【2015年、春。柊なゆた】

 意識を奪われてしまった。風景から切り離された空を這う淡雪、みたいな。儚さを感じさせる魅力が彼女にはあった。

……綺麗に育ちなさい、ね。



 その人は花壇で育つ花々を見ている。その黒髪の女性が微笑む姿から私は眼が離せなかった。


 入学式の翌日の事だ。あの特異な戦争を終えた犬っ子『モカ』ちゃんと幼馴染の『いっくん』はクラスの中心的存在になっていた。

壱貫

よって、だ。ここの空欄は『Mom』で構わないのではないかな。口語で呼んでいるのだから、『mother』は適切とは思えん。



 2時限目が始まって20分、いっくんが先生の解答に彼なりの反論を返した。教科書どおりに答えを書き連ねていた先生が瞼を瞬かせる。相変わらずな極々普通、日常のひとコマだ。

モカ

いっかはおかしいでしゅ。ボクだったら絶対『Mamma』を使うでしゅよ?


 そんな彼に反論出来るのは今際の酸素を求めるような先生ではなく、細い腕を力強く掲げる彼女、犬耳少女のモカちゃんだけだった。
 教室はいっくん派とモカちゃん派に別れ、それぞれエールを送り合っている。

壱貫

小娘、それはお前だけだ。『Mamma』は方言の意味合いが強い。ここではおかしい。


モカ

なに言ってるでしゅか! いっかの方がおかしいでしゅよっ!!


壱貫

……なんだと? もう一度言ってみろ、小娘。



 2人の掛け合いにクラスのみんなが声援を送る。いっくんとモカちゃんのにらみ合いに手を叩きはやし立てている。

 一方で、

やっちまえ、壱貫!



 もう一方で、

モカちゃん、あんな男に負けるなぁ!!



 それはもう喧々囂々、2人の火花を煽りに煽っていた。
 2人はクラスの中心に立って皆をリードした。それは勉学のみならず他分野、例えば、今日初めて行われた体育の授業でもだ。

モカ

ここは抜かせないでしゅよ。……いっか!



 バスケの試合中、モカちゃんがいっくんを前に低く腰を構える。その姿は獲物を淡々と狙う肉食獣! というよりは幼い子猫のようだ。

壱貫

……



 いっくんがコートを歩む。その足が突如ギアを上げた。敵陣へ素早く切り込む。緩急をつけたその動きに、1人、また1人と抜かされていく。
 モカちゃんはいっくんの張り出した肩に身体をすり寄せる。――いっくんが奏でるボールの音と靴音ばかりが響いた。

壱貫

小娘。お前の欠点は……、


 いっくんがゴール2メートル程前から空へ舞う。赤のビブスを羽織る皆を率いた彼が高い打点でボールを投じる。

壱貫

ガタイが無いことだな!



 モカちゃんはゴールを前に体をよじり宙へ舞う。

 逸らした背が弧を描く。その体が、高い空を泳ぐ獲物を捕らえた。

モカ

その程度でしゅか?


 ありえない高さ、驚くべき跳躍力だった。
 しかしそれだけでは終わらない。モカちゃんの着地を待たずしてボールの権利がいっくんに移った。ボールを抱いて降りてくるモカちゃん、その着地を待たずにボールを引っこ抜いたのだ。白線の外から歓声が巻き起こる。

壱貫

……この程度か?



 いっくんが後方に引きながらボールを投じる。球は先ほどより――高い空へと放たれた。

 モカちゃんはゴール下へ駆け戻り空へ跳んだ。

モカ

……この程度、



 館内に革を打ち付ける音が響く。ボールがゴールへ入る前に叩き落としたのだ。その高さたるやモカちゃんの身長の2倍を優に超える。並では届かない位置のボールを、その小さな手のひらが叩き落したんだ。

 モカちゃんが勝利を自身の手で、

モカ

でしゅ!



 もぎ取ってみせたのだ。

 跳ねてコートから出ていくボールを誰もが追えない。――そこに笛の音が響いた!

 辺りに歓声が沸き起こる。皆の更なる叫び! モカちゃんをチームメイトが抱き上げる。
 その脇で赤いビブスの少年たちが荒く息を吐いていた。いっくんは髪を掻き揚げ汗を拭っている。そんないっくんを女の子達が励ましていた。



 ――モカちゃん、――いっくん、2人は華を持っていた。

 それは、私が決して持ちえないモノだった。モカちゃんを祝いたいのに目蓋が落ちる。言いようも無い寂しさが私の心を満たしていた。


 放課後、私は校舎の中庭を独り歩いていた。1人で居たい気分だった。

 ……そこで出会ったんだ、私の『淡雪』に。


 目の前には穏やかな色を付ける花々が在った。瑞々しい匂いがあった。自分を包む、優しい静寂が溢れていた。

 思わず息を呑む。むず痒い感覚が身体を駆けた。

 風に揺れる長い黒髪。清らかさをかもし出す白磁のような頬肌。胸から腰にかけての豊かな起伏。腰からつま先まで伸びる繊細な脚線。頭から伸び行く漆黒の光沢は、ふわりと、僅かに風をはらんでいた。
 その女性が私へ振り向く。穏やかに私を見ていた。

どうしたの? そんなに花壇が珍しいかしら?


