【2015年、春。桜壱貫】


 二階造りである茶の建屋を眺める。幼き頃からの連れである『なゆた』と共に登校せんと、俺はインターホンを押しつぶした。

『にゃにゃにゃ、にゃ~~ん』


 猫の鳴き声を模した呼び鈴が響く。
 近くを通りかかった黒い野良が足元へ近づき体をこすり付ける。

……。

壱貫

おい、なゆた! 迎えに来たぞ。時は金也、早くしろ。



 俺の声にカラスが空へと舞っていく。視線を扉へ戻す。と、中から話し声が聞こえた。

なゆた

うわぁ、もうそんな時間だったんだ。急がなきゃ、だよっ!


 慌てふためく少女の声、この響きには十何年と慣れてきた。幼い頃からの俺の日常、その一部となっている。腕を組み扉の前で数分経てば事足りる。

 裾の乱れを正し、しばし待った。

モカ

なぅ、気にすること無いでしゅよ。いっかなんて放って置くでしゅ。今は優雅に味噌汁を嗜むでしゅ!
 昔の人も言ってました。
『朝食は全ての始まり、大事な一日も朝餉から』って。
 朝はもりもり食べるのが大事なんでしゅよ?


 舌足らずな響きが、もごもごと室内から流れてくる。声の主は間違いなく、あのちびだ。

『……それはお前だけだ』

 言葉には出さず呼び鈴を鳴らすことにした。事は優雅に颯爽と運ばねばならない。

……♪


 2度目の呼び鈴に足元の猫が反応する。全身を以って甘えてくる。
 俺はうずくまりその背を撫でた。猫は気持ち良さそうに、低い甘い声で喜んだ。苛立つ心が落ち着く。俺は猫に笑顔でもって応えた。

 腕時計が5分の経過を俺に教えた。

なゆた

いっくん待ってるよ。早くしなきゃだよ! モカちゃん!


 そうだ。コレが普通の反応なのだ。なゆたには後で甘味をおごらねばならんだろう。
 止まった愛撫に猫が不満を訴える。伸ばした前足で空を引っ掻いている。

 どういう訳か、いけ好かん声が三度聞こえてきた。

モカ

いっかはそんなちっちゃい事を構う男じゃないでしゅ。待たせて男を立たせてあげるのが優しさというものでしゅよ?
 うやぁぁ、この浅漬け美味しいでしゅね~! まいたん、御代わりいいでしゅか?


 頭に血の筋が奔る。手鏡を出す。……心なし生え際が際立ったように思える。否! 思い過ごしだ。
 息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
 そんな俺の様子を見ていたのか、野良猫は寂しそうに俺の隣りを去っていった。
 指を振って別れる。それより今は己の容貌が気になるところだ。


 ――その数十秒後。生え際の危険を確認し、杞憂と気付いた頃だ。
 タイヤの鳴く耳障りな音で俺は我に返った。先ほどの黒猫を探し求める。視線を走らせるが近くには姿を確認出来ない。
 胸を埋める嫌な予感に鞄を投げ捨て走り出した。


 先の路上で猫を見つけた。

……

壱貫

……。



 否応も無く予想していた様が其処には在った。塀の下で四肢を丸め、静かに、誰も見つけることが出来ないくらい小さく、猫がうずくまっていた。
 黒い外車が軽やかなスピードで路上の先へと去っていく。
 後に名も知らぬ黒猫を残して。

壱貫

……。


 猫の口元を拭う。その顔はとても綺麗だった。


 己の家までそれほどの距離も無い。ゆっくり、亡き骸を汚さないように抱き上げる。胸へと包み誰も居ない我が家の門を2人で潜る。

 言葉は無かった。

 家の隅、桜の木の脇に位牌が在る。
 その茶の札木を前に俺は思い出していた。
 幼き頃からの連れ、『なゆた』を愛しく想い始めた頃のことを。

 8年前のあの日。一匹の友人との早過ぎたサヨナラを。

【2007年、春。桜壱貫】

壱貫

――なゆた、お前は少し俺から離れて歩け。俺にばかり付いてくるんじゃない!


