(……!)

 ――背中越しであっても伝わるであろう、感じたくない、衝撃。

 私は眼を閉じ、覚悟し。
 そして……祈っていた。

(せめて、せめて……!)

 あれだけ怒り、嫌がり、避けたいと願っていたのに。

 ――勝手を行いながらも、私の前に立ち。
 こちらの身を、考え。
 その上で、男を信じた、愚かな彼女のことを。

 ……私は、無事であれと、知らずに願っていた。

 ぐっと、手を握り締め。
 それでも私は、二人の動きを、見つめ続けた。

 ――静寂が、続く。
 闇の世界に、鈍い音や砕けるような響きは、なにも伝わってこない。
 ただ、変わらない。
 なにも映すことのない暗闇が、音までも、包み込むかのように。

(……?)

 ――そう。感じられたのは、静寂だった。

 身体を壊す音も。
 心まで痛む絶叫も。
 闇にのまれる冷たい空気も。
 狂うような声なき声も。
 はいずるような嫌な動きも。
 痛みで流す涙声も。

 この闇の世界では、当たり前のように、見てきたもの。
 そして今、眼の前で行われたはずの結果として、聞こえてくるべきもの。
 なのに、なにも聞こえなかった。

 ――彼女の、リンの背中は。
 変わらず、私の前に立っている。

……なぜだ

 耳に聞こえてきたのは、先ほどよりもか細い、聞き慣れた声。

なぜ、そこまで

 男の声は弱々しく、先ほどまでの威圧感を、感じることはできない。

 ――彼女の背中と重なり、少しだけはみ出した、男の硬い肉体。

 身体を少しずらし、二人の姿が見れるように動く。
 まだ、彼女の表情は見えない場所で、男の拳が見えた。

 ……男の拳は、最初に会った時と同じように。
 彼女の眼の前で、止められていた。

 硬く、硬く、血が滲みでるほどに硬く握られながら。

『すげぇお嬢ちゃん、だなぁ』

……ええ

 感心するようなグリの言葉に、私は、皮肉を言うこともなく答えていた。

 ……たとえ、拳を止められたとしても。
 殺意を向けられた相手へ、ああして、見つめ返すことなんてできるんだろうか。

 二人は見つめあいながら、動きを止めている。
 言葉を交わさずに、お互いの考えを伝えあうような、そんな二人だけの空間。

(そんなことは、ありえない。私とグリだって……わからないことは、たくさんある)

 強い想いだけで、互いが理解できれば、必要がない。
 言葉や会話、コミュニケーションなんて、生まれていない。

 ――完全にわかりあえるのなら、私のような拒絶者が、できもしない。

 そうなんだって、ずっと信じていた。
 グリと、そうして進もうって、決めていた。
 それで、この闇の中を、進んでくることができた。
 そうしなければ、もうだめなんだって、わかろうとしていた。
 なのに……。

もう一度、聞かせてくれ

 二人だけの空間を変え、口を開いたのは、男の方だった。

どうして俺を、信じられる

……リンにも、よくわかりません

 困ったような声で、彼女は言う。
 背中越しに見ている私に、その顔は、よく見えない。
 でも……もう私にも、想像ができた。

 ――たぶん彼女は、笑っているのだろう。
 声と同じように、どこか困ったような、愛らしい顔で。

でも……わかるように、なりたいのです

わからないからこそ、わかるように、わかりたいのです

……!

 男の驚く顔を、視界に見ながら。

……っ

 私もまた、驚いていた。
 自分の顔なのに、大きく動いているのが、わかってしまうほどに。

 ……わかって、しまったのだ。
 彼女の言葉を否定したかった、私の心とともに。

――わからないからこそ、わかりたくなる、か。そんな言葉で、俺は……

くくっ

ほ、ほえ???

