【2015年、春。柊なゆた】
【2015年、春。柊なゆた】
……。
耳奥を掻き毟るように風切り音がざわめいている。
街灯の明かりを頼りに一歩、また一歩、足を引きずるように歩く。数10m先で明滅を繰り返す電灯、そこから伸びる明かりを頼りにおもむろに辺りを見渡す。
……誰も居ない。
風だけが悲鳴を上げるように闇へと紛れていく。胸の奥がざわめきだす。吹き付ける風が冷気を伴って体を舐めるものだから、私はたまらず身震いした。
白い息が眼前を駆け上がる。私は市の指定ゴミ袋(緑)を引きずり歩いた。辺りを窺いながら歩を進める。
時刻は深夜2時を回っただろうか。この時刻は旧暦で丑三つ。お化けや幽霊、呪いを掛ける人、そんな有象無象が闊歩する時間帯だ。
ゴミ捨ての為街を徘徊する私『柊なゆた』が願うのは、ただ1つ。
『物騒な何かに出くわしませんように!』って、そんな一念だ。
……ってゆか、早く終わらせて帰ろっ。
脇を流れる一陣の風が、足を止めた私をせわしくも物悲しい響きを立てて追い立てる。
……人生立ち止まってばかりではいけないのだよ? そう言いたげな春風なのかもしれない。
そもそも何故深夜のこんな時間に、薄暗く寒い路地裏を、高校生になろうとしている女の子が独り寂しく闊歩しているのか?
……事の始まりは数刻前にさかのぼる。
机に備え付けられた弱々しいライトの下、私は装丁華やかな一冊と睨み合っている。
文の狭間にある挿絵には、片腕の無い、けれど凛々しい青年の絵が魅力的に描かれていた。
私、『柊なゆた』は安寧気ままに日々を過ごしている。高校入学を3日後に控えた今日もいつもと変わらず趣味の読書に勤しんでいた。
夕飯を終えた後もそのクリエイティブな世界に私はどっぷりと浸っている。本の世界の住人と、紅茶を嗜みながら会話した。
ハードカバーの主人公『ジョーカス・オリファー』が剣を鞘に収めたところで一旦目を離す。着込んだパジャマを引き伸ばすよう大きく背伸び、髪を払って息を吐き出す。
――ゃ~ん。
階下から、ぼやけた音色が微かに且つ悩ましげに響いたような、そんな気もする。しかし今はそれどころではない。
動き出す物語に喉が音を立てた。
書の中の英雄、騎士『ジョーカス・オリファー』が剣の切っ先を闇へと翳す。
ボクはここに残す者を、悲しむ人々を、……これ以上創る気は無い!
頬が熱を帯びていく。隻腕の騎士『ジョーカス』は囁くように声を漏らすと、その剣を高い月の瞬きへ晒した。
――ゃ~ん、聞こえないのぉ? ねぇね、ねぇってば、なゆちゃ~~ん。
闇の衣を纏った薄汚いヒトの群れ、その1人が吐いた罵声を合図に、ジョーカスの剣が賊の1人とすれ違う。
……これもヒトの世の一縷の綻び、なのだろうか。
ひと時の間を置き、肉塊が落ちる。
『ジョーカス・オリファー』は剣を背の鞘に収めると街から去った。倒れ伏す肉塊には一滴の赤も見受けられない。在ったのは吐き出しかけの呪詛、漏れた吐息の欠片のみ……。
――ちゃ~ん、なゆちゃんってば! ……あっ、こんなところにチーズケーキがあります。
『チーズケーキ』それは新手の敵、その陰湿な武具の呼び名であっただろうか?
私の脳がその言葉の意味するところを求めた。
!
あ、あの子(チーズケーキ)は明日の朝食後、優雅にしかし極秘裏に嗜もう、と取って置いたモノではないか!
ま、待ってよっ! 今行くから、それは、それだけは食べちゃ嫌だよ!