なゆた

え、と。花壇が珍しいわけじゃなくて、その……



 女性はたおやかに微笑んだ。耳に掛かった髪がさらりと流れる。その姿に私の胸は言いようも無く粟立った。

新入生の方ね。もし……、自然とここに導かれた。そう言うことなら、私と貴女は同じなのかもしれないわね。



 彼女は花壇を前に腕を広げる。

私も静かなところへ行きたかったの。
 昨日のアレにみんな騒いでいるからかな? ……ちょっと落ち着きたくて、ね。



『アレ』が示すのはモカちゃん、そしていっくんが起こした大激闘の事だろう。身内の話題に頭を抱える。
 振り上げた視線の先で彼女の眼差しとかち合った。

 思わず頬が熱くなる。
 誰に何を言われても気にならなかったのに、訳もなく恥ずかしい!
 彼女は微笑みながらその視線を頭上へ伸ばす。低いなだらかな口調で言葉を紡いだ

なんかね。この学校園芸部が無いらしいのよ。それでかな、私がなんとなく此処の世話をするようになったの。



 その声は美しい旋律だった。
 首を倒し、舌をはみ出す姿は清楚な趣とはマッチしていなくて、そのギャップに私の喉が音を立てた。
 彼女の一挙一動に私の心が疼いた。こんなこと今までに無かった。

どう? お暇なら一緒に花壇のお手入れなんて。手が汚れても、腰が疲れてもいいなら、だけど。



 いつの間にか体の震えは治まっていた。彼女の笑みに心が軽くなった。落ち着かなかった心が氷解していくようだった。
 彼女の脇で腰を屈める。少しだけ触れた制服が訳も無く恥ずかしい。爽やかで暖かい匂いを風と共に感じていた。

なゆた

私、なゆた! 柊なゆたって言います! 先輩のお名前、私に教えて戴けませんか?



 シワになるのも構わずに制服の袖をまくる。肌を撫でるような風が心地良い。

 ――そんなひと時に騒がしい声が割り込んできた。
 野球、サッカー、バスケット、テニス、剣道、エトセトラ。様々なユニフォームの群れに追われているモカちゃんの姿だった。制服の裾を乱しながら走ってくる。

モカ

なぅ~~! この人達しつこいでしゅよ~~。ボクはなぅと一緒がいいって言っているでしゅのに~~!



 更に後方。乱れ無き制服を颯爽と着こなすいっくんが居る。

勝負じゃぁぁぁぁ!



 向かってくる柔道着の男性、その首元を難なく掴み投げ飛ばす。いっくんを軸に男性の体が半円を描く。
 休む間も無く背後から剣道武者が迫る。その武者から投げつけられた竹刀をいっくんがおもむろに掴む。

桜壱貫。入部を賭けていざ尋常に!!



 いっくんは竹刀を構え一瞬で足を踏み込む。間合いを詰めブレの無い突きを繰り出す。
 竹刀を喉元に受けた若武者は、遥か後方へ吹き飛んだ。……その四肢が動かなくなった。

壱貫

この程度では俺が所属するまでも無い。部の顧問、最低でも真っ当な有段者を連れてくるがいい。



 いっくんは失神した青年の面脇に竹刀を添える。

 ――いつの間にか心は晴れていた。普通じゃなくても、自分とはつり合わなくても、

なゆた

うん、流石なゆたのいっくんだねっ!



 大事な仲間だもの。モカちゃんといっくんは掛け替えの無い友達だもの。

 校庭へ『あの』声が響いた。

サトウさん

――モカさ~~ん。真紅の狩人さ~~ん。いらっしゃいましたら~~、



 そして今日も馬鹿みたいな演劇が始まるのだ。一瞬の時を経て訪れる灰色の空間と、そこに飛び交う数多くの声援。賑やかで私の大事な非日常が巻き起こる。子供達が綴る子供達だけの物語が、今日も幕を開けるのだ。

 ――背後へ風を感じた。

……私はお邪魔みたいね。



 先ほどの女性が灰色の空間でその華奢な腰を上げていた。立ち尽くす私へ背を向ける。その横顔に、どうしてだろう。私は寂しさのようなものを感じた。
 そして、去っていく後姿に怖くなった。ここで別れたら彼女が消えてしまうんじゃないか? もう逢えないんじゃないか? 彼女は自分の弱さが見せた一時の幻想だったんじゃないか? って。
 一時のみの憧れなのかもしれない。それでも何も知らずに別れてしまうのは堪らなく寂しかった。

なゆた

せ、先輩! 私また先輩とお話してもらってもいいですか! それにまだ先輩のお名前教えてもらってないよ!



 静寂が訪れたような錯覚を覚えた。振り返る彼女の笑みが瞳に強く残った。

3年B組、玖条雪(くじょう ゆき)よ。また会えるといいわね、……柊さん。

 私が出会った『淡雪』は溶けることなく風の先を歩いていった。
 背後にはサトウさんの懺悔と幾多の爆発が在る。一時在った灰色の世界はみんなの歓声の中へと消えていった。

なゆた

……。


 現実へと戻っていく世界、そこに降り注ぐ日の光に私は目を細める。雲間から射す春の陽射しはほんのりとした暑さを持っていた。

 ――私の頬が熱かったのはこの陽射しのせいだろうか?
 高鳴る胸を制服の上からそっと抑える。土で汚れた腕を風が撫でた。それが今の私には何よりも心地よかった。

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