……!

 眼を見開き、じっとこちらを見つめ、言葉も出ない彼女。
 その顔は、なにを考えているのか。
 さまざまに変化する表情は、出会ってからの全てを、一度に見せてくれるかのよう。
 まっすぐさや、驚き、悲しみ。
 複雑に行き来する彼女の色は、次第に、落ち着いてくる。

(……また、そんな顔をする)

 眉をよせ、なにを言うでもなく、こちらの言葉を待っているかのような瞳。
 開きかけた唇は、けれど、沈むような瞳と頬の重さから、開くことはないのだと感じられる。

(見たことが、ある。あなたは、これから、吸われる立場でもないのに)

 ――そこにふくまれる、その色は、もしかしたら。
 ――私が、かつて灯された、淡い温もりと似ているのかもしれない。

(だから、この世界に対して、私が心を閉ざした時の……)

 そんなことを、一瞬、想った油断が。

あっ!?

……っ!?

 判断を、遅くした。
 ダンッ、と不気味な音を捉えたのは、実際の動きよりわずかに遅い。
 ――心が揺れることは、危険なのだと、知っていたはずなのに。
 ゾクリ、と背中に寒気が走り。

くっ……!?

 本能的に、身体を片側へ飛び跳ねさせる。
 グリの光が揺れ、全身をなでる闇の悪寒が、私の身体と心を冷たくする。

『大丈夫かぁ、セリン?』

……ええ。背中と頭に、まだ、振動が残っているけれど

 グリに答えながら、ゆっくりと立ち上がる。
 足にはなんの不具合もなかったけれど、身体には、受け流したはずの響きが残っていた。

(避けたと、想っていたのに)

いい勘をしている

 切り裂くような声が、不気味な威圧感とともに、耳へ入り込んできた。

まるで、読んでいたかのようだな

 ――先ほどの悪寒は、闇に飛び込んだから、だけではない。
 よくこんなものを、彼女は正面から見つめられたものだと想う。

……残念だけれど、ただの勘よ

 飛び跳ねた場所から、グリの光を掲げる。
 先ほど、私が立っていたであろう、闇の方向へ。

 一つの光が減り、闇の力が増したその場所には、変わらぬ二つの姿がある。
 進むべきか声をかけるべきか、迷うような表情を浮かべる彼女。
 そして、硬く拳を握りしめた男の腕が、足元へ向けて振り下ろされていた。
 恐ろしいまでの脈動と力を、離れたのに感じるほど、みなぎらせながら。

(危なかった、わね)

 あのままいたら、腹か頭を打ち抜かれていただろう。
 身体に残った感触から、男に、止める気はなかったと想う。
 ――かつての世界を破壊した、あの腕に押し潰されれば、意識どころか身体すら危なかったかもしれない。

(今のは、偶然)

 安心してはいられない。
 私の眼は、身体は、男の動きを全くわかることができなかった。
 避けることができたのは、この闇すらふるわせるほどの男の力を、私の何かがとらえたからにすぎない。

(次が、くる)

 すでに腕を引いた男は、視線も意識も、私の方へと向き直っている。
 最初の狙いは、彼女ではなく、私の様だ。

(……なら、都合がいい)

 腕以上に危険な力を持つ、どっしりとした足。
 腰を落としながら力をためる二本の足を、しっかりと見据え、身構える。
 沈みこむ身体のような低い声で、男は、私に告げた。

勘では避けられぬ、力を見せよう

 ななめに傾けられた上半身は、筋肉が一回り弾み。
 いつでも私との間をなくせるのだと、刺すような瞳が見つめてくる。

そうね

 ――でも、それはもう、想定済みだ。

……ぬっ!?

 突然、男の身体が大きく傾いた。
 跳ね飛ぶための姿勢を崩し、むしろ、倒れこむような形へと。

ケッツァーさん……!?

 彼女が踏み出し、心配そうに一歩を踏み出した途端。
 ――男の身体は、闇のなかへと、大きく倒れこんだ。

これ、は!?

 両手を闇へつきながら、上半身を起こす男。
 その顔には、らしくもなく、今起こっていることがわからないという色が満ちている。

ええ。勘では避けられないことも、わかっているわ

 さっき、驚いたのは本当だ。
 私の身体なんて、男の一撃で、もしかしたら崩れてしまうかもしれない。
 ――でもそれは、油断していた一撃だからこそ、怖いだけ。

力では、抗えない。だから、これが私達の方法よ

 私の言葉に、男は自分の身体へ視線を向ける。

こ、れはっ……!?