本を片手に叫んだ。おやつの危機に、慌ててハードカバーへ栞をはさむ。勢い任せに椅子を跳ね飛ばす。
ジョーカー様ごめんなさい! 後でまた、必ずお会いしましょうねっ!
走りざまに後方へ手を合わせる。囚われの姫を救うべく果て無き階下を目指した。
雪崩るように階段を降りる。愛しきものを守るため、息急きつんのめるようにキッチンへ足を踏み入れた。
顔を突き出した先には、緑の袋を胸に構えた私の母『柊真衣(ひいらぎ まい)』の姿がある。私はすぐさまその指先を確認。お母さんの口元を凝視。どうしたものか、姫の姿は影も形も無い。
なゆちゃん。今日の朝、ゴミを捨てるの忘れてしまいました。……どうしましょう。
お団子に纏めた髪の下、お母さんが上目づかいで私を見ている。
私はそれを無視、その隣に在る冷蔵庫の中を確認した。その奥から目的たる姫の救助を行うと、その甘酸っぱい芳香に安堵し、ただただ力が抜けてしまった。冷たき箱へ愛すべき姫を仕舞いなおす。
姫(チーズケーキ)の無事が確認出来た今、夢の世界を遮られた事が遥か昔の話に思える。
ご、ゴミ捨てなら明日にでもすればいいじゃない。
悪態を吐いた私の前で、悪しき魔王、では無く実の母親が己気ままに
……はぁ、
と息を漏らした。眠たげな眼をしばたたかせこう仰るのだ。
町内会のお約束なんです。明日じゃ、4時に起きなきゃ間に合わないの。お母さんお寝坊さんだから起きられないかも……
例えようも無い脱力感を覚えた。理不尽というか不条理というか、そんな許しがたい感情だ。
部屋の時計を見上げると日付は次の日へと変わり、長針が2度目の回転を終えようとしていた。
ぅ、う~~ん。私、今から捨ててくるよ。すぐ帰ってくるから、お母さんは寝て待ってて!
階段を駆け上がり、パジャマの上からコートを羽織り簡単な準備とする。
にゃぁぁ!
真夜中の騒動に、縞猫の『しまちゃん』が文句を申す。私はペコリ、心の中でものすごく謝った。
ごめんねぇ、なゆちゃん。
階下へ降りると、申し訳なさそうに俯くお母さんの姿がある。実年齢より若く見える彼女が、旋毛を娘に見せつけていた。
なゆちゃんにお任せなのだ! あとでお小遣い頂戴ね♪
片手を掲げ私はお母さんに応えた。懐中電灯をポケットにねじ込み、玄関の扉を開け放つ。外の世界へと威勢よく駆けだした。
……のだが、
未だ冬の臭いを残す寒風に、火照った心が急速に熱を奪われた。
こ、こんなことなら防犯ブザーでも持ってくればよかったかな……、
闇からくぐもった音が聞こえる。
ね、猫? 暗い路地から迷い出たナニカの咆哮に、腰は早々と力を失い縮こまった。
視界を左右前後に移動させ足元も確認、再び歩を進める。
あ、あと200メートル。な、なにも出ませんよう……、にゃッッ!!
猫のような声を上げてしまった。空に混じる電線を見上げると、野太い声でカラスが鳴いている。黒い尾羽が艶やかに煌めいた。
鈍色の羽ばたきが空へと溶けていく。
粟立つ心が必死に、さめざめと訴えていた。
……引き返せるのなら今すぐにでも引き返せ! どうだ? 帰りたいのだろ? 自分に正直になれ、なゆちゃん!
無数のハウリングを伴い、この胸に木霊する。
私は走りだした。寝静まった町へ響く狂音に心が脅えた。
自宅からおよそ500メートルの距離、狭い路地に建つこぢんまりとしたゴミ収集場へようやく辿りついた。
やったね、なゆちゃん!
