【――孤高の戦士が求めるは風。一際澄んだ気の流れ。
 それは少女が起こした愛しい微笑み。少年が残した尊い歓声。
 人に、人の心に宿る純粋な想いの形。
 それは己が味方に求めるもので無く、生けとし生きるもの、全てに見たいと思うもの。
 それが例え敵対する側のものであったとしても……。
 隻腕の騎士ジョーカス・オリファーはそんな人々の生き方を、想いを、愛しく思っていたのかもしれない。――】

 ためた想いを吐き出す。憧れの騎士の生きざまに言葉が出ない。
 なんて素敵な生き方なんだろう。そしてこれから彼はどんな旅を、出逢いを行うんだろう。

 窓からほんのり熱を宿した夕陽が差し込んでいる。帰宅後ずっと読み進めていた本に栞を挟む。先のページへと指を進めようとした時、階下から跳ねるように昇ってくる足音が聞こえた。

モカ

なぅ~、ご飯でしゅよ~。今日の夕食はカレーなんでしゅって! まいたんはほんとお料理上手でしゅよね~♪



 モカちゃんがドアを開いて現れた。首を左右へ揺らす姿は餌をついばむインコにも似ている。

モカ

あ、あやや?



 モカちゃんが私の手元を覗き込む。

『なぅは何をしてるんでしょ?』

 そう言いたげな眼差しで、私の横に顔が倣う。
 その手にスプーンが2つ握られているところを見ると、真の目的は私と一緒に夕食を摂ることだったんだと思う。

モカ

なぅはいったい何の本を読んでるでしゅか?



 階下から昇る匂いに惹かれつつも私は応えた。顔を振り上げモカちゃんの鼻先にハードカバーを突きつける。


 長編小説『独りの戦士』。
 それは、【……戦士は独りだった】という一文から始まる隻腕の騎士の、幾つもの戦いと出逢いを描いた作品なのだ。

モカ

……ジョーカー様のお話でしゅね。


なゆた

モカちゃんも読んだ事あるんだ! メジャーなお話だったんだね、これ! ……ならさ、モカちゃんも……



 モカちゃんの意外な反応にほくそえむ。この可憐な犬耳戦士を『なゆちゃん、ジョーカー様を想う会』へどうやって引き込もう? とりあえず本の後ろに張ってある閲覧カードを引きずり出す。

『柊なゆた』『桜壱貫』

 今此処には2つの署名しかない。
 私による私の為の邪まな勧誘にこの美少女は気付いていまい。

 背に軽い圧が掛かる。

モカ

耳が腐っちゃうぐらい、いっぱい、い~~っぱい読んでもらったでしゅよ。…………マァマに。



 ……わきわきと動かしていた指が止まってしまった。

なゆた

……そっか。



 なんて声をかければいいのか分からなかった。背中の温もりに応える方法が分からない。

 背中が熱くなってくる。僅かな振動もそこには在った。

モカ

なぅはこの物語どこまで読みましたか? どこが一番、……好きでしたか?



 すごく気になる質問だった。好きな作品の好きな場所を語れる、それは幸せなことだと思った。
 天井の木目を眺め物語の世界へ想いを馳せる。

なゆた

ジョーカー様がね、最後の旅に出る直前まで。あと少しで読み終わるよ。



 背中から来る振動は止まらない。私は言葉を続けた。

なゆた

好きだったのはね。全部!
 ジョーカー様の生き方も、彼に出会った全ての人も、化け物も、みんな。み~んな好きだったよ。



 モカちゃんの頭が背中を擦る。モカちゃんのしたいようにさせた。私はただ此処に居ればいいと思った。

モカ

やっぱり、……変わってないでしゅね。……同じなんでしゅね。



 モカちゃんが呟く。その言葉を妨げないよう耳を傾ける。

モカ

けど、けど違うんでしゅ! ボクが真紅の狩人としてマァマと別れ生きてきた3年間、考え方が変わったんでしゅ!
『ジョーカー様の生き方は正しい』
 そう、素直には思えなくなったんでしゅ。



 私は問いかけた。彼女のマァマには成れないけれど、少しでも……近づきたくて。

なゆた

……なんで、かな。



 そのままの態勢で時間をかけて問いかけた。

モカ

……ジョーカスはその戦いを、大人の人達にだけ見せました。その戦いの意味を考えてもらうために。
 子供達には見せませんでした。心が傷ついてしまわないように。
 けど、戦い続けてよく分かりました。



 モカちゃんが腕を巻きつけてくる。

モカ

大人達はボクを利用しようとしましゅ。戦争より今の生活が大事なんでしゅ。『耳を傾ける』なんてことはしましぇん!
 子供達は応援してくだしゃいましゅ。戦争が正しい。そう思う子なんて居るわけありましぇん! 彼らには強さがありましゅ。曲がらない生き方が在りましゅ!
 真っ直ぐな眼を持ってましゅ。『お父さん、お母さんを守りたい』そんな健気な想いがありましゅ!



