2020年10月10日
2020年10月10日
朝起きて日めくりカレンダーを一枚めくる。
別にそれ自体はたいした仕事でもないし、
一日や二日そこらサボってもなんの問題もないのだけれど、毎日のようにやっていると体が習慣的に動く。
一枚薄い紙をめくって切り放す。
2020年10月9日と書かれたその紙を丸めてゴミ箱に捨てる。
目の前のカレンダーは2020年10月10日に変わっていた。
そしてこの日、僕は彼女に出会う。
カレンダーに記された曜日は土曜だった。
僕は部活にも入っていないので、今日明日と学校にいく必要はない。
休みを満喫するために本屋にでも行って、
何か文庫の一冊でも買ってこようと、はたと思い立ち一枚上着を羽織った。羽織った上着は室内では少し暑く感じた。
僕が向かおうとしている本屋は、家から少し離れた場所にある。少し離れた、といっても好きに〝扉〟をつくれる僕からしたら目の先だ。
扉を作るにあたって、僕なりの手順がある。
まず、僕の頭がまるまる収まるサイズの入口扉を、右手をかざして部屋に作るようにイメージする。
次に目を閉じて頭の中で強く本屋のトイレ天井あたりをイメージする。
そして目を開くと、もうそこには黒い……とにかくブラックホールのような円形の扉(扉といっても戸はない)が出来上がる。
一度、頭だけを入口につっこみ、本屋のトイレ内に人がいない事を確認したら、頭をひっこめて扉を閉める。
この順番を間違えて、頭をひっこめる前に扉を閉じてしまったら大変だ。
僕の首から上が一瞬にして切断されてしまう。
そしてもう一度、今度はトイレ天井ではなくトイレの個室内に出口を作り、自室に形成された入口から侵入する。
この作業だけで簡単に少し離れた本屋へと着く事ができる。
僕がなぜいちいちこんなにも慎重に動くのかは、完全に性格の問題だ。
強すぎる能力は時として他者との関係を複雑にさせてしまう。
バレたくない。僕はひたすら臆病なのだ。
そのため〝能力は必要最低限、使用時は完全犯罪のように慎重に行う〟
○ ○
本屋から自宅に戻り、購入したばかりの真新しい本を開くと、独特な紙の匂いが僕の鼻孔に深く侵入してくる。一瞬の至福だ。
十五分かそこら本を読み続けていると、僕の目の色と同じ赤い瞳をギラギラとさせた頭の先からしっぽの先まで真っ黒の猫が、かまってくれと言わんばかりに僕の膝の上に乗った。
にゃあ
飼い猫の"ポポ"だ。
僕はポポに甘えられるとなぜだか放ってはおけない。
いつもついついかまってしまう。
だがおかしな事に本来僕はネコ好きではないのだ。
むしろポポ以外のネコにはなんの興味も湧かなければ、むしろ少し怖いくらいなのだから。
それでもポポだけはどうしても愛おしく思えてしまう。
僕がそんなポポに手を伸ばした矢先の事だった。
騒いだら殺す。振り向いても殺す。
突然背後から女性のものと思わしき、透き通ったような繊細な声が僕の耳にするりと流れ込んできた。
どこか聞き覚えのあるようなとても聴きやすい声質が放つ言葉の内容との違和感が強くて、
一瞬のうちに頭の中は白濁色で満たされたように霞がかった。
ついさっきまでこの部屋には僕と黒猫のポポしかいなかったはずなのに、明らかに声が聞こえてきたのは僕の真後ろからだった。
呼吸からきているであろう生暖かい吐息、衣擦れの音、視線、殺意、ありとあらゆる五感からその存在を確実に認識できる。
――そういえば以前にもこんな事があったような……。
誰ですか?
自分でも驚くほど、ひどく冷静に問いかけることができた。
神母坂(いげさか)黎佳(れいか)……って言っても分かんないよね。
君に質問なんだけれど〝猫〟についてどこまで知ってる?
もちろんそこにいる動物のことじゃなくて……ね? わかるでしょ?
おそらく彼女の言う〝猫〟とは、
〝能力犯罪者集団の猫〟の事だろう。
よくテレビのニュースでも頻繁に報道され世間を騒がしているのだから、まともに生活を送っていたならば必ず一度は耳にする集団だ。
テレビで聞いた事くらいしか……えっと、能力犯罪者集団で構成員も能力もほとんど不明で――
うん、それだけ知っていれば充分。
でも犯罪者集団って呼ばれ方はいただけないなぁー。
法で裁けない犯罪者を善意で捕まえてあげているだけ。
それでね、もう単刀直入に言っちゃうと、
私は君をその〝猫〟に勧誘しにきたんだ。
拒否権は……もちろんないんですよね?
