ヒカリは脳をおもりと取り替えられたような気持ちだった。本当の命の危機に瀕して初めて冷静になって、その結果「やはり自分には何もできない」という結論に至った。今、間違いなく待ち望んだ非日常に自分はいる。しかしその中の自分は――結局、空想の中の自分に救われる側の人間だったのだ。

サグルとスクイは一本道を順調に進んでいた。途中で似たような敵が何度か現れたが、それらはもはや障害ではなかった。二人は敵が爆ぜた回数すら覚えていない。

不思議だなあ、あたし。

大きな扉を目にしたスクイが足を止めて言った。

ねー、なんでサグルは「ヒカリくん」を助けようとするの?

それがカラス男の仕事だからだ。

じゃあ…さっきみたいなオバケより、もっともーっと強い敵が出てきて、それに敵わなかったら?

「ヒカリくん」を助けることができないってわかってたら、サグルはどうする?

するとサグルは、ごく普通の様子で――例えば飲食店で注文を尋ねられた時のように、あっさりと答えた。

生きてさえいれば――救えない人間などいない。

スクイは占いができても、人の感情を読み取ることが得意ではなかった。また最悪なことに、目の前にいる黒い少年はその感情というものを表に出すことが大の苦手だった。だからその言葉が自信からくるものなのか、あるいは別の思いからくるものなのか判断できなかった。気になっていたことが、さらに"かさ"を増やした。

なにそれ、むーずかしい!
ちゃんと答えてよ!

…ちゃんと答えただろう。

わかるようにー!

サグルは会話が一段落ついたと判断したのか、扉に手を添えて目を瞑った。

スクイ、この扉の先から敵の気配がする。…だが数が多い。お前はここにいてくれ。

えー?いいよ、来たら倒せるし。

………。

扉の前で仁王立ちするスクイを見て「大丈夫だ」と判断したのか、「言っても無駄だ」と判断したのかどうかはわからないが、サグルは何も言わずゆっくりと手に力を込めた。

わずかに入った灯りが闇を裂く。敵の気配は扉の外で感じた数と大して変わらない。最初にここに入ったときと同じだ。闇の中に隠れている。

そして、それは――あの「影の怪物」だけではなかった。今、この空間の中で唯一、必死に息を潜めている影があった。人影だ。

…谷ヶ谷光、そこにいるのか?

ひっ…!

……という驚いた声。――の直後に「ぱしり」と口を塞ぐ音。腕のブレスレットがぶつかり合う、「かしゃん」という賑やかな音がダメ押しをした。

一目散に逃げてたから、そうじゃないかなあとは思ってたけど…サグル見た後だとヒドいね。

…敵ではない。お前を救出しに来た。

きゅ、救出…ホントに!?

ヒカリが何の疑いもなくバッと物陰から顔を出す。お手本のような脊髄反射にサグルも少し驚いていた……かもしれない。

ああ。そこから動くな。奴らが見ている…俺からそっちに向かう。

サグルが辺りの様子を伺いながら、ゆっくりとヒカリの方へ歩み寄る。気配がどんどん強くなる。「ヒカリは餌だ」ということはわかっていた。そしてサグルの足が部屋の中心を踏みしめたとき――あの笑い声がした。

――アハハハハ!

うわあ!出た!

ヒカリの目の前で影がどんどん現れて、一点に集中していく。目的はもちろんサグルだった。ヒカリは影に覆われていくサグルを見て、昔放送していたドキュメント番組の中の、ミツバチがスズメバチをその圧倒的な数によって倒すシーンを思い出した。

――しかし、この影の怪物は……その映像と同じ結末を迎えられそうもなかった。サグルを包み込めない。撃ち落とされている。一体残らず、まとわりつく猶予など一瞬たりとも与えられずに。

――カラス流一撃必殺拳…『影舞踊』。

サグルが呟き終わると、辺りがしんと静かになる。少なくとも今、敵はもういない。

す…すごい…!