 私は腰に巻きついたその腕をそっと撫でた。……チカラになりたかった。

モカ

だからボクは子供の時間だけは止めましぇん。そもそもフリーシーに子供を止める力なんてないんでしゅ。
 それはきっと、子供はみんな純粋で強い想いを持っているから!
 それにボク、そんなに強くはないんでしゅ。だからいっぱい、いっぱいの人に応援して欲しいんでしゅ! 『頑張れ!』 そう、みんなに叫んで欲しいんでしゅ!
 手を伸ばして、たくさん、たくさん。ボクに向かって応援をしてもらいたいんでしゅっ!



 ――我慢が出来なかった。
 モカちゃんを抱きしめる。この胸に抱き留めた。

なゆた

頑張ったんだね。すごく、私なんかが分からないほど頑張ったんだね。
 嫌な人たちとも戦ったんだね。我慢出来ないくらい色々なことがあったんだね!

 ――結局、モカちゃんが階下へ降りる事はなかった。私が持ってきたカレーを2人で食べた。部屋の中に立ち込めたカレーの匂いに、

モカ

……とても懐かしい匂いでしゅ♪



って、目を腫らしたモカちゃんが微笑む。知ってはいけないことだと思ったから私は気がつかなかったことにした。

 その夜は2人一緒に私のベッドで眠った。

モカ

……マァマぁ。



 その言葉を何度も耳にした。モカちゃんはお母さんが大好きだったんだ。本当に、心から。
 胸元に湿り気を感じて、モカちゃんを覗き込む。
 その寝顔は幸せに満ちていた。頬を伝う涙は笑顔に弾かれていた。

モカ

……マァマぁ。美味しいでしゅねぇ♪

 ――モカちゃんを抱きしめる。
 自分が彼女の『マァマ』では無くてもせめて今は、今だけは自分が代わりでいてあげたかった。

モカ

……もう、……もうどこにもいかないで……。



 眠りに落ちる直前、――そんな言葉が私の耳に届いた。


 小鳥のさえずりで頭が起きた。両手を大きく上へと伸ばす。カーテンの隙間から差す光がこそばゆい。

なゆた

ふあぁぁぁ、……もう朝かぁ。



 目を擦って辺りを見渡す。

 モカちゃんが隣で眠っている。上下を繰り返す薄い胸板、幸せそうに微笑む寝顔に心から安心した。
 今、この瞬間に大事な日課を思い出す。

なゆた

うわっ! 日記付けなきゃ、だよっ!



 跳ね上げた毛布がモカちゃんの髪を揺らしてしまった。
 慌てて布団を直し、モカちゃんの顔を慎重に覗き込む。

なゆた

ふぃぃ~~。


 モカちゃんが起きなかったことに安堵した。変わらない寝息に長く息を吐く。
 私は改めて布団から足を出す。上着を羽織り、自身の勉強机に腰を下ろした。2段目の引き出しから1冊のノートを取り出す。

【題名はまだ無い】


 ピンクの表紙には私が書いた付箋が一枚、丁寧に貼り付けられている。
 私はページを捲って流し見た。


【――数日後に入学式を控えた少女なゆちゃん。彼女はお母さんに頼まれて深夜のゴミ捨て場に到着なのです。
 魑魅魍魎を押しのけてなゆちゃんは夜の街を歩みました。彼女は強い子だから夜のお散歩もへっちゃらへ~です。
 真夜中のゴミ捨て場、そこで出逢ったのは1人の犬っ子さん。彼女は青いゴミ箱から顔を出してこんばんは。

『ボクはモカでしゅ。そこの貴女、ボクを拾ってはくだしゃいませんか? ボクは強いでしゅよ!』 】

【少女の言葉になゆちゃんは気前良く頷きました。仲間は1人でも必要なのです。犬っ子さんに手を差し出して華麗に一言。

『きび団子は無いけれど、……ついて来ていいよ、犬っ子モカちゃん!』

 1人のお供を引き連れて、なゆちゃん一行は鬼ヶ島ならぬ高校の入学式へ、その大いなる1歩を踏み出したのです。――】


 自分で言うのもなんだけど、その後もステキなお話が続いている。
 文章の上部には色鉛筆とパステルでコミカルなイラストも描いた。
 私はページを一気に読み進め何も描かれていない1枚を広げる。そしてこう書き連ねた。

【――なゆちゃんは一冊の本を見ていました。彼女の大好きな物語です。
 その一節を読んでいたなゆちゃんを犬っ子さんが誘惑します。

『夕食はカレーでしゅよ?』

 その香ばしい匂いに負けそうになったなゆちゃん。
 しかしなゆちゃんは、その手に掴んだ偉大なる物語で立ち向かったのです! ――】


 鉛筆からパステルに握りなおし背景を描く。茶の鉛筆を握り『恐ろしい魔力を放つカレー』を描く。

 赤と白、黄色の色鉛筆で『本を広げ抵抗する女の子』を描く。

 実に素敵な絵日記ではなかろうか。

なゆた

ふぃぃぃ~~!