自分への歓声も疎かに、私は早々とゴミを放り出す。そして振りぬくようにきびすを返した。のだけれど……、
……この町のゴミ置き場には珍しい、青のポリバケツが目に留まった。
意識した理由ははっきりと分からない。
至って普通と云えば普通。しかし、街灯に照らし出されたその容器の下部。そこにあったプラスチックの書置きに目が吸い寄せられた。街灯にその1文が照らし出される。
拾ってください。
……捨て犬だろうか? それとも捨て猫?
……猫さんなら私の家で飼えるかも。みぃちゃん達のお友達になってもらおう。
犬くんなら、う~~ん、お家の仲間はいっぱいなんだよなぁ。
……明日、いや新学期が始まってから友達に頼んでみようかな。なゆちゃん的には猫を希望っ!
照らし出されたポリバケツからは物音の1つもない。無垢な生命(いのち)が己の現状を知らずに寝入っているのかもしれない。
猫(吉)と出るか。犬(凶)と出るか?
私は蓋を持ち上げバケツの中を覗き込んだ。猫ちゃんかな? それとも犬くん? 心が高鳴る。
お出でませっ!
果たして、吉だったのか? 凶だったのか? その中で可愛くうずくまって居たのは、
…………1人の女の子だったわけで……。
お、女の子を捨てるなぁ!!
思わず叫んでしまった。落ち着いたばかりの胸に再び動悸が沸き起こる。
深く息を吸い、心を無理やり落ち着かせる。そしてすうすうと寝息を立てるその少女の肩を揺すった。その頭部にふさふさとした耳飾りが見受けられたけど、そんなの今は関係ない!
ゴミ捨て場で女の子を発見! 捨て子か?
地方新聞の朝刊、その一面に広がる見出しが頭を過ぎった。
今期の新高校一年生、捨て子を放棄? 未だ逃亡中!
頭の中を更なる文面が流れたのでその1文を削除する。
ね、ねぇ起きて! 大丈夫?
ポリバケツの中で、犬耳、すすけたパンツルックのその子が体を揺らした。
……うや~っ♪
街灯の下、彼女はちんまりとした口を広げた。眉に当てた指をもぞもぞと動かすと、狭い空間の中から私の顔を見上げてくる。
大きくつぶらな瞳。小高い鼻。ぷるぷるの唇。今は見惚れている場合ではないのだけれど、その子の顔は目を奪われる程可愛く整っていた。
き、キミは誰?
ぷにぷにとしたほっぺ。ウエーブ掛かった栗色のショートヘア。妖精を思わせるような容貌で、その子はぷるぷるピンクの唇を開いた。
ボクでしゅか?
う、ぅん。キミの名前は? お家は何処なのかな?
彼女は瞼の中へ瞳を仕舞い、そして再びその琥珀色を見せつける。頭部の耳飾りをピンと伸ばしてこう宣った。
ボクは『モカ』でしゅ。お家は、……まだ無いのでしゅ。
思考が硬直する。
え?
お家の無い子? 犬耳の『モカ』ちゃん? ドコからやって来たのか眩暈が起こる。『吾輩は猫である』な夏目漱石もお顔真っ青かも、……なんて考えてしまった。
ポリバケツの中を再び見やる。その狭い器の中で、『住所不定、犬耳着用』の女の子が空を求めるように細い腕を伸ばしていた。
それは遥か銀河の星々を求めていたかのようにも見えた。
ただ確かだったのはその愛くるしい眼差し、その輝きは間違いなく私を選んでいたということ。
彼女は、……私だけを見ていた。
――ボクを、拾ってくだしゃいますか?
その子の指が私の裾を強く掴む。寒いのだろうか、その指が……震えているようにも思えた。
これが、謎の犬っ子『モカ』と平凡な地球人『柊なゆた』の第一次遭遇(ファーストコンタクト)だったの。