【2034年、春。桜壱貫】
【2034年、春。桜壱貫】
手勢に足止めされ到着が遅れた。なゆたがやったのだろうか? 逃がしてしまった『レッド・ボーイ』は無残にも片腕を失っている。兵士達に抱きかかえられ赤い船で空へと去っていった。
たどり着いた我が家も街と同様に破壊されていた。一面が血に塗れている。なゆたでは無い。皆、あの『ちび』に斬られていた。
『ちび』へと続く道を歩んだ。振るわれたその切っ先を掲げた鋼材で受け止める。弾き、
そして俺は『ちび』を抱いた。頭を撫でる。振り上げた彼女の手が赤く染まった剣を地に落とした。
まぁま、
抱き留める。愛おしさを娘のようなこの子に伝えたかった。
……いっか? マァマが。ま、マァマが!
正気に返ったのだろう。泣き叫ぶ『ちび』を抱きしめる。抱き寄せ、消えていく『なゆた』を見守った。
時間を弄られたのかもしれない。過去が替わった代償として『なゆた』は消えていくのかもしれなかった。
ボクはどうすればいいでしゅか、どうすれば、ど、どうしたら?
胸の中で泣く『ちび』も『なゆた』のように輝き始めた。この世界は『ちび』が生きることを望まなかった。
まぁま……
『ちび』は涙を零し、己の母を求めた。
……俺に出来ることはもはや何も無かった。
その時だ。大地を転がるように覆面の男がやって来た。暑苦しい黒のスーツを纏ってそいつが俺達へ駆け寄る。
誰かのために、どんな事でも、ど根性!! そこのお兄さん、楽しい、夢のような新聞は如何でしょう?
拳を突き出す。
――マスク越しに鮮血が舞う。黒い、その覆面が弾け飛んだ。
現れた素顔に、俺は言葉を失った。
それはとても見知ったヒトのものだった。『彼女』は流れる鼻血をものともせずに俺へ言う。
いっくん、この指輪を真紅(まあか)ちゃんの指へ! 早く!
懐かしい、その甘ったるい声に泣きたくなる想いだった。だが彼女の青い目はそれを拒絶した。
『ちび』へと指を差し伸ばす。白く眩い指輪をその傷ついた指へ通した。
淡い光がそこには在った。この世界へ『ちび』の重さが帰ってくる。俺の腕の中でその胸が鼓動を伝える。
『彼女』は慌てて覆面を被ると、照れるように頭を掻き俺と『ちび』を交互に見、話し出した。
我々DDD団は新聞配達もお仕事でして、時間軸の干渉から己を守るこの『存在の石』をあと2つ程用意します。ですので、1ヶ月、試しにご契約しませんか?
ぼ、ボクは、何も、
ならスマイル、笑顔をワタクシにくださいませ♪
『ちび』は彼女へぎこちなく笑った。
ご契約ありがとう御座います。それではこれを!
覆面の彼女は足早に去っていく。
……軽やかに、そして幸せそうに揺れる背中は彼女が『俺の知っている彼女』では無かったことを伝えていた。
覆面のヒトを見守るのもつかの間、ちびが俺の腕の中で暴れだした。その頬は幾多の傷を負って、焼けるように火照っている。
い、いっか離れるでしゅ。ぼ、ボクは……、
俺は、真っ赤になって抵抗するちびを抱きしめた。この胸を叩き続けたちびがようやく落ち着きを見せた頃、……俺は『ちび』へと笑ってみせる。
……無事で良かったな。
……。
ちびが顔を上げる事は無かった。
遠くに、時空を管理する中立の紋章、麦の穂を示す旗が見える。
10数人の団体は散開することなく歩を進め、集まってきた人々へ物資を配っている。
そして何故かこちらへ向かってくる数人が居た。
『ちび』が俺を見上げてくる。強くこの身を抱きしめ、
――そして『ちび』は彼らと共に行ってしまった。
夕日の中を一隻の船が駆けていく。流れる雲を突き抜け、無限の空へと去っていく。
陽の影を歩み空を仰ぐ。
ちびの無事を願った、のだが……、
意思とは裏腹に笑いが込み上げる。頬を叩く。俺は何を心配しているのだろう?