 怒りに満ちた男の声に、覚えがある。
 そう、さきほど聞いた――王や戦場の話と、同じ響きだ。

(本当なら、足を弾ませ、両手をふるい、その怒りをふるいたいのでしょう)

 だが、そうはならない。
 そう、できないようにされている。
 男はすでに、私達の手の中にあった。
 ……正確には、出会った時から、ずっとそうだった。

『んんん、それでも跳ねるのは、すげぇ足だぜぇ……!』

 力を込めた、グリの声。
 明滅を繰り返す、その光は細く伸びて――男の身体へと、つながっている。
 最初より大きく、太く、その驚異となる足へ巻き付くように。

ぐっ……!?

 何度も何度も、男は身体をふるわせる。
 まるで身体が膨らんだように、その威圧感も増すように、足をとらえるグリの光に抗い続ける。
 けれど――その抵抗が、私とグリへ届くことはない。

(とらえた光が離れることは、一度も、なかったのだから)

 ――光は、光を求める。避けようとしても、一度吸い始めてしまえば、止めることはできない。
 ――さっきの、グリとスーのことも、そうだったのだろう。
 ――彼らにすら制御できない、光が光を吸い尽くす、その動き。

(……まるで、闇が闇を、求めるように)

 知っていたその事実を、改めて想い出しながら、私は抗う男を見つめる。
 行動の始まりとなる、二本の脚。
 そこを奪えば、男がどんな力を持っていようと、ふるうための障害が大きくなる。

(諦めない力は、私達への、怒りなのかしら)

 そのために男は、両足を取り戻そうとする。
 グリに吸いこまれ続ける、自分の足を。
 ……受け入れてしまえば、楽に、なれるのに。

(――違うわ。受け入れさせなくしたのは、私達)

 小さく、本当に小さく、後悔の言葉が胸にわく。

 彼女が引きだし、私が見逃してしまった、男の光。
 ……それが、男の絶望を、より深く闇に染めていく。

『これは、ちょっと時間がかかるぜぇ』

 落ち込んだ瞬間に声をかける相棒は、私の心を読めるのだろうか。
 慰めるように、揺らがないように、グリの声は私の心を元に戻す。
 ――冷たく、前に進むと決めた、私の意志を。

『神か悪魔か、って言ってるくらいだから、さすがだなぁ。……だが、吸える。いいよな?』

かまわないわ

 グリの問いかけに、小さく答える。
 冷静に、短く、感情をこめないように。

――終わりにしましょう。偽りの、慰めを

 闇へと両手をつき、全身をふるわせる男へ、同じような視線を向けながら。

くそぉぉぉ! きさまぁぁぁ!

 絶叫。初めて聞いた、周囲の闇も恐れそうなほどの、耳を切り裂くような絶叫。
 ――これが、かつての世界で、神か悪魔と恐れられたモノの怒りなのか。
 ぐっと、すがるようにグリの身体を握りしめ、状況をうかがう。

(……大丈夫。彼は、もう、動くことはない)

 光に包まれた足の輪郭は、光の線に包まれ、ぼうっと薄く曖昧になっていく。
 そこから、光が男の全身へと、伝わっていっているのか。
 圧迫感と力に満ちた男の全身は、しかし次第に、その動きを小さくしていった。
 闇を支える両手も、最初に見た時ほどの硬さを、もう失い始めている。
 ――手や足は、恐怖の対象だ。
 それは、私に触れることができる。
 私を、グリを、たやすく傷つけ、奪うことが出来る。

ぐ、ぐぅおぉぉぉっ……!?

 絶叫が、また、男の口から生み出される。
 でも、言葉なんて、怖くない。
 だってそれに、形を変えることは、できないから。
 幾百、幾万、言葉を重ねたところで――結果は、同じなのだから。

(だったら、始めからこんな形なんて、戻さない方がいい)

 ――同じ数の優しさと苦しさを、知って気づいた。
 ――心なんて、塞いでしまえばいい。
 ――そう、遠い昔に、わかってしまったから。

くっ……動け、ウゴケェェェ……!!!