なゆた

なんで? 私、いっくんと遊びたいよ?


壱貫

ガキと遊ぶつもりは無い。そう言っているのが分からないのか。俺はこいつの面倒を見なきゃいけないんだ。……あっち行け!



 今思えば、桜壱貫という男は可愛げのないガキだったのだと思う。

『あっち行け』

 ……酷い言葉だった。他に言葉は無かったのだろうか。



 俺と『なゆた』は生まれて間もない頃から共に生活をしてきた。お互いの両親が学生時代からの親友だったのいうのが一番大きなところだろうか。
『なゆた』は同時期に産まれた妹のようなものだった。

 俺にとって『なゆた』という少女は面白くない存在だった。
 公園の砂場に行っては、隣で泥団子を食べようとしているから注意をしなければならない。
 近所のスーパーに行っては、菓子の封を開けてしまうおそれがある。これまた注意が必要だった。
 俺に言わせれば『なゆた』と云う少女は、幼馴染の名を冠した疫病神だったのだ。



 ……覚えている。あれは小学2年の夏休み、その最後の日だった。その日も飼い猫である青毛の『しゅら』との散歩を、当の彼女『なゆた』に遊びたいと駄々をこねられ邪魔されてしまった。

壱貫

なゆた、お前はなんで俺に構う。そこら辺のガキと遊んだらいいだろ。



 それに対してあいつの答えがこうだ。ただ淡々と言い募った。

なゆた

いっくんがいい。しゅらちゃんと一緒に遊びたいよ、私!



 結局のところ、俺は『なゆた』の面倒を見ることになった。あと、これは『しゅら』に謝らねばならないが『なゆた』の満足そうな笑顔に何故か脈が早くなった。すまないと思う。

にゃー! にゃー!


壱貫

……すまんな、しゅら。



 不満を露にする『しゅら』。クワッと広がる彼女の口と、一際目に付く糸切り歯。おやつの干物を彼女に差し出し頭を下げる俺。
 後から振り返ればそれは、……俺と『しゅら』が交わした最後の、ごく普通どこにでも在るふれあいの姿だったのかもしれない。


 数時間後、夕陽を背に俺と『なゆた』は泥だらけで帰ってきた。その姿をまるで勲章のように見せつける『なゆた』を前に楽しそうに『真衣さん』が笑う。
 しかし何故だろう。俺達を待つ一員の中に、友達『しゅら』の姿が見当たらなかった。

壱貫

母上。しゅらは何処だ?



 母親は苦笑しつつ、

お外に出て行ってしまったのかしら? それはそれで、ね……



 外食に出かけるから着替えなさいね。今日の夕食は私の美味しくない料理じゃなくて良かったわね。

と、母はそんな事を言っていた気がする。

壱貫

母上。しゅらをほっぽって食事になど行ける訳がないではないか。父上。貴方もそうであろっ!



 父親は俺の言葉などには頷かない。黙り、片腕で俺の襟首を持ち上げ湯船の中へ投げ込んでくれた。

 そんな俺を大きな目で見ていたのは泥だらけの『なゆた』だった。

 ――ここからは、幼い『なゆた』に聞かされた話が多分に含まれている。誇大表現がある、そう思われても仕方がないかもしれない。
 だが、俺は本当の事だと思っている。これがたった一つの、……真実なのだと。


『なゆた』は俺と別れた後、『真衣さん』の制止も聞かず街中へ飛び出したという。
 俺が探せない分、自分が頑張らないといけない。そう思ったのだろう。懸命に足を動かし、『しゅら』を求めて町を走り回ったそうだ。