 拳をゆっくりと引き、もう一方の手で自分の拳を包みながら、男は言葉を続ける。
 血に濡れたその手を、なにも汚れていない手で、包み込みながら。

俺の罪は、だが、消えぬ。この拳は、血で真っ赤だ

 包んだ手にも、紅い色が移り始める。
 そして男の言葉は、その血だけを指しているわけではない。

(かつての世界で、男がその手で行った、結果の数々)

 その手に含まれているのは、私や彼女には想像もできないほど、深く重い色なのだろう。
 先ほどまでの話から、そう感じることができる。

あいつが、消そうとしてくれた跡は、背負わなければいけないものでもあった

 ――でも、男が言うように。
 その血に濡れた過去は、全てが黒と紅ではなかった。

(私も、そう。……そうでない暖かさも、知って、いるから)

 重ねた男の、両手の下。
 胸の下から、少しずつ、柔らかい光がまた輝きだしている。

 ……もし、グリの光ではなく、私自身の光があれば。
 今の自分からも、同じように、光が漏れていてくれるのだろうか。

この胸を焦がす、辛さは。……暖かさを知ったから、こそか

ケッツァー、さん

 広げた両手を下げ、男の名前を呼ぶ彼女。
 声には、今までと同じように、安心するような明るさが戻っている。

すまなかったな。また、怒りに我を忘れるところだった

それは、リンがちゃんとしていないのも、あると想います

 あはは、と、恥ずかしそうに笑う彼女。

リンが、ケッツァーさんへ、ちゃんとお話しできていれば……

 言葉が小さくなるのは、彼女なりに、自分のためらいをわかっているからだろうか。

(男を怒らせたのは、けれど、同じことよ)

 私と彼女が、男の光を求めたこと。
 その理由は、誰にとっても、すぐにわかりあえることではない。
 むしろ、危険になることを考えれば、伝えることすら恐れること。

(それほど……形を失うのは、怖いこと)

 ――けれど彼女は、わかりあおうと、願い続けた。

ちゃんとしていれば、ここまで俺と話すことはあるまい?

 だからこそ、なのか。
 男は、今までで一番優しい笑顔を浮かべ、彼女へと微笑みかけた。

え、ええと、ですね……?

 突然の微笑みに驚いたのか、声と動きがどこか揺れている。
 慌てる彼女の言葉が、出てくるより早く。

そうは想わないか、お前さんも

 男が呼びかけてきたのは、私の方だった。

……

 けれど私は、口を開けなかった。
 男が呼びかけてきたその意味を、胸の奥で、考えながら。

(……『ちゃんとしていれば』、を、私なら?)

 ――ちゃんと、している。
 ――ちゃんと、光で目覚めた危険のことを疑って。
 ――ちゃんと、この闇の世界で、進むことを止めないために。
 ――ちゃんと、自分の形を護るよう、考え続けている。

 それが、私。
 それが……セリンという、リンとは違う、私の形。
 それが男の言う、『ちゃんと』しているということなのか。

 ……今の私には、わからない。
 結果は、同じことを求めているはずなのに。
 問いかけに対して、答えるべき言葉が、浮かばない私。
 男は、こちらをどう見たのだろう。

想えば、死のうと考えていたのに、都合のいい話だ。消されることに、裏切られることに、怒るなど

 彼女の方へ視線を戻しながら、硬さをなくした柔らかい声で、彼女に話しかける。

むしろ、完全な消滅を望んでいたはずなのに、な

 自分を笑うような男の響きに、グリが呟く。

『本当に終わるのを、受け入れているのなら。……絶望すら、もう、してねぇのかもしれねぇしなぁ』

(絶望すら、しない心……)