 淡く消えゆく全身でもがきながら、貫くような視線を向けてくる男。
 ――それは、見慣れた視線。

(まれに、形になりきれないものが見せる、瞳)

 怒りや恨み、そういったものに満ちているだろう、その視線。

 ずっと、この闇を歩きながら、当たり前だったもの。
 当たり前だと、想い続けてきたもの。
 ――まれに向けられた優しい瞳を、忘れた心。
 それが、当たり前だと、想っていた瞳。

(……どうして、そんなことを、考えるの)

 ふと、想い出した笑顔と交わるように、男の声が耳に届く。

お前等も、同じか

 歪むように響く、その言葉。
 指している同じものとは、いったい、なんのことか。
 ……わかっている。
 研ぎ澄まされた刃のような視線は、かつての世界で、男が向けられていたであろうもの。

 ――恐れられるナニカを見る、襲われる者の、怒りの瞳。

俺を異形の存在だと、人間は言った。神か悪魔か、どちらにしろ、自分達とは異なる存在だと

 男の言葉は、おそらく、この世界でも間違いではない。
 私には、そしてリンにとっても、男の力や圧迫感は異質なものだ。
 今まで出会った光の形の中でも、覚えがないくらいに。

(でも、グリにより照らされる形であるなら……そこに、違いはない)

 ……茶番につきあうことさえなければ、私にとって、ただいつも通りに吸い上げて進むだけのことだった。
 なのに男の怒りの声は、閉ざしたはずの私の心へ、打ちつけるように響く。

ならば、よみがえった俺を奪い、利用するお前らも……また、俺と同じ存在なのか!?

そうかも、しれないわね

 たんたんと、ただ、事実を受け入れるように、私は答える。
 そう。
 男がかつて、全ての心を閉ざし、闇にのまれた時と……同じように。

だから、私も――心なんて、もう、感じないの

 そう、そうやって。

 ――闇と同じように、光のために、心を閉ざしたから。
 だからこそ、この闇を進むことが、できたのだから……!

 ぐっと、カンテラの光を、男へとさらに近づける。
 歪んだ顔を浮かべる姿に、その形が失われるのが、近いことを知る。

くっ……!

 ――あぁ。どうしてこの瞳を、彼女は受け止めようなんて想えるのかしら?

さようなら、ね

 私は、努めて冷静に、男へと別れを告げた。
 ずっと、ずっと忘れていた。
 消えていくものへの別れの言葉を。

 ――なのに。

やめてください、セリン!

……っ!?

 突然、リンが私の手をつかんで、光の向きを男から変えさせようとする。
 意外な行動に、グリの光は大きく男からズレて、その輪郭を一瞬見失わせる。

こ、の……っ!

 力を入れ、なんとか光を男へと戻す。
 けれど、わずかな一瞬を見逃すような男ではない。
 さっきまでつないでいた拘束の糸は、闇の先で途切れてしまっていた。

(まずい……!)

 代わりに、淡く光るグリの輝きが、男の全身を改めて形にする。
 さっきより私達から離れた男は、荒い息をつきながら、私達を見つめていた。

(近づけば、また狙われる。なら、いっそ離れてしまえば)

 光に照らされていれば、足は、いつか形を取り戻すかもしれない。
 ならばあえて光を外し、闇へと戻してしまおうか。

(……いや)

 おそらく、そうはならないだろう。
 グリを持つ私の手を、細い指先で握りしめる彼女。
 もう一つの手は、淡い光を男へ向け、その姿が戻るように手助けをしている。
 ……たとえ私がいなくなっても、リンは、スーによって男を照らそうとするだろう。
 力強く私を止めるこの手は、ためらいもなく、それを行うだろう。

(自分が、討たれるかもしれないのに)

 それでもリンは、男の形を、光を、輝かせるためにそうする。
 私には、そうするであろうリンの行動が、嫌というほどによくわかってしまう。

 ――だからこそ、まったく、わからない。
 わかりたく、ない。
 そんな、危険と辛さしかないはずの、リンの行動を。

はな、しなさい……!

今は、今は、ぎゅっとしてます!

 振り払おうとするが、その力に驚く。

(同じ、じゃ、ないのね……!)

 動こうとすれば、その手の動きは抑えられ。
 諦めるように力を抜けば、こちらの気配を読むように、軽く手を添えるだけ。

 ――やっぱり、見た目通りじゃない。
 想った以上に、慣れている。
 この世界の、他者との接触に。

(ずっと、話を聞いていると、言っていた)

 つまり、その意味するところは、見過ごすがなかったということ。
 動く光の形達と、交わってきたということ。
 ……私が、ずっと避け続けていた、未知のナニカとの関わりを。

くぅ……!