………ん?

数秒の沈黙の後、ヒカリが目を見開いた。

あ、あああああーーーッ!

………。

サグルは声こそ出さなかったものの、体を少しビクッとさせた。

そうだ、今の動き…!っていうか、言っちゃってたよね!?かっ、「カラス流」って!

………。

ヒカリがまくし立てる。サグルはやや俯き、額に汗をかいていた。

ウソでしょ、サグル…?

スクイも信じられないといった様子でサグルを見つめる。正体不明で神出鬼没……という伝説。その「正体不明」の部分のセキュリティがこんなにも甘かったという事実に、スクイとヒカリ……生まれも境遇も全く違う二人が今、全く同じ思いを抱いていた。

それ、うちの制服だよね!?赤色のネクタイは三年生がつけるネクタイだよね!?

…待て。…止まれ。

そうなんだね!?

スクイがため息をつく。そして、あたしはこんなコントを見に来たわけじゃないと悪態をついた。辺りが少し明るくなる。

――ランタンの炎がゆらめいた。

…もう、これに関してはいいけどさ。サグル、わかってる?

…ああ。

えっ、なに…?
あ…ごめん、僕、もしかして言い過ぎたかな…?

「違う」。
何か今までと違うものが来る……サグルはそう感じた。

影が部屋の中心から放射線状に広がり渦をまく。影がぐるぐると身を寄せ合い巨大な花の蕾のようになって、その形を変えていく。

しなるツタが一本、また一本と生えて、姿が違う何かに例えられるようになる。ヒカリが後ろに飛び退き壁に背中をぶつける。これ以上後ろに進めないとわかると、その場にぺたりと座り込んだ。そして思った。これは、この敵は――まるで巨大な人の手だ。

………。

部屋は静かなままだった。さっきまでの怪物が楽しい「ごっこ遊び」をやめたかのように、大きな目でサグルを睨みつける。手の甲にあたる部分には人の顔に似た凹凸があり、こちら側は何の表情もなくヒカリと顔を合わせていた。

もう怒ったぞ、だってさ。

スクイがそう伝える。だが実際、聞くまでもなかった。手の怪物の指がく、と折り曲がると、鮮やかな赤色の触手が一気にサグルに伸びた。間一髪でそれをかわす。触手はサグルの背後の壁を完全に貫通して、末端がまるで見えない状態だ。今までとは桁違いに早く、鋭い。

フフフ…!

サグルの反撃は早かった。壁に刺さった触手が抜けるよりも早く、膝を曲げる様子すらほとんど見せず巨大な手へ瞬時に到達し、足刀をめり込ませる。それも一本ではない。『スケア・クロウ』の分身も同じ動きをして怪物にダメージを与えていた。

………。

しかし、今までと違ったのは――この敵がこの程度では沈まなかったことだった。指のようなパーツをぐんと広げ、その全身を地面に叩きつける。幸いサグルの姿は空中にあった。それを見ていたヒカリはぞっとした。あの触手も、さっきのボディプレスも、直撃したら間違いなく人間は……死んでしまうだろう。

あ、危ない…なんて、もんじゃないよ…。こんなの…。

殺し合いじゃないか――とヒカリは声に出して言った。その間にも巨大な手は攻撃を繰り返し、サグルがそれをギリギリで避けながら反撃する。ヒカリは喧嘩などしたこともなかったが、ひとつだけ知っていた。実際の戦いは自分の好きな格闘ゲームのようにいかないということを――人間には体力のゲージがないことを知っていた。

それなのに……と思考は続く。これはフェアな戦いではない。あの巨大な手はもう倒れていてもいい頃なのだ。カラス男が強いられているのは、まるでゲームキャラクターとの戦いだった。

なんで…。

理不尽だ。ヒカリは胸を締め付けられるような気持ちだった。触手がサグルの腕をかすめる。制服が破けて、少しだけ赤いものが見えた気がした。

今のは危なかったねえ。さっきのあたしの質問の答え…変える気になった?