 男の言葉も、グリの呟きも、うまくわからなかったけれど。

 ――もしかすると、男が怒ったのは。
 絶望しないためのなにかを、私達が、奪い取ろうとしたからなのだろうか。

あの、リンが言うのも変ですけど……

 リンは何度かうなずいてから、また、自分の言葉を語り始める。

怒るのは、そうなんですよね、って想うんです。だって……ケッツァーさんの大切な光を、リン達は、お返しすることができないんですから

 背中越しの声は、少しふるえて、小さくなっていた。
 ……リンがなにを考えて、口を開いているのか、考えるまでもない。
 
 私達が、男の光を、なぜ灯したのか。
 その理由を、必要だとわかりながらも、彼女は辛く想っているから。

……難しいところ、ではあるがな

 男はそう答えながら、落ち着いた雰囲気を崩さなかった。
 両肩の力を抜き、どこか、ゆるみきった男の雰囲気。

いや。……アイツのことを、想い出したから、こそなのかもしれんな

 ――ゆるんでいるのは、雰囲気ではなく、形なのかもしれない。
 胸元に小さく灯る光が、男の全身を、ゆっくりと包み込んでいくほどに。

……光。ずっと、強くなられています

逆を言えば、これで、完全に消えることができ。……アイツの元へ、行けるのかもしれんな

アイツさんの、場所へ……

 彼女の呟く声が、平坦に聞こえる。

 ――本当に、嘘をつくのが下手なのだと、感じてしまう。
 短い言葉ですら、今なにを感じているのか、こちらがわかってしまうほどに。

そういうわけにも、いかぬか。アイツには、俺より大切な者が、いるはずだからな

ケッツァーさんも、大切な方の一つだって。……リンには、想いますよ

 リンの言葉に、男は、優しく笑った。
 淡い微笑みは、しかし、次の一言で少し硬くなる。

……アイツは、この世界に来ているのか。それとも、俺だけが来てしまったのか

えっと、その方は、なんですけれど……

 そう言いながら、彼女は空いた手の指先を頭に当て、うんうんと悩む声を上げる。

 ――知らず私も、今まで出会った光の存在達を、想い返していた。
 忘れようとし続けてきた、出会った光達の姿を。

(想い当たる形は……)

 口元に手を当て、らしくもなく、考え続けるけれど。

『……わからねぇが、いなかったように想うぜぇ』

 グリは、私への慰めを口にする。
 ――想いかえした記憶にあるのは、やっぱり、暖かい光ばかりじゃない。

ええ。私も、そう想うわ

 小さく、グリに同意の言葉をかける。
 ……それも、私が選んだ道だから、優しくしてくれなくてもいいのに。

(ありがとう、グリ)

 伝わるのが、言葉だけで、本当に良かった。
 ……グリがもし、私の心を読み取れたなら、その優しさすら辛くなっていただろうから。

あの、リンが出会った中にはですね……

 はっきりせず、リンは一度言葉を切る。
 想い返した答えは、どうやら、私と同じだったようだ。

……たぶん、おられません。ごめんなさい

 落ち込んだようにそう言って、頭を少し下げる。

あっ!?

 だが、すぐに声をあげて、はっと想いついたようにこちらを向いてくる。
 その両眼は大きく開かれて、空いた片手はぎゅっと握られている。

あ、あの、もしかしたらセリンの出会った方におられませんか!?

 声も大きく、まるで弾むように、私へと投げかけられる。

 ――光を見つめたかのような、リンの笑顔。
 まだ、私はなんの光を持っているかも、言えていないのに。

(それでもリンは、信じるのね。……誰かにとっての光が、どこかにあることを)

 まっすぐにこちらを見つめるリンへ、私は、短く答えた。

……いないわ

 もしいれば、忘れるはずがない。
 この男を包み込むような、そんな女性の存在を。

 ――もしかすると、この闇に変質してしまったか。
 私が無心で、グリに吸いあげてしまった。
 形を取り戻す前に、奪ってしまった、可能性もあるけれど。

そうか。わからないのなら、仕方ない

 ……男は、気づいているのだろう。
 私が今まで、どうやって、この闇を進んできたか。
 男にしたように、ためらいもなく、照らされた形を奪ってきたことを。

 ――なのに、男の顔は、どこか軽やかなものに変わっているように見えた。

(今の言葉も、まるで、私のことを……)

 私へか、リンへか。
 先ほどまでの男からは考えられない気遣いに、私の胸が、奇妙にゆれる。

こんな俺を拾い上げた、アイツのことだ

 眼を細めて、男は語る。
 確かめようのない、けれど、彼にとって見えている女性の姿へ。

もしアイツなら、この闇にのまれようと、どこかで笑っているだろう。……そんなことは、ないのだろうが

 男の言葉に、リンは口を開く。

あの、リンはですね、その方のことを……!