(はっ、男は……っ!?)

 私と彼女が言いあううちに、男はより大きく私達から離れていた。
 グリとスーの光が外れず、かといってすぐに触れられるほどでもない。
 男も、わかっているのだ。
 私とリン、そのどちらかが照らす光の範囲に、とどまるような位置で立っている。
 ……二本の足は、すでにその形を、取り戻していた。

(最初に、戻ってしまったわね)

 一足で詰めてくるには難しい場所で、男はじっと、私とリンの動きを見つめている。
 先ほどと同じように、こちらをいつでも刺すことのできる、ナイフのような瞳で。

……なぜだ

 男の言葉は、どちらへ向けたものか。

なぜ、俺を助けた!

 彼女へと向けられた、男の絶叫。
 その声が含む怒気は、先ほどまでの、比ではない。

(雰囲気が、変わった)

 怒りに我を忘れ、周囲の全てに当たらずにはいられない。
 そうした危険や圧迫するような雰囲気が、先ほどまではあった。

 ……でも、今の男にあるのは、真逆の怖さ。
 ――静かな、考えをまとめたからこそ漏れる、怒りの声。

(さっきの、私と、同じ)

 吐き出さずにはいられない言葉を、おそらく、さっきの私と同じ気持ちで。
 男は、リンへと、想いをぶつける。

俺の過去を、知っただろう

……お話を、お聞きしました

 私の腕を押さえながら、リンは男へとまっすぐに視線を向け、答える。
 だがその行為は、おそらく、男の怒りをさらに増やしているように想えた。

俺の行ってきた非道を、恐怖を、わかっただろう!

ケッツァーさんが、様々なことを体験されたことは、わかりました

わかっていない!

 ゴウンッ! と、なにかとなにかがぶつかるような音がした。
 この世界では聞きなれない、殴られた時のような、硬い音。
 音は、男の両手から発せられた。
 硬く握りしめ、全てを破壊するその拳を、男はもう一つの掌へと全力でぶつけていた。

ならば恐れろ! その娘のように、捨て去ればいい! 俺を……俺を、この世界から消えろと!

 男の声は、先ほどよりもさらに大きく、低く、刃のように発せられた。
 絶叫のような声は、こちらを脅迫するような、恐ろしさを含んでいたけれど。
 ……意味する言葉に、違うものを、感じさせた。

(自分を捨てることを、押しつける)

 それは、私が望んだこと。
 そうであるべきだと、進んできた今までを、他者から言われただけのこと。

(……でも、この、闇の世界は)

 その威圧感は、直接的に向けられていない私ですら、足を一歩引いた。
 引いてしまった。
 肯定してしまった。

 ――私は、この闇と、一緒なのかもしれない。
 ――そうしなければ、『永遠の光』なんて、考えることもできなかった。

 なのに、彼女は――リンは、違った。
 手元から、力が消える。
 さっきまで、私を柔らかくつかんでいた手を離し、背を向ける。
 私とは逆の方向へ、足を踏み出すために。

 見えるのは、リンの背中。
 見えない彼女の瞳は、今、男の眼を見返している。
 ……おそらく、いつものような、まっすぐな瞳で。

 男と向き合ったリンは、戸惑いのない声を、まっすぐに闇へ響かせた。

それは、わかりません!

 そして、絶叫した。
 私にはわからない、男への信頼を。

なに……?

お話としては、わかりました。けれど……ケッツァーさんが、言うとおりの方だと、リンには想えないのです

 彼女は、少しだけ頭を垂れて、声を落とす。
 なにかを想い出すように。

さっきも、そうです。拳を止めてくれた時……ケッツァーさん、とても辛そうな顔をされていました

 漏れ出る声は、どこか答えを求めるような、ふるえる響きを持ってもいた。

(顔……あの時、どんな、顔だったかしら)

 ――あの時、私は、なにを見ていた?
 拳を、見ていた。
 男が、どんな危険を持っているのか。
 どうやって、対応すべきか。
 いかにして、グリへと取りこむべきか。
 どれだけ早く、次の光へ、進むことができるか。
 ……それだけを考え、判断していた。

(でも、彼女は……男の顔を、まっすぐに、見ていた)

それに、ケッツァーさんは人をたくさん……

 一度言葉を止め、彼女は、息をもらす。
 顔は、私からは見えない。
 だが、次第に揺れるようになったその声から、どんな顔をしているか、想像できるような気もした。

 ――その顔は、男に、どんな心持ちで、受け止められているのだろう。

ころして、しまったと、言いました

 涙混じりの声で、彼女は、男へ告げる。

そうだ。俺は……あらゆる存在を、抹殺してきた。その意味を、知らぬ時も。知りながら、止められなかった時も。俺にできたのは、なにかを失わせ続けることだけだ!

