お嬢ちゃん、どうかしたのか?

突然目の前から聞こえた少し訛りのある声に驚いて、私は勢いよく顔を上げた。涙のせいですべてがぼやけて見えたので、手の甲で涙を拭ってからもう一度目を開く。そこにいたのは、私と目線を合わせるためにしゃがみ込んで、ジッと私の目を見つめている男の人だった。見た目は二十代前後と若そうだ。

秀治郎

何で泣いてるの?

優しそうな声だ。
一瞬、この人に心を許して助けを求めようかと思ったが、見た目で人を判断するのはよくない。実はとてつもなく悪い人かもしれない。そう思い、私は口を開かなかった。初めて会ったこの人を警戒してジッと見つめる。

秀治郎

そんな怖い顔しないでよ。別に怪しい奴じゃないからな?

秀治郎

あ、俺、秀治郎って言うんだ。お嬢ちゃんは?

……

秀治郎

無視かー

彼__秀治郎さんは困ったように笑った。歯並びのいい白い歯がすてきだなと思った。

秀治郎

もしかして人見知りする? じゃあ、名前当てようか。……よしこちゃん

葵です

しまった、つい言ってしまった。

葵ちゃんかー、とつぶやきながら、秀治郎さんは私の左隣に座ってきた。なぜだ。
ぎょっとしながら見つめていると、そんな私の視線に気づいた秀治郎さんが鼻筋にシワを寄せて破顔した。この人、笑うと目がなくなるのか。

秀治郎

可愛い名前だな

こんなに率直に言われるのは初めてで、自分の容姿を褒められたわけではないのに、まるでそのときと同じような照れくささを感じた。

秀治郎

葵ちゃんはこのあたりに住んでるの?

秀治郎さんの問いに、私は首を左右に小さく振った。

秀治郎

じゃあ観光か。俺はここのすぐ近くに住んでるんだ。田舎の方にある実家からじゃ、大学が遠すぎて通えなくて

それなら訛りのある口調にも納得だ。

秀治郎

ここに越してきたときにさ、道に迷ったんだよ俺。そんなときに、ここ、浅草の人たちが道案内をしてくれたんだ。なんて言うか……昔ながらの人情とか温かさを感じた。

秀治郎

もっとビルが多い都会に出ると、みんな冷たいんだよな!

秀治郎

だから、日本もまだまだ捨てたもんじゃないな、なーんて思ったわけ。で、俺も困っている人がいたら声をかけるようにしてるんだ。

やっぱりこの人は悪い人じゃないかもしれない。これといった理由はないが、そう思った。

知り合いが一人もいないところで迷子になってしまったときの心細さを共有できるのは、今の私にはきっとこの人しかいない。この不安を一時的でもいいので消したかった私は、秀治郎さんを頼ることにした。

私、迷子なの。ここのお店がすてきだなと思って、みんなに何も言わずに入っちゃって……

秀治郎

葵ちゃんは和菓子が好きなの?

コクリ、とうなずくと、秀治郎さんは背負っていたリュックを下ろし、その中をガサゴソし始めた。ときどき何かのチャックを開けたりする音が聞こえる。

秀治郎

さっきお昼食べたから、今所持金五十円しかない……ごめんな、和菓子は買ってやれないけど、これで我慢して

そう言うと、秀治郎さんがリュックの中から赤くて四角い缶を取り出した。そのレトロ缶なら私の家にもある。右から左へと流れる横文字に見慣れなくて、変なの! と、兄と笑ったことがある。

秀治郎

サクラ式ドロップス、好き?

もう一度コクリ、とうなずく。

秀治郎

俺も好きなんだ

秀治郎

それを俺の母さんも知ってて、この間ダンボール箱いっぱいに入れて宅急便で送ってきたんだよね。さすがにあれは多すぎる……

そういえばこの間、私の家にもおばあちゃんがダンボール箱いっぱいのりんごを送ってきたことを思い出した。まだ半分も食べていないのに飽きてしまったので、みんなでどうしようかと考えている。

りんごが嫌いになりそうだな、なんて思っていたら、秀治郎さんが財布から十円玉を取り出した。

秀治郎

何味が好き?

