【2015年、春。桜壱貫】
【2015年、春。桜壱貫】
何も無い部屋ね。ビリヤード台の1つも無いの?
俺の家へ押し寄せた女の横柄な声が響く。女、桃野恵は辺りを盛んに見渡し室内を物色している。リビングの右隅にある冷蔵庫を三方から訝しげに眺めた後おもむろに引き開く。
やったぁぁ! プリン発見っ!
……。
この可笑しな事の発端は30分程前に遡る。
始業式から3週間を経た今日、授業の終わりを告げる鐘が今日も淡々と響く。
ある者は空を仰ぐように背を伸ばし、またある者は自身が記したノートを再読した。
教室の中ほどに在るこの机へ、先日時を止め物騒な銃を撃ち放した女『桃野恵』が近づいてきた。帰り支度をしている俺へ奴はこう言い放った。
今日から、あんたの家へ厄介になるから。じゃあ、宜しく言っておいたわよ♪
思考が止まる。止まった一瞬に友人が片手を上げて去って行った。
……貴様。今何と言った?
確認のセリフに、奴は呆れたように両手を掲げる。
2度言わないと分からないわけ?
ガール。あっ、違った違った。可愛い可愛い桃野恵さんが、あんたんちに世話になってあげるから、ありがたく思うのよ! って事。アンダスタン?
……。
鞄に勉具一式を詰め込み、先に教室を出たなゆた達を追うことにした。教室内では下校前の掃除が始まっている。生徒達が後方へ机を移動し始めた。
ちょ、ちょっと! 話を聞き流すんじゃないわよ! あんた、き、聞いてんの!
足を踏み出す。床を掃く級友に別れを告げ教室の戸を潜る。雑音を無視し我が家への道を急いだ。
――貴様、いったい何の用だ?
門の前で振り返る。鞄に抱き付いて来たその女へ問いかける。
あ、あんた! か弱い女の子を何キロも引きずり回して何が、『何の用だ?』よっ! って、ここ何処よ?
俺はヒノキの角材で出来た表札を示す。
何処も此処も無い。俺の家だ。
荒い息を落ち着かせスカートの埃を払い、奴『桃野』は俺に指を突きつけ言い放つ。その眉間には大粒の汗が浮かんでいた。タオルで拭いてやる。
あ、ありがと。……じゃないわよ! あたし『桃野恵』様がしばらく、ちょっとだけかな? あんたんちに世話になってあげるわ! 覚悟しなさい!
……それからだ。こいつが喚き、騒ぎ、俺の家を蹂躙したのは。
お茶は無いの? 私、紅茶はうるさいのよ。美味しいの淹れてよね!
着衣を替えた早々、俺が俺の為に緑茶を注ぐ中、五月蠅く喚き、
なかなかいいアンティーク持ってるんじゃない。結構いい物よ、これ♪
落ち着きなく歩き回り、父のコレクションを知ったような口で鑑定し、
あははっ! このドキュメントの女、馬鹿じゃない?
男に『騙されて悔しい』じゃなくて。そんな男を『騙してなんぼ』なんじゃない! ねぇ?
勝手に付けたテレビを以って、俺に真偽を問いかける。……はっきり言って鬱陶しい以外の何ものでも無い。
そして時を計ってこいつは銃をぶっ放つ。
茶を啜りつつかわす。1発目。
夕食のサラダを刻みつつかわす。本日2発目。教室での1発を加えると3発目だろうか。
食前の読書。なゆたに借りたハードカバーに栞を挿みつつ、銃弾をブロウで叩き落す。
目で威嚇しても何の効果も無い。テレビを観賞、茶菓子の『黒麩』を摘まんでいる。その、俺の茶菓子を片手に腹を抱えて笑っている。
夕食のスープを2人並んで嗜んだ後(のち)、桃野はこう言った。
あんた、さぁ。なんでガールのこと、殺さないの?
ピアノのキーを打ち音階を確かめる。
さあな。
ピアノに向き合い指を流した。その間、桃野は何故か大人しくしていた。先程まで漫画本片手に音をだだ漏らしていたヘッドホンはいつの間にか外されていた。
いい曲だね。なんて曲?
……名前など無い。至極適当だ
俺が流す音を聞きつつ『桃野』は声を漏らした。
ガールとマムね。幼い頃ダドに拾われたんだよね。あっ、ボーイもそうなんだけどさ。
一息休めるような旋律を選び、俺は音を奏でた。俺の後ろで桃野の言葉がポツリ、ポツリと流れる。
何も無かったんだぁ。住む場所も、食べるものも、……生きる意味も。まぁ、生きたいとも思ってなかったけどさ。
否定も肯定もせず、俺は音を届けた。
そんなみんなをダドがくれたんだぁ。あの時は、……嬉しかったなぁ。私さ、柄にも無く泣いちゃって、……さ。
苦しいこと、つらいこと。桃野達は、みんな家族で乗り越えたと言う。
そうだ、あんた自分がどうやって死んだか知ってる?
未来の俺の事だろう。適当に返す。
餓死よ、餓死! 娘を『なんとかの園』へ送ってすぐに餓死。私の前であんた、私の銃じゃなくて、エネルギー切れして死んだのよ?
あんた、最後まで生き残った1人なのに、誰1人殺してないのよ? そんな力持ってるのにマム、……は無理でもボーイくらいなら殺せるのに、あたしの家族、誰1人として殺さずに死んだのよ?
……そんなにおかしい事か?
可笑しいに決まってるでしょ? 敵を倒さないで、好きな女も守れないで、餓死なんだから!
ふと、気になった。指を休めて聞いた。
あいつ、……あのちびは腹を空かせてなかっただろうか。
……。
桃野はすぐに答えなかった。ただ眉を吊り上げた。
知らないわよ、そんなこと!
それからも俺はピアノを弾き続けた。観客がなだらかな時を楽しめるように弾きつづけた。
――終幕。俺は静かにキーを押し潰す。
壁に身を預ける『桃野』は窓の外を観ていた。
今更かもしれない。だが俺は言葉で示すことにした。正しい、正しくない云々でなく言葉で示した。『桃野』の言葉を思い出して、想いを口にする。
……それがお前の親なら、腹を空かせた自身の姿をお前に見せただろうか。
何を1番に考えるだろうか。勝つこと、だろうか?
そんな言葉になった。
与えるのは、
口をつぐむ『桃野』へ視線を向ける。
安心感。つまりは子に対する笑顔なのではなかろうか。
知ったようなことを言うわね!
『桃野』は振り返り叫んだ。その目は俺を憎々しく見つめていた。
何故かは解らない『桃野』のその表情は一番の怒りを表していた。自分自身気が付いていない、そんな表情に思えた。
あたし、絶対あんた達殺すからね! 覚悟しときなさいよ。
俺の返答を聞くことなく桃野は外へ飛び出した。玄関の戸を開け放ち足音高く走り去る。
最後、俺の眼に映ったのは泣き顔だった。高慢でも不遜でも無い、心の奥から染み出たような『普通』の女の子の表情だった。