そうだ、あの子は……あの子は何をしているんだ?なぜこの状況で笑えるんだ?ヒカリの憤りは一瞬、美しい少女に向いた。だが、すぐに思い直した。普段「男性」とはかけ離れた場所にいる彼の思考は誰よりも男性的だった。少女を庇うように、怒りを向けられるべきはここでただ震えている弱々しい男なのだと自分に言い聞かせた。

危ない、カラス男さん!

とりあえず、動く口を動かしただけだった。こんな叫び声をあげなくともカラス男は攻撃を避けただろう。足も手も、完全に力が抜けてしまっている。ただただ自分はここにいる。非日常の中に、ただ――

…谷ヶ谷。

えっ――

ヒカリは突如、自分に目線が向けられたことに驚いた。不思議なことに、その瞬間、敵の動きも止まったような気がした。

そして――その言葉には続きがある、と思った。ヒカリはこの一瞬のうちに思考を巡らせた。自分は何を言われる?それはきっと褒め言葉ではないだろう。息を飲む。――怖い。

…助かった。

たす…?

何を言っているのかわからなかった。そして思った。僕は何も考えていない。ただ自分が何もできないのが我慢できなくて、とりあえず声をあげただけ――と。

……いや、違う。ヒカリははっとした。カラス男は自分を慰めるためにそんな事を言ったわけではないと気づいた。カラス男の背後に一体――その分身の腕に貫かれた、あの影の怪物がいたのだ。怪物は無念そうな声をあげ、破裂した。

………!

すぐに戦いが再開する。何も考えていなかった。それは真実だった。しかし――自分がカラス男の助けになったこともまた、奇跡とはいえ――真実に違いなかった。ヒカリは冷え切った体に熱が宿っていくのを感じた。いつの間にか、横には少女がいた。

サグルは勝つよ。

その言葉の真意は何となくわかった。たぶん、聞き慣れた言葉だった。カラス男に話しかける時とは打って変わって、少女の口調は静かで、自分のことなど見てもいなかった。

そ、そうかなあ、やっぱり…?

返す言葉はいつも通りだ。

ジャマになったら困るんだよ。月並みな言葉だけどさ、勇気と無謀は――

「違う」って…言うんだよね。

わかってる、と前を見て続ける。ヒカリはこの後に言葉を繋げたことがなかった。だがヒカリは、今日、初めて――「でも」と、言った。手足が動く。

――今…。

今なんだ…。今しかないんだよ!そうだ、カラス男が僕に感謝したんだ…!

体の熱が暴走していく。そう、暴走に違いなかった。ヒカリはその熱を無理にエネルギーに変えて駆けた。手の怪物の――背後ではなく、カラス男の目の前――怪物の真正面に向かって。

………!

ああー!もう!

………。

ザアッ、と靴が床を擦る音。そしてブレスレットの音がした。ああ、世界がスローモーションになったみたいだ、とヒカリは感じた。この距離ならばカラス男の踏み込みもきっと間に合わない。だが今はそれでよかった。赤い触手が風を切って伸びる。顔は下げない。目だって瞑らない。ぐっと正面を睨みつける。

そうだ…無謀でいいんだ…!だって――

無謀が勇気に変わるのを待ってたら…日が暮れちゃうじゃないか!

辺りが真っ暗になって、頭の中に文字が浮かんだ。まるで祝福するように、これが自分の名だと言わんばかりに。それは突き出した手の中ですでに形を成していた。肺の中に残った酸素をすべて吐き出して――ヒカリは叫んだ。

行くぞ!
『キューティバレット』ぉ!

ボヨォ~ンッ!

引き金を引く。ヒカリはカラフルな銃身から放たれた青色の弾丸が触手に着弾するのをその目でしっかりと見た。

――触手はヒカリを……貫かなかった。彼は無傷だ。それだけではない。さっきまであんなに存在感を放っていた敵の姿がこつぜんと消えてしまった。

あっ…?

