そこには、少女がいた。
万年筆を手に机へ向かうその背中を見つめ、カヲルは言葉を投げかける。
そこには、少女がいた。
万年筆を手に机へ向かうその背中を見つめ、カヲルは言葉を投げかける。
先生、俺に冷たくなったよね
俺が子どものころは、
あんなに優しかったのに
そうですね。否定はしません
変声機を通した歪な少女の声が、返った。
しかし、少女の瞳がカヲルを映すことはない。
カヲルは、そのことが不満でならなかった。
マフラーの下に隠した首を押さえながら、口を開く。
ねえ。
俺のこと、嫌いになったの?
俺が、人間じゃないから?
平静を装ったつもりだったのに、声には自分でも笑えるくらいに感情がにじみ出ていた。
それでもなお、少女の背中はカヲルに向けられたままで、返る声も変わらず単調だった。
あなたの好きなように考えればいいのではないですか
俺は、あんたに聞いてるんだけど
では、可愛げがなくなったとは思います
ふうん。
俺も、まんざら捨てられたものではないってわけだ
呆れるほどにポジティブな性格ですね。
仕事の邪魔です。帰ってください
突き放すように言われても、カヲルはその場を動かない。
以前は、見あげていた背中を見おろしながら、静かに問うた。
先生、
あんたはなんで歳を取らないの?
逆に聞きますが、あなたはどうしてそんなに早く成長していくのですかね
答える気のないだろう返答に、カヲルの眉根が寄る。
知らず、声が低くなった。
はぐらかさないでくれる
いつも言っているはずですよ。
ただ、事実は小説よりも奇なりというだけです
まるで、答えになっていなかった。
いつもと、同じだった。
苛立つ気持ちが、大きくなる。
先生、俺をコケにしてるわけ?
そんな、わけのわからない言葉で誤魔化されると?
いい加減にやめてくれないかな?
舌打ちをこらえ、カヲルが問いつめれば、そこでようやく少女の手が止まった。
…………
そうして、張りぼての面がカヲルを振り返る。
素顔が見えないことなんて、それこそいつものことだというのに、今は妙に腹が立ってしかたがなかった。
カヲルくん、
今日は早く帰ったほうがいい
今日のあなたは、異常です
ひどく落ち着いた調子で言われる。
カヲルは鼻で笑った。
異常? 俺が?
俺なんかより、
先生のほうがよっぽど異常だ
正体不明で、どれだけ調べても作家としての存在を確認できない。
それどころか、俺の回りにいる人間たちは口をそろえて、あんたのことなんて知らないって言う
作家であること以前に、
人間かどうかすら怪しいくらいだ
いっそ、傷つけるつもりで放った言葉だった。
近づきたくても近づけず、知りたくても知ることのできない自分の苦しみを、別のカタチでその胸に刻みつけられればいいと思っていた。
だのに、カヲルの目の前にいる少女が、取り乱すことは少しもなくて、
気は、すみましたか
気がすむ?
何を言って――
今のあなたは冷静さを欠いてます。
少し、呼吸も荒い。
体調を崩しているのではないですか
季節の変わり目です。
あなたが気をつけていても、風邪をひくときはひきます。
あなたは、人間ですから
はっと息をのんだ。
先生、あんたは――まだ、俺を
人間として扱ってくれるの
続けようとした問いかけは、音にならなかった。まっすぐに自分を見あげる少女の姿勢に、いつかの面影を見る。
激しい後悔が押し寄せた。
何をしているのだと自分を責めると同時、変わらない少女の本質に、どうしようもないほど安堵する。
少女は、彼女は、この人は、かつてカヲルに手を差し伸べてくれたときと、本当は何ひとつとして変わっていない。
先生――
とたんに、世界がくらんだ。
カヲル!