でも、でも!

 そこで彼女は、ふりしぼった声を、大きく大きく響かせ。

本当に真っ暗な人は、そのことで、闇に墜ちるなんて……言わないです! 言わないと、想うのです!!!

 前のめりになって、彼女は、空いた手を男に差し伸べるようにしながら。
 訴えかけるように、男への信頼を、言葉に乗せた。

……っ!

……グリ

 男の表情を見て、私はグリに小さく命じる。

『嬢ちゃんの願い、なぁ。悪いがぁ……いい、準備時間だったぁ。最適に、してもらっちまったぜぇ』

 どこか名残惜しそうな声で、グリは私に返答する。

 ……それでも私は、怖いのだ。
 ……だから、こうしてグリの光を、壁にしてしまうのだ。

 準備が済んだ、その意味。
 ――この茶番の、終わりが出来たことと、同じ意味だ。

……ありがとう、グリ

 小さく礼を言い、グリも『あいよぉ』と小さく答える。

 ――彼女の言葉が正しいのか、正しくないのか。
 私には、わからない。
 だが、わかるのは。

(今ここで、消えるわけにはいかない)

 ――私も、だからこそ、進み続けてきたのだから。

 幸いにも、彼女の陰になったことで、男にこちらの様子は気づかれていない。
 ぐっと、熱っぽい声で男へ話しかける、彼女の後ろ姿。

 ――もう、諦めてよ。
 ――それが伝われば、こんな闇の世界なんて、来ることはなかったでしょう?

だから、リンは……信じます。今、こうして拳を止めてくれるケッツァーさんを、信じています!

 言葉を告げると同時、ばっと、彼女は両腕を大きく広げる。

リンは、光を持っている、ケッツァーさんを信じ続けます!

 それは、全身で彼を受け止めようと想う、彼女のなりの表現だったのかもしれない。
 ――だが、男の顔に浮かんだのは。内から発せられた、答えの言葉は。

ふざけるなぁ!

 怒り。
 ただでさえ高圧的な身が、さらにはちきれんばかりの、怒りの響きだった。
 その怒りを乗せて、だんっ、と。
 男の足が、闇の世界を大きく響かせて動き出す。

(だけど、こちらへ向かってくる隙を、利用すれば……!)

 すかさず、彼女の陰から出ようとした時。

セリン、ごめんなさい!

 その動きを予測するように、彼女は、私の動く方向への壁となり。

っ!?

 カッ、と、白い光が私の眼を小さく焼いた。

くっ……!?

『こ、こいつぁ……!?』

 ――最後に見えた、彼女の光の手。
 それは、こちら側へと向けられていた。

なにを、なにをしてるのっ!?

 これでは、身動きができない!
 それにこの位置じゃ、グリも男を照らすことができない!

(このままじゃ……!?)

 焦る私の感覚に、驚くことが続く。

 ――彼女はその足を、男へと踏み出した。
 まっすぐにこちらへ走り込んでくる、男へ向かって。

えっ!?

 そんなことを、すれば。
 男の突進を、まっさきに受け止めるのは。

リン、あなた……!

 そんなことをすれば、あなたの身体は……!

(なぜ、なぜ、そこまでして)

 ――あなたが、なにをしたいのか。
 ……私には、わからない……!
 わからないよ……っ!?

うぉぉぉぉぉぉ!

 闇すら恐れて払われそうな、狂ったような男の絶叫。
 すぐに回復した眼が、二人の姿をとらえる。
 グリの光に分解されながらも、まだまだ力を残した、その張りつめた身体。
 そして、先ほどより少しだけ小さくなった、彼女の背中。

 ――男の、全身をのせた足が、彼女の前で止まり。

……リンっ!

……!

 ――その全力をこめた拳が、彼女の顔へと突き出された。

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