 描き上がったイラストに私はすごく満足した。描いたばかりの日記を掲げ大きく背伸び、そして再び、いや3度目の息を吐く。


 これは、私がモカちゃんと出会った時から付けている絵日記だ。いつか夢を叶えられたら使おうと思っている、日記という名を借りたネタ帳なのだ。

 ……私の夢、それは絵本作家だ。
 子供達に希望を、日々の楽しさを、夢を見る喜びを与えたい。そう思って書き続けているものなのだ。
 大きく息を吐いて、私はその続きを書こうとした。のだけれど、腕が止まってしまった。

【――犬っ子さんは物語の魔力に抵抗しました。それは……】


 昨夜のモカちゃんの告白と、その内に秘めた想いを描こうとして、腕が止まってしまった。
 モカちゃんが戦士として生きてきた想い、育み積み重ねた言葉を、私が安易にネタとして使うことはいけないことだと思った。
 眠っているモカちゃんを振り返る。幸せそうに眠るモカちゃんを見て私は決めた。書きかけのページを破り捨て再び鉛筆を執った。

【――なゆちゃんの手にした本が語る正義は犬っ子さんの想いとは違っていました。
 けどね、
 犬っ子さんの正義はきっと現実で、それもまた正しくて強い力なの。
 なゆちゃんは犬っ子さんに平伏しその手を取ったのです。1人の正義と1人の正義、それが合わされば、合わせれば、きっと!

『今度の戦いは一人じゃないよね。なゆちゃんも一緒に戦えるよね。……力になれるよね!』】


 思いついた! 開いていた日記を畳んで表紙から例の付箋を引き剥がす。付箋の貼ってあった場所にこの日記へ命を吹き込む一文を書き連ねた。

【――犬っ子モカと、那由他の日々――】


 那由他(なゆた)それは十の六十乗である数字の単位だ。犬っ子モカちゃんが続けてきた無限にも思えるような、苦しくも素敵な旅を意味して付けた。

 これから始まる気がした。全てが動き出すような気がする。モカちゃんとの出逢いを、駆け抜けた春の日の物語を、この白い一冊にいつまでも残しておこう! って私は改めて思ったんだ。

ちゅ、ちゅ、


ニャ~~♪


ばうわぅ!



 小鳥達と、家の中からは家族達の朝を告げる鳴き声が響く。カーテンの隙間から外を見上げると高く昇り行く煌めきが在る。
 絵本をしまってモカちゃんの枕元へ歩み寄る。その寝顔を見つめた。

なゆた

モカちゃんはもう、……独りじゃないよね。



 モカちゃんは頷くことなく寝返りを打った。反転した横顔には昨夜流した涙の跡が在った。
 ……その頬を撫でる。

モカ

……ん~、なぅ~~。引っ掻いちゃあ嫌でしゅよぉ。



 その寝言に思わず笑ってしまう。その髪を本当に引っ掻いてみる。嫌がるだろうか? それでも私はやめてなんてあげない。

 窓際のカーテンを開いた。眩しさから逃れるようにモカちゃんが枕へと顔をうずめる。

モカ

……だからぁ、ボクのおっぱいは出ないでしゅよ~!

なゆた

ど、どんな夢だぁぁぁ!



 数歩近寄りモカちゃんの寝言へツッコム。ベッドの脇に座り私はモカちゃんの髪を優しく梳いた。

 幸せな一日が今日も始まる。そしてそれはきっと続く。ずっと続く。私はそう思っている。
 私はモカちゃんの目覚めを待った。その長いまつ毛を覗き込む。その髪を撫でながら、今この世界の幸せを有り難く思った。

モカ

うやぁぁ~。……なぅ、おはよ~でしゅ♪



 目蓋を擦るモカちゃんへ精一杯の笑顔で応える。

なゆた

……うん。おはよ!


 外へと続く窓を引き開ける。空は雲を僅かに残しただけで限りなく純粋な蒼を晒した。今日もいい天気になりそうだ。

 今、私の胸には指輪を通した首飾りがある。先日いっくんと共にモカちゃんから受け取った、白銀の指輪がチェーンに1つ、

 ……とても温かい色で輝いていたんだ。

【第14話】犬っ子モカと……。

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