『この俺、桜壱貫の育てた娘が――』
……誰かに、いや、巨大な何ものかに負けることがあるというのか?
派手に笑った。己が問いに、俺はいつでも答えてやれる。
……負ける訳が無い。
太陽が落ちる間際、茜色の雲を眺めた。――風に両の頬がやたらと染みる。それがどうにも可笑く思えた。
【2015年、春。柊真紅】
幾つもの時を経てボクは辿り着いた。マァマが消えた時間から19年前、ボクがまだ生まれてもいない時代へ。
この世界の空はため息が出るほど綺麗だった。
一面に広がる夜空を眺める。流れ続ける景色を見上げその美しさにため息を吐いた。
マァマの名前、『柊なゆた』言うんでしゅよ。知ってましたか?
星は煌めくばかり、ボクへと笑いかけるだけだった。
本当に来てくれるでしょかね? ボクのこと、また、
……あの時みたいに拾ってくだしゃいましゅかね?
路上を黒猫が歩いていた。生き生きとした瞳にボクはあの頃のマァマの姿を重ねていた。
マァマはボクを見てどんなお顔をするでしょね。驚くでしょか? 好きになってくれるでしょか?
黒猫は答えない。闇の中へと帰っていく。
脇へ並ぶ空き缶が目に映る。ボクは彼にも話しかけた。
キミの名前、ボクが借りてもいいでしゅか?
キミの名前をボクに、少しだけ使わせてくだしゃい。きっと、きっといつか、
マァマに言えるようにするでしゅから。ボクがマァマの子供でしゅよ。『柊真紅(ひいらぎ まあか)』なんでしゅよ、って。
コーヒー飲料である『モカ』君はボクの問いに答えない。ただ、電灯の明かりに瞬いただけ。ちょこんと頭を下げてみる。
まだ逢っても居ない、知らない母(ひと)だけれど、真紅と名乗るのは、貴女の娘だと名乗るのは、どうしてだろう、……ボクにはとても怖かった。
だから、その無機質な笑みに甘えてしまった。
……ありがと、モカ君。
彼が笑っているように見えたから、ボクは慌てて目尻を擦る。
……大丈夫。ボクはまだ頑張れる。
ありがと。……でしゅ。
目蓋を伏せる。
ぶっち、みぃちゃん、パブロフ、みんな、みんな元気にしているだろうか。
またみんなに逢える! それを思うだけで胸の高鳴りが抑えられない。
月を見て思い出した。彼のふてぶてしくも逞しい笑顔を、曲がらない生き方を。今、あの人はどうしているのだろう。マァマを困らせてはいないだろうか。
……マァマ、
眠気に身を委ねる。この世界はとても平和だった。
【――真紅。真紅、起きてよぉ。今日の朝ごはんは、なゆちゃん特製オムライスなんだよ。
いっくんと先に食べちゃうよぉ?】
涙が溢れる。もう零さないと誓ったのに、勝手に出ていた。
……母の笑顔が、あの人の太い腕が愛しくて、零れるものが抑えられない。
……猫と出るか。犬と出るか?
外から探るような声が聞こえる。
――とても眠かった。
お出でませっ!
半ば閉じた視界にあどけない顔の少女が映る。……そのえくぼには見覚えがあった。
お、女の子を捨てるなぁ!!
その大きな瞳をボクが忘れるわけが無い。絶対に間違えるわけがなかった。
瞼を広げる。その顔を意識へ刻み込む。
……腕を伸ばした。
マァマ、『柊なゆた』が戸惑いつつもこの手を掴んだ。
ボクを、拾ってくだしゃいますか?
広がる星空の下、ボクは小さなマァマに微笑みかけた。