色々な疑問が湯水のように溢れてきて、
正直臆病者の僕がパニックになってもおかしくはなかったはずなのにまたしても冷静に答える事ができた。
もしこれが能力の効果なのだとしたらかなり危ない。
もちろんだよ。藍美輪君?
別にあなたを悪いようにするつもりはないんだ。
ただ私達にはあなたの能力が必要なの……さあ、キミの答えは?
その言葉で全身の穴という穴から嫌な汗が吹き出た。後ろにいる彼女に命を握られているからではない。
なぜ、いつ、どこで、どうやって僕が能力者であること、そして僕の能力までをも知っているのか……。
この人はどこまで知っている……?
僕は今、あなたを一瞬で殺すことができますが……!?
はったりではない。ここは見慣れた僕の部屋だ。
すぐに出口をイメージできる。
背後にいる彼女がどこら辺にいるのか、詳しい位置は確実には分からなくとも、別段広くもないこの部屋なら僕の真後ろ全域に扉を作り、瞬時に閉じる事で彼女の上半身と下半身はすぐにでも切断させる事ができる。
そう? それでもいいけどやってみる?
でも残念ながら私はこれでも五本線なんだ。
さてどうする?
ブラフか……? いや、そうと決まったわけではない。むしろこんな芸当ができる時点で多数線持ちなのは確実。なにより相手は猫だ。五本線がいてもなんらおかしくはない。
しかしこれで分かった事が一つある。
だからこそ少し、ほんの少しだけ安堵した。
まだ僕の全てを知られているわけではないのかもしれない、と。
僕も……五本線です。
答えた矢先、僕の両肩に彼女の手が伸びる。
やばい……少し強気にですぎたか……?
いや……でも雰囲気が変わった気がする。
さっきまでの殺意のようなものが感じられない。
当然僕は一瞬身構えたが、
彼女と殺し合いをする気はさらさらなかったので、すぐに大人しくする事にした。
彼女の先程の言葉が事実だとしたら、それこそ戦いを挑むのはリスクがでかすぎる。
いくら僕が六本線の亜種だといっても、相性というものだってあるうえに相手はプロ中のプロなんだ。
線の場所は?
彼女は問いかける。
右肩……です……。
そう
優しい声で。
背後の見知らぬ女の指は、関節のひとつひとつが丁寧で優しく、ゆっくりと僕の肩に吸い付くように動いていて不思議と嫌な気分にはならなかった。
それどころか、声を聞いた時と同じようにまた懐かしくも感じた。
気づけば彼女は僕の右肩だけをはだけさせていた。
あはははは、嘘つき。
六本線の亜種じゃない。
せいぜい三本か四本程度だと思っていたんだけど……これは嬉しい誤算だったね
僕の肩にできた六本線を見て、普通なら怯むか驚くところを彼女は喜んだ。
その余裕に、やはり彼女の五本線という言葉は偽りなんかではなかったことを僕は確信した。そしてまた僕の能力の全てを知っているわけでもない、ということも。
それでも疑問が一つ。
六本線を見て驚かないんですか……?
私は嘘つきなんだ。
まさか私以外にもいるとは思わなかったよ。
六本線の亜種なんて……。
本当にこの人も六本線の亜種……?
ただの六本線でさえ神話のような話なのに……。
ふふふ。君がいま何を考えてるか分かるよ。
こっちを向いて、特別に証拠を見せてあげよう。
ほれ。
振り向いた彼女が学生でそして美人な事にまず驚いた。
それでも、そんな一瞬の驚きはもっと大きな驚きですぐにかき消えた……。
本当に六本線の亜種だ……。
六重の三角形……。
いや、驚いたのはそこじゃない。もちろん驚いたには驚いたのだけれど。
六本線を見せるために、なんの躊躇もなく制服をたくし上げた彼女の胸は…………でかかった――
こんな場所に出来るなんて嫌味よね。
で、どうだった?
あっ……はい。たしかに僕と同じ六本線亜種でした。
そうじゃなくて……。
ど う だ っ た !?
とても……綺麗でした……はい……。
輪くんのえっち……。
本当に何者なんだこの人は……色んな意味で。
で、どうするの輪君。同じ六本亜種でもたぶん私には勝てないよぉ?
彼女がニマニマとした表情で話しかけてくるのは先程の茶番の続きではない。
言動のひとつひとつに微塵も動揺が感じられない、きっとそれほどの能力者なのだろう。
それなら僕は……