 力強いリンの言葉を、止めるように。

気にするな。アイツは、俺の眼の前で死んだ。……この闇ではない、かつての、俺の世界でな

 男はしっかりと、私達に、女性の死を告げた。

(――そうか。もう一つの、可能性)

 かつての世界で、すでに、形を失っているのであれば。
 この闇の世界には、初めから、とりこまれていないのかもしれない。

アイツはかつての世界で、夫と息子とともにいる。……それでいい。そうであるべきなのだ

 男の考えは、願いは、確かめようがない。
 むしろ私は、男の願いを、違う意味に感じてしまう。

(……まるで、探す必要はないと、言っているかのよう)

 同じ響きを、リンは、どう受け取ったのか。

ケッツァーさん……

 名前を呼び、ただ、なにも言わずにじっと待つ。

 ――男の光は、もう、グリやスーの光よりずっと強い。
 話しあえる形を、照らしなおすことができないほどに。

だが、俺はもう忘れない。俺の記憶に、心に、アイツが残した時間がある

 胸元に手をそえて、男は、なにかを抱きしめるように語る。

なにも知らず、教えられず、ただ神から生まれた魔物となった。だが……彼女の優しさに、救われた。わずかな灯火を、与えられた

 ――それは、たぶん、再びつかんだ自身の光。
 女性に灯された、かつての世界の、大切な想い出。
 自分で塗りつぶしてしまったそれを、もう一度男は、大切に触れ合う。

それを……自分から闇になり、そしてこの闇と同化されては……たまらん、よな

ケッツァー、さん

 リンは、また名前を呼ぶ。
 薄れていく光の形が、男であったことを、確認するかのように。

この闇の世界で、お嬢ちゃんの笑顔と言葉に……それを、想い出した

 そう言い、男は、優しい眼差しでリンを見つめる。

……ありがとうございます

礼を言われることはない。むしろ……感謝すべきなのは、こちらなのだ

 リンの言葉に、だが男は、顔を少しだけ曇らせた。

それに……俺の罪は、なんら、償われていない

 男は、自身の内にある光を包みながら、慈しむ。
 でもそれは、もしかすると、こうも考えられた。

かつての世界の俺は……この闇と同じでも、おかしくない。……彼女がくれたこの暖かさで、違いができているだけだ

 ――その光が、男の内にある怒りや闇を、見えなくしている。
 かつての暗闇にとらわれることを、形を失わせることで、わからなくさせているのではないか。

許されることは、ないかもしれない。俺自身の闇も、人間を許しきることは、できん

 それは、過去の自分を知り、本当にしたかったことを想い出したからこそ……言える言葉なのかもしれない。

……教えてくれ。奪う、ということの、ちゃんとした意味を

……あ……

 一瞬、リンは言葉に詰まったようだったが。

……はい

 すぐに、強くはっきりと、男へ告げる意志を表した。

 ――そこからは、リンの説明が続いた。
 この闇の世界が、どこまでも続いていること。
 私達は、手元の光で闇を払いながら、『永遠の光』を求めて進み続けていること。
 その闇の中には、かつての世界の光の塊が、眠り続けていること。
 そして……闇を進むには、その光の塊が必要だということ。

 男は、一気に告げられたその事実に、無言で耳を傾け続けた。

……それが、リンとスーさんが、この闇を歩いている理由です

なるほど、な

 リンの説明に、男は小さくうなずいた。
 男の返答は、短く、そこでいったん途切れ。
 少しして、男がまた口を開いた。

どちらにしろ、取り込まれることに変わりはなかったわけだ

……

 ――私が選び続けた、無言の事実。
 ――リンが求め続けた、お話の結果。

(どちらも、聞き手にとっては、同じものでしかありえない)

