少女は歌を歌いながらサグルの前を歩く。サグルは音楽に疎かったが、少し前にクラスメイトが同じ歌を口ずさんでいたのを覚えていた。少女が振り返る。

どう、うまい?

…ああ。

あー、適当に言ってる。

そういうのってさあ――と呟くも、最後までは言わなかった。それからしばらくの間、こつこつという二人分の足音だけが鼓膜を震わせた。不意にサグルが口を開く。

お前は…何者なんだ?

遅っ…。

ため息の後に、まあいいやと少女が胸に手を当てた。

あたしは救(すくい)。
この交差点の住人だよ。サグルとは遠い昔からの知り合い。

…俺は…。

正解。
サグルがあたしのことを知らないのは当たり前。

少女は今いる息苦しい空間から切り取られたように存在感を放っている。彫刻のように整った顔立ちだ。肌は白く透き通り、セーラー服の袖やスカートから伸びる手足はすらりとして、それでいてしなやかな肉に包まれていた。
サグルは愛や恋――そういったものについては考えたことがなかったし、それは今も同じだった。それでも、彼女のように美しい少女は、きっと一度見たら忘れないだろうと考えていた。

でも、あたしはずうっと見てたんだー。サグル、あの交差点よく通るでしょ?

ここ、やることなくて暇だから。たまーに外を覗くくらいしかないんだよね。

だから…見てたの、「カラス男」。

…そうか。

あれ?いいんだ。

少女は不思議そうにサグルの顔を覗き込む。アスファルトに溶けていたサグルのシルエットがスクイに照らされて、わずかに浮かんだ。

言いふらすつもりはないんだろう。…見ればわかる。

おお~!またまた大正解!

スクイはぱちぱちと軽く手を叩いて、自分の横を指差した。

そして――はい到着!
「ヒカリくん」はここにいるよ。

そこはビルとビルに挟まれた、ぼろぼろの一軒家だった。半開きになっている骨董品のような扉を見た瞬間、急にその先から人の気配を感じるようになった。まるで室内と外との間に、何かはっきりとした境界線が存在していて、その前に立っているようだと、そしてそれを自分は今――越えようとしているのだと、サグルは感じた。

…まあ、ここなら…殺されてるってことはないと思うけど。

扉に手をかける。腕に力を込めると、「ぎ」という錆びた音が小さく何度も重なった。絨毯が敷いてある。ヒカリはいない。一歩足を踏み入れる。突如、鼓膜に圧がかかる。

壁にはランタンがいくつも掛かっていた。唯一掛かっていない箇所には代わりにトンネルのような形の通路があり、その細長い暗闇の先ではかすかな灯りが誘うようにゆらゆら揺れていた。

――扉が大きな音をたてて閉まった。サグルは動揺しない。スクイが呆れたような身振りをしてから、あたしじゃないからねと言った。

何かが近づいてくる。ランタンの炎が辺りを照らして、影が動く。だが、それは明らかに自然な動きではなかった。影が跳ねて床に落ちる。水たまりのような漆黒が炎に合わせてゆらめきながら徐々に立体的になる。

さすがのサグルもちょっとビックリかな?

「影たまり」に波が立つ。どくんどくんと脈動する。膨らんで形を成してゆく。人間の形――に到達する前に、素早い動きで地を這った。到達点は間違いなくサグルだった。子供のような笑い声とともに黒い腕がサグルの「いた」場所へと伸びる。腕が空を切って壁を強く叩いた。埃が降ってくる。その場所――今まさに埃を降らせている地点にサグルはいた。ほんの一瞬、天井が彼にとっての床に変わる。

――『カラス流一撃必殺拳』…

『小太刀』。誰にも聞こえないほど小さくそう唱え、脚部のバネを解放する。スクイがおおっ、と驚くと同時に、サグルの姿が一本の線になって、その踵が黒い影ごと床を貫いた。並の人間であればひとたまりもない一撃だ。

アハハハ…!

――しかし。並の……いや、人間ですらなかったそれは、潰れるどころかより一層形をはっきりとさせて、ぐるりとサグルを視界に捉えると、頭部――のような場所から再び拳を繰り出した。サグルが後方へと跳び、それをかわす。スクイが笑う。

あっはは、サグル全然ダメ!
かすってすらいないよ。

………。

サグルは攻撃をかわし続ける。スクイもまた、何の心配もしていないといった様子で言葉を紡ぎ続ける。

サグルの技は「一撃必殺」。それならどこを狙うのが正解?――そ、急所。

でもさあ、そのオバケの急所って、そもそもどこなのかな?

