

え?

吾助

なんで
驚くんだ?

与兵

じいさんか吾助がいれば、
なんとかなるだろ?

吾助

俺だって
できないことはあるぞ。

与兵

鶴太郎の胸
でかくしてくれるって言ってたじゃないか。

吾助

それはできるが……。

吾助

おまえ
やってほしいの?

与兵は首を左右に振ります。

与兵

それは
しなくていい。

吾助

そか。

与兵

うん。

与兵の決意は固いようです。

与兵

やっぱり
何でもできるだろ?

吾助

無理だ。
豊胸手術ができても
他にできないことは多い。

与兵

そうなのか?

与兵には診療所はなんでもできる場所に思えました。

与兵

じいさん
どこで何してるんだろうな。

吾助

それがわかんねえんだよ。

そして、吾助は後片付けを終えました。

吾助

おまえ、
何しに来たわけ?

与兵

ああ、
これを渡しに……

そう言って、与兵は吾助に薪を売った金を渡しました

吾助

なんだ?
コレ。

与兵

借金の返済。

吾助

薪を売ったのか?

小銭を目で数えながら言います。

与兵

ああ。

吾助が顔をしかめました。

吾助

だから、売る前に来いって言っただろ。
おまえが行ってる店、タチ悪いんだからな。

与兵

でも、山奥で暮らすようになってからずっと買ってもらってたから、恩があるっていうか……。

吾助

もう十分返してるだろ。
これだけケチられてるんだから。

与兵

でも
それで足りるし。

吾助

一人なら足りるかもしれないけど
二人いるんだから少しでも高く買ってくれる方がいいだろ。

与兵

あ……

吾助はメモ用紙にさらさらと店の名前と住所を書きます。

吾助

話は通しておくから
次はこの店に行くんだぞ。

メモを渡して吾助は言いました。

与兵

うん。

与兵はついついうなずいてしまいました。

吾助

ジジイが帰ってくるまで俺はここにいるから、鶴太郎には謝っておいてくれ。

与兵

うん。

与兵はおじいさんの診療所の外に出ました。

与兵

あ……

与兵

やっていいか
聞くの忘れた。

もちろん、戻って聞くことはできませんでした。

吾助

与兵。

診療所から吾助が出てきました。

与兵

吾助?

吾助

これ、
買っといたからやる。

吾助は与兵に特上肉をあげました。

与兵

え?
ありがとう。

吾助

いつになるかわからないが、
近いうちに行くからな。

与兵

わかった。

吾助はすぐに診療所に戻りました。

与兵

鶴太郎
喜ぶだろうな。

自分が買うよりも大きくて重い包を背負うと、与兵は嬉しそうに山奥の家へ向かいました。

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