 男と出会ってから、何度、同じことを考え続けたのだろう。

ケッツァー、さん……

 それでもなお、彼女は顔を硬くする。

そんな顔をするな

 男は微笑みながら、リンに優しく言葉をかける。
 改めて事実を知り、聞き、受け入れながらも。

こんな俺だが、いいのか

えっ……

 かけられた言葉に、リンは小さく、驚きの声をあげる。
 彼女に向けられる、男の眼。
 それは、先ほどの怒りからは想像できない、穏やかで優しいもの。
 ゆっくりと口を開き、男は、リンの光へ手を伸ばす。

連れていって、もらおうか。……俺の、光を

 ――その言葉が、合図となったかのように。
 リンの手元へと、男の光が集まっていく。

……っ!

 ぎゅっと、わずかな間に、大きく眼と口を硬くした彼女。
 ゆっくり、口の奥から出すような声で、今にも崩れ落ちそうな声で言う。

……ありがとう、ございます!

 ――まるで、今にも泣きだしそうな、そんな湿った響きと共に。

(……まぶしい、わね)

 私は、二人の間で交わされる光に、眼を細める。
 眩しかったからなのか、なにか感じることがあったのか。
 ……あまり、わかりたくは、なかったのだけれど。

そして……そっちの、お前

 光をスーと交え、少しだけ、先ほどまでの形を取り戻した男。
 突然に声をかけられた私は、硬い声で返答する。

なにかしら

 ふむ、と、男はなぜか少し言葉を止めた。
 見れば、なにかを口元でためらっているような、そんな動きが見える。
 閉じられた言葉がなんなのか、私が聞くより前に。

お前には、まだ、このお嬢ちゃんがいる。それを、忘れるなよ

 ――そんな、意味のわからない言葉を言われ、動揺してしまう。

……いったい、なんの話かしら

 どうしてか私は、よくわからないその言葉に、苛立ちを覚えた。
 ――そうした私の態度に、男が呆れ、無視してくれれば良かったのに。

闇に抗いながら、闇のフリをするのは、理解できる。それが望まれたことなのだと、俺のように溺れてしまえば……楽に、なれる

 語られる言葉は、わからない。
 ……わからない、わけじゃない。
 むしろ、ずっと、わかっていた。

 ――男の行いが、私のしてきたことが、同じ色に塗りつぶされたものだったということに。

(でも、そうしなければ。……だって、私の出会った光は、あまりにも)

 胸の内で、さっきまでずっと、閉じ込めてきた言葉。
 言いたい。
 ぶつけたい。
 叫びたい。
 ……でも、それは、何の意味もない。
 あふれだしたら、私、またこうして進めるようになるか、怖いもの。

『セリン、落ち着けよぉ?』

 グリの声が聞こえても、私の胸は、治まらない。
 そんな胸の内を、男は知っていて、言葉を続けるのだろうか。

だが、お前は、闇の中の光だ。光を持って、ここにいる。……俺とは、違う。それは、覚えていろよ

よけいな……よけいな、お世話よっ

 かみちぎるような言い方で、男の気遣いを払いのける。

 ――途中から、気づいていた。
 だから、男の光を、理解したくなかった。
 自分の中にある、弱い、生まれたばかりの頃の想い。
 それを、想い出しそうになっていたなんて。
 男にも、リンにも。
 ……そんな光があるだなんて、気づかれたく、ないのよ……。

『セリン……』

 グリが、名前を呼んでくれる。
 手元に、硬いけれど、心が強くなる感触。
 いつも、つながっていてくれるという安心感を、与えてくれる。
 私は、そのグリの気遣いに、空いた手をそっとカンテラへと添えた。
 自分の手は、冷たく、ひんやりとしていたけれど。

(この硬さと、淡い光は、いてくれる)