そしてヒカリは尻もちを、スクイはため息をついた。

や、やった…?でも、敵は…

…ここだ。

サグルが地面を指差す。――「巨大だった敵」はそこにいた。ちょこんと佇んで、ヒトデのように指をわきわきと動かしている。触手を必死に伸ばしているが、まるで長さが足りず届かない。怪物は……小さくなっていた。サグルは少しの間の後、ためらいなくそれを踏み潰した。

「物を小さくする性質」だね。

スクイは眉一つ動かさずそう言った。目に見えて不機嫌だった。

なぁんか拍子抜け。つまんない。

スクイの発言は明らかにまともな人間のそれではなかった。ヒカリにとっては、まるでサグルが苦戦するのを喜んでいるように感じられた。だが、今は……

君の名前が知りたいな。――ほら、もう色々…隠せないし、僕、黙ってるから。

………。

長い沈黙。何を迷うことがある、と二人は思ったが、互いに口には出さなかった。

混リ夜…サグルだ。

そっか、サグルさん…。僕は谷ヶ谷光。君と同じ学校の一年生だよ。

すでに持っているであろう情報を渡し合う。言ってしまえば無意味な時間に過ぎなかったし、その行為の意味もヒカリはよくわかっていなかった。ただ、自分はもう、さっきまでの自分とは違う――そんな確信だけが頭の中にあった。

………。

あー、はいはい。スクイだよ。

雑な自己紹介の後、もう帰ろ、とスクイがサグルの腕を抱く。サグルがこっちだ、と誘導すると、ヒカリもその後ろ姿を見失わないよう歩き出した。

静かな時間が少しだけあって、やがてサグルに体を寄せたまま、引きずられるように足を動かしていたスクイが再び口を開いた。

ねーねー、サグルぅ。この交差点、このままにしておくの?

…いや。そういうわけにはいかない。

実際に被害者が出ている以上、放っておくことはできない……それがサグルの返答だった。スクイがにやりと笑った。

…じゃ、今日は帰ってゆっくり体を休めなきゃね。

こつん、と嬉しそうに頭を預ける。……変わらず引きずられてはいたが。ヒカリはそんな光景を見つめながら、この廃墟を出た後の事を考えていた。

ここで――

無事に救出され、帰ったら……妹にこっぴどく叱られて、食事をして、そして一眠りして、たとえ間に何が挟まろうが結局はまた日常が戻ってくるのだろうと思った。不思議なことに、ここに連れ込まれて、怪物に追いかけられ――あれだけ危険な目に遭っていながら――平穏な日々を想像するたび、なぜか彼の足取りは重くなった。

その足枷は出口の手前で、ついに歩けないほどの重さになった。足音が止まったのを感じ取って、サグルが振り返る。

…谷ヶ谷、どうした?

ヒカリは下を向いていた。サグルが歩み寄る。

もう…"やけ"だなあ。ここまで来ると。

サグルさん。カラス男の正体…黙っててあげる代わりに一つ、お願いを聞いてもらえないかな?

はい、ダメー!絶対ダメ!残念でした!この話は終わり!

…その願いは俺に叶えられるものか?

ヒカリはこれを言うと必ずこの先、さっき以上に危険な目に遭うことを予想していたし、そんなものは自分の性に合わないこともわかっていた。

しかし、都市伝説の「カラス男」が今、自分の前にいるのだ。今までの自分は、きっとあの時……カラス男の前に立ったとき、怪物の攻撃に貫かれて死んだのだと思った。――今ここにいる自分の身代わりとなって。言い聞かせるのは得意だった。

心のどこかで、止まるのなら止まってくれと願ってはいたものの、まだこの感情が止まる様子はない。

僕を…

「ああ、僕はなんてことを」。だが――

――僕を君の手下にしてほしい。

ヒカリは今、何故だか幸せな気持ちだった。

人さらい交差点の調査
一日目……終了

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