あわてたような声が、与えられたこの名を呼ぶ。
何が起こったのか、一瞬わからなかった。
身体が抱き起こされるのを感じて、カヲルはようやく自分が倒れたのだと理解した。
……やっぱり、熱がある
少女の小さな呟きとともに、カヲルの意識は遠のいていく。
だけれど、それは眠りに落ちるときのものとは異なっていた。
懐かしい記憶から、覚醒へと向かう感覚――
ああ、そうか
胸の内で呟いた。
これは、遠い日の夢だ。
忌々しい枷によって消せない傷を負った日。
自分が、「彼女」と会った最後の日の記憶だ。
すべてを理解したうえで目を開ければ、見慣れた自室の天井が視界に映る。
ベッドから起きあがって確認した時計は、サイン会が終わる時刻の少し前を示していた。
そろそろか
呟いて、襟を立てたコートを羽織る。
夢の終わり際、細い指が撫でた首の傷痕を手で押さえ、カヲルはマフラーを巻いた。
高層マンションの最上階にある部屋を出て、サイン会が行われているショッピングモールへと向かう。
今からでは、終了時刻までに到着できないことなんて、とうに計算済みだった。
そもそも、カヲルはサイン会へ足を運ぶつもりなど、さらさらない。
なぜなら、今のカヲルにとって用があるのは、「彼女」であって作家としての「彼女」ではないのだ。
「彼女」自身と話をするには、サイン会という場は不都合でしかない。
だからこそ、ゆかりからフライヤーを渡されたとき、そのままショッピングモールへ向かわなかった。
あるいは、ゆかりが一緒であれば話は別だったのだが、それは叶わなかったため、今となってはたらればの話でしかない。
そのとき。
ふいに、カヲルの背筋を悪寒が走った。
胸が、ざわつく。
声が、「きこえる」。
ツカマエタ――
ふと顔をあげた先に見えたのは、ショッピングモールの立体駐車場だった。
つい先日までそろっていた屋上のフェンスが、一箇所だけ欠けている。
……何かあったのか?
カヲルは眉をひそめる。
直後、そこから落ちていく人影が見えた。
常人の視力では遠すぎて確認することのできないそれも、カヲルの目は鮮明にとらえる。
――!!
気づけば、アスファルトを蹴って、走りだしていた。
生まれつき、常軌を逸した動体視力をもあわせもつカヲルの目は、裏社会に生きるうえでは非常に有用で、信頼がおける。
この目で銃撃をとらえ、それをかわしたのも、つい先日のことだ。
しかし、辿り着いた先で、自らの目がとらえたその光景を、カヲルは信じることができなかった。
地面に広がっていく赤の中に、その姿があることを、認めたくなかった。
それでも、たしかに、そこに倒れ伏しているのは、
――先生?
一度、そう口にしてしまえば、急激にすべてが現実味を帯びてくる。
……っ!!
唇が、慄いた。
弾かれたように駆け寄り、血だまりの中に膝をつく。
抱き起した身体は、まだ温かい。
先生、先生!
しっかり――しっかりしてください!!
……その、声
しゃべらないで。
すぐに、手当てするから
腕の中の身体を強く抱き、カヲルはコートの内ポケットから携帯端末を取り出す。
人間の医者は当てにできない。
自宅で処置をしようと、常連でもある運び屋の番号を手早く押した。
だのに、相手は一向に出る気配がない。
くそっ!
こんなときに限って
カヲルが悪態を吐いた、そのときだった。
血にぬれた腕が、携帯端末へと伸びる。
先生。
だめだよ、動いちゃいけない
いい、んです
切れ切れになる声で、仮面をつけたその人は言う。
落下の衝撃で壊れたのか、変声機はもはや意味を成していない。
きっと、これで、終わる――
もう、これ以上は――
一瞬、何を言われているのか、カヲルにはわからなかった。
わかりたく、なかった。
言葉の意味するところを理解したとたんに、世界が一色に染まる。
させない――死なせない!!
あんたは、あんただけは、
絶対に俺が死なせない!!
カヲルは声を荒げていた。
役に立たない携帯を投げ捨てる。
少しでも呼吸を繋げさせようと、少女の顔を覆う仮面に手をかける。
抵抗らしい抵抗もなかった。
これまで、決して外れることのなかった仮面は、あっけなく剥がれ落ちる。
――ああ、どうして
カヲルはうめいた。
小さな身体を掻き抱いて、繰り返した。
どうして
どうしてあなたがこんな目に合わなくてはならない、どうしてあなたを守れなかった、どうしてこんなときになって――
刹那、覚えのある声がした。