 私は、両眼を閉じる。

 周囲と同じ暗闇が、私の眼のなかにも、一気に広がってくる。
 そこには、まぶしい光を持つ少女も、かすかな光で優しさを持った男も、誰もいない。

(怖い……けれど。ずっと、グリと二人だけで、こんな闇を歩いてきた)

 にじむ視界になっても。
 眼を閉じた闇に少し浸っても。
 この場に、危険はもうない。

 ――男の光が弱まるのを、まぶた越しでも、もうわかることができる。

光に、暖かさ。そんなものが、こんなにもまぶしいとはな

ケッツァーさん……

 言いにくそうに、なにかを問いかけたいかのように、リンは口を開く。

これは、リンのわがままです。あの、リンのしたことは……

――リン

 初めて、男はリンの名前を呼ぶ。

 私もそれにあわせて眼を開き、二人の様子をあらためて見つめる。

は、はい

 しっかりと、リンは男を見つめなおす。
 明るさとも悲しさとも違うその表情に、男はかすれゆく声とともに、言葉を贈った。

お前の光を、持ち続けろ。それが……たとえ、闇を背負ったものであってもだ

……っ!

それが……俺にとっての、光だったのだから

……はい。はいっ!

 男の言葉の意味を、リンは、どう受け取ったのか。

 ――私も、自分へと問いかける。

(たとえ闇を、背負っても)

 ――私が選んだ、光と闇の、灯し方。

あの。リンは、ケッツァーさんの光、大切にします

 大切に手元の光を抱きしめ、リンは、口元をひきしめてそう告げる。
 彼女ならその言葉通り、大切に男の光を、灯すのだろう。

(もし、私だったら?)

 おそらく、まっすぐに男へと語りかける、彼女のものとは違う。
 ――男の光、という闇を知らないまま、だったのかもしれない。

(……だから、私には灯せない)

 今もなお、涙を流しそうにしながら。
 それでも、男の光を奪い続ける……そんな、光の灯し方を。

(私には、選べない。わからない)

あの、あのですね! もし、その方に出会ったらですね……!

それは……

 想わず、口が出そうになるが、リンの言葉の方が先に続いた。

もし、出会ったら……ケッツァーさんのこと、ちゃんと、お伝えしますから!

 リンの言葉に、全身像をぼやけさせた男は、なにを感じたのか。
 先ほどまでの威圧感は、次第に薄くなりつつあった。
 張りつめられた力も、周囲を支配する圧迫感も、もう、感じられない。
 その姿のように、不確かなものに変わりつつあった。
 だから、その光の粒から聞こえてきた声も、薄く引き延ばされた弱いものでしかなく。

……あぁ

 全体像が失われていく中、男の唇が動き、かすれた声が耳に届く。
 最初に見た時とは、まるで違う、薄れ消えゆくその声。

(あんなに力強く、恐ろしかったのに)

 消えゆき、光となり、散っていく存在は――こんなにも淡く、哀しく、愛おしい。

よ、ろし、く……な……

 光が、周囲の闇と光へ、吸い込まれていくように。
 男の薄れた声もまた、同じように、闇のなかへと消えていこうとする。

きっと。きっと、です!

 だがその言葉に、リンはきっぱりと答える。
 出会えるかもわからない相手への約束を、彼女は、ためらいもなく口にする。

(でも、だからこそ……)

 約束の答えを返す彼女だからこそ、男に、光を取り戻した。

 ――私が避けて、見ないようにしていた、男の胸に眠る光を。

……おやすみ、なさい

 リンが小さく、その言葉を呟くと同時に。

 ――男は、細かい光を視界いっぱいに広げ、散っていった。

……さようなら

 私も小さく、いつも告げている言葉を口にする。
 割り切りがよくて、前を進み続けるための切り替えとして、気に入っていた。
 そうして、自分で選んだ言葉のはずなのに。

 ――でも今は、なぜか、とても冷たく寂しいものに感じられた。

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