やっぱり頭?でも頭ってどこ?サグル、思わなかった?「なんとなく、そこが頭部」だって。

連撃の間を縫うようにカウンターの回し蹴りを放つ。これもまた、影を動かすことすらできない。本来この上なく効果的であるはずのその動きは無駄にしかならず、結局、拳が頬をかすめる事となった。スクイの言葉は続く。

サグルの二つの目は「器官」。そんなものが受け取れる情報なんて――たかが知れてる。

大切なのは「魂」。
魂に備わった心の瞳。

知ってた?魂には目が一つしかついてないんだよ。だけど…優秀。そこに偽物は映らない。

サグルは何かに気づいたように距離をとる。そして今までの動きとは打って変わって、ゆっくりと影を見つめた。

――魂の目…。

その通り!
そろそろ目を覚ます時だね…

さあ――二つの目を潰して!本能だけ…それだけを魂で感じていれば、あたし達は何も見誤らない!

サグル!『第三の目』を開けて!

サグルの中で何かが弾けた。それは果物を無理やり上から押さえつけた時のようであり、暗闇の中で閃光弾が炸裂した時のようでもあった。困惑はあった。ただ一つはっきりしていたのは、自分はもう――

アハ、ッ…!?

こんな相手に手こずることはない。という確信だった。

ようやく…見えた。

声が止む。見えている。影の中で光っているものがある。サグルが手刀を引き抜いた。漆黒がばしゃんと爆ぜて、なくなる。

…『開眼』だね。

空気が震えて、再び鳴り響いた声――いや、声に似た鳴き声が、この戦いがまだ終わっていないことを告げる。二体だ。まるで早送りの録画のように同じ動きで現れて、サグルを前後方から挟み込んだ。今度はもっと早い。床から離れて飛びかかってくる。

勿体つけないでよ、サグル。『目』の力はそれだけじゃない。もうわかってるんでしょ?

それを試そうとして時間が止まる。何かの気配を感じる。これは自分の味方だ。しかし、これは――この「力」はきっと、この世には存在しないものなのだろうとサグルは思った。

…フッ、フ、フ、フフッ!

『スケア・クロウ』。そう名乗っていた。姿は一瞬で消えて、再び時間が動き出す。すぐ後ろでもう一つ、ゆらゆらと影が現れて揺れた。警戒はしなかった。それが自分の能力であることがしっかりと「見えていた」からだ。後方の敵を確認せず、つま先に力を込める。一気に間合いを詰め、前方から襲いくる敵めがけて拳を放った。

あれがサグルの目…!

結果などどうでもいいと言わんばかりにスクイは笑みを浮かべる。舌が唇をなぞり、口の端から少し――透明な唾液が溢れた。

やっぱり、すごい…!

ああ、どうしよう、あたし…。

今、ここで…食べちゃいたい。

爆ぜる。サグルの背に傷はなかった。背後にいたはずの敵も、もういない。その代わりにサグルと同じ格好をした黒いものがサグルの形をして佇んでいたが、それも役目を終えたのを悟ったようにあっけなく消えた。

スクイは見ていた。彼の拳が急所を捉えた瞬間も、その背後で彼の影が実体を持ち、敵を仕留める瞬間も。手で口から顎をさっと拭ってサグルに駆け寄る。

初勝利、おめでと!
どうやらサグルの目には「分身」の特性があるみたいだね。

これ、占いみたいになってるんだよ。目は嘘をつかないから、その人が何を求めているか…とか、何が好きだとか嫌いだとか、耳で聞くよりよっぽど正確にわかるの。

たとえば、そうだなあ。サグルは…自分がもう一人いたらいいのにー、と思ってる!

………。

――ねえ、どうして?

スクイの瞳は今、きらきらと輝いていた。心なしか口数も多くなり、サグルの胸の辺りをじいっと見つめている。彼女にもまた何かが見えているようだった。

…ま、なんでもいっか。
それだけ綺麗なんだもん、きっと汚い感情じゃないんだろうね。

奇妙なにらみ合いは数秒で終わった。スクイが指先で押し返すようにサグルをつんとつついて、くるりと唯一続く道のほうを向いた。勢いがついてしなった長い髪から胸の内側をくすぐるような匂いがした。サグルが前に出て、通路の先を見る。

お前もこの力を持っているのか?

敵の気配を探しながら、何気なくそう尋ねた。

目のこと?持ってるよ。

でもねー…ちょっと使い勝手が悪いんだよね。あたしの場合。

だ、か、らあ。サグル、危なくなったら守ってね?

腕が腕に絡んで、柔らかく締めつける。よりはっきりと匂いを感じるようになる。不思議そうに自分にちらりと視線をやったサグルに対し、スクイが悪戯っぽく笑みを返した。

ドキドキしてもいいよー?

…お前は…肝が座っているな。

だが…俺のことは心配するな。
こういう事には慣れている。お前に怪我もさせない。

あははは!
そうそう、そういうトコ!

………?

スクイがひとしきり笑ったあと、嬉しそうに頭を預ける。その光景はまるで数十年付き合った親友同士がじゃれ合っているようだった。

じゃ、そろそろ行こうよ。「ヒカリくん」が待ちくたびれてるだろうしさ。

…ああ。

二人はトンネルの中へ足を踏み入れる。
真っ黒な少年と真っ白な少女をランタンの光が照らしていた。

人さらい交差点の調査
一日目……継続

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