 夜も更ける中、ネオン瞬く商店街で走り疲れて休みたくなった頃に見つけたという。『しゅら』が道路を横切る姿を、走り迫る黒い車体を。

 手を伸ばした時にはもう、彼女『しゅら』は、……空を舞い地面へ叩きつけられていたという。全然間に合わなかった『なゆた』の足では追いつかなかったのだ、と。当時の彼女は泣きながら俺に告白した。
 まあ車のそれと『なゆた』の足では比べるまでもない。だが彼女は、いつまでも、いつまで経っても……、その愛らしい顔をぐしゃぐしゃにして俺に謝り続けた。


 話は前後する。
『しゅら』を抱いてうずくまる『なゆた』、道の真ん中に居る彼女に、赤や、黄色、青の車が喚き散らした。眩い光で追い払おうとしていたそうだ。
 その一地区は当時完全な交通麻痺を起こしたらしい。突如降り出した夕立の中、すすり泣く彼女を大きな大人たちが退かそうと色々試みたと聞く。



 やれ、
『悪い病気がうつるよ。汚いから離しなさい』

 やれ、
『帰宅の邪魔だ。親はどこに居るんだい』



『なゆた』を大きな声で責めたという。

 そんな彼女が言い放った言葉がある。当時、近くの駄菓子屋に住んでいた老婆が、俺に教えてくれた言葉だ。

なゆた

いっくんが来るまでは渡さない! しゅらちゃんがいっくんとのお別れが出来るまで、それまでは離れないよ私!


『なゆた』は『しゅら』を抱きしめたままテコでも動かなかったそうだ。

 ――それから数時間後、騒ぎを聞きつけた真衣さんと俺達は、道路脇に追いやられ泣いていた『なゆた』を発見した。その服は赤く染まって肌に張り付いていた。

 俺が目にしたのは、青い友達が赤く染まった姿だった。
 俺を前にした『なゆた』はぐずりながら泣き叫んだ。俺の、空っぽになった脳に、とても沁みた言葉だった。

なゆた

ごめんね、いっくん!
 わたひ、わたひね。
 しゅらちゃん守れなかった。しゅらちゃんね、痛かったのに、私、なにも、なにも出来なかった!
 ごめんねっ!!



 雨のせいだろうか、その額は、頬は、顎の先には、大粒の雫が溜まり流れ落ちていた。『なゆた』の肌を、いつまでも……延々と流れていた。
 そのときの俺は感情が制御出来なかった。足を崩し多量の涙を零してしまった。この少女を愛しいと思った。この子は、この子だけは、自分が守らなければならない、そう思った。
 息を詰まらせながらも顔を振り上げ、目の先で歪む少女に叫んだ。

壱貫

ありがとう。なゆたっ、ありがとう!



 それ以上は顔を上げて居られなかった。地面に深く突っ伏してしまった。苦しくて、辛くて、我慢できなくて、……喉が潰れるほど泣いてしまった。

 明くる日、新学期の最初の朝。最後のお別れをなゆたの前、両親が見守る中、俺は大声で行った。
『しゅら』へと贈る、桜壱貫、最後の言葉だ。

壱貫

強くなくてごめんな! しゅら!



 何ゆえ強くなければ為らなかったのか? 他人が見れば疑問を覚えるかもしれない。しかしあの時の想いを俺は今でも覚えている。

 ……俺は、強くなりたかったのだ。強く在りたかったのだ。
 自分も『なゆた』も『しゅら』も、みんな、みんなを泣かせることの無い強さが、
 ……俺は欲しかったのだ。

【2015年、春。桜壱貫】


 ――目を開いた。俺は今、高校1年という節目に居る。あれから8年という月日が経過している。
 園芸用のスコップで地面を掘り、穴へ黒猫を横たえる。そして深く祈った。この猫が無事天国へ行けるよう。

壱貫

……。


 この空には目の覚めるような蒼が続く。
 俺は其処に、いつか『しゅら』の元へと辿り着きたい。

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