いちご

秀治郎

いちごかー。女の子って感じがするな

十円玉を、缶の上についているふたと缶本体の間に挟み、そのまま十円玉を下に押してふたを押し上げる。この缶のふたはとても固いので、このようにしないと開かない。

秀治郎

手、出して

言われるがまま、秀治郎さんに右手を差し出した。

秀治郎

いちご味が出てきたら、今日の葵ちゃんはラッキーだ

秀治郎さんはそう言ってから、いちご味来い、と何度も口にしながら私の手の上で缶を少し傾けて数回振った。

迷子になった時点で、もう私はラッキーじゃないと思うけどなあ……

案の定、手のひらに転がってきたのはりんご味だった。もうりんご味なんて嫌いだ。

秀治郎

……りんご味は俺が好きな味だよ。だから、俺のラッキーを分けてあげる

私はそんな何の慰めにもなっていない言葉に、はあ、という微妙な反応をすることしかできなかった。

しばらくりんごなんて食べたくなかったのに。りんご味の飴だって嫌である。

……ありがとう

しかし、せっかく秀治郎さんがくれたのに食べないのはもったいないし、失礼だ。私はその飴を口の中に放り込んだ。

秀治郎

美味しい?

本当は今すぐにでも口から出したかった。なんだか胃がむかむかしてきたが、私は物凄くぎこちなくうなずいた。
それを見て、何も知らない秀治郎さんは嬉しそうな顔をした。私は複雑な気持ちになったため、思わずぷいっと秀治郎さんから顔を背けてしまった。

秀治郎

じゃあ次は俺。りんご味来い!

秀治郎さんは自分の手のひらの上で缶を二、三回振った。出てきたのは、オレンジ味だ。

秀治郎

オレンジ味かあ……まあ、これも好きだけど

秀治郎さんが自分の口の中にその飴を入れたとき、歯に飴が当たってカロン、という音がした。無意識に、私も同じ音を鳴らす。

秀治郎

葵ちゃんは今いくつ?

八歳

秀治郎

若いなあ。俺は今十九だから、十一歳差だね

十一歳差。倍以上年が離れていて驚いた。

もう大人なの?

秀治郎

いやいや、俺はまだまだ子どもだよ。俺も昔は二十歳くらいになればみんな大人だと思ってたけど、実際そんなことはないんだよな

いまいちピンとこなくて首をひねったら、

秀治郎

葵ちゃんももう少し大きくなったら分かるよ

と言われた。
そういうものなのだろうか。

あ、飛行機雲

顔を少し横にずらしたときにたまたま視界に入った、空に浮かぶ白い一本の線。位置としては、秀治郎さんの頭のすぐ上あたりだろうか。見つけたとき、私は反射的にそう口に出していた。

秀治郎

え? ……あ、本当だ

秀治郎さんも振り返ってそう言った。

今なお残る下町の風情と、遠くに見えるたくさんのビル、そして帯状の雲がたなびく青空。
なかなかすてきな組み合わせだなと思っていたら、隣の秀治郎さんがため息混じりにつぶやいた。

秀治郎

なんだかなあ……

どうしたの?

秀治郎

やー、変な感じがするなと思ってさー

どういうことなのか聞いてみると、秀治郎さんは口の中の飴をもう一度カロン、と鳴らした。

秀治郎

江戸の町並みと、現代のものが一緒になることだよ。別に昔のものを無くせとか、そういうことではないよ? むしろ残してほしい。ただ……不思議だなあって思っただけ

確かに不思議かもしれない。不釣り合いだが、それはそれで味がある。しかし、昔のものと今のものが一緒になっていても、それに見慣れてしまった私たちは何とも思っていないのだろう。

私はいいと思うな

秀治郎

そう?

だって……すてきでしょ?

たったの八年しか生きていない小学二年生じゃ、こんな簡単な言葉でしか表現できなかった。なんだか自分の言葉が軽いと感じ、“本当に素晴らしい”ということを上手く伝えられなかったが、秀治郎さんは理解してくれたらしい。

秀治郎

そうだな。確かに素敵だよ

秀治郎さんがにっこりするので、私もつられて笑った。

秀治郎

あ、笑った

え?

秀治郎

葵ちゃんずっと笑ってくれなかったから

秀治郎

まだ警戒されてるのかと思ってたけど、もう大丈夫みたいだな

気が付かなかった。
だけど、思えば確かに、私は一度も笑っていなかった気がする。失礼なことをしてしまったと反省した。

お兄さんは、いい人だと信じてる!

満面の笑みでそう言ったら、秀治郎さんは大笑いした。そして、ポンッと優しく頭を叩かれた。

秀治郎

そうかー、嬉しいなあ! まあ、確かに俺はいい人だけど

自分で言ったよ……

呆れて何も言えないでいると、タイミングよくどこからかセミが鳴いた。私の代わりに答えてくれたのだろうか。

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