秀治郎さんが突然あっ、と声をあげる。
秀治郎さんが突然あっ、と声をあげる。
そういえば、俺今日バイトあったかな
先ほど下ろしてからずっと抱えているリュックの中を、またガサゴソし始めた。何を取り出すのかと思ったら、出てきたのは何やらカラフルな手帳だった。
可愛い!
その手帳には、ポップな可愛らしい絵柄で、ピンクや黄色のくまのイラストが描かれていた。
これ、スケジュール帳なんだ
秀治郎さんは、適当なページを開いて中身を見せてくれた。見開きに大きくカレンダーが印刷されてあり、そこにたくさんのことが書き込まれていた。大学生はこんなにも予定があるのか。大変そうである。
お兄さんは可愛いものが好きなのね
それみんなに言われるけど、違うんだよー!
顔を両手で覆って、秀治郎さんは叫んだ。違っていて少し安心したのと同時に、どうしてこんなスケジュール帳を使っているのか不思議に思った。
あのね、これ、越してきたときに隣の部屋に住んでる人に貰ったんだ
お隣さんに貰ったものだったのか。それでも、そのお隣さんがこんなにも可愛いスケジュール帳を、秀治郎さんのために選んだ意味が分からない。
……いいお姉さんね
いや、男だよ
それを聞いて、私は思わず頓狂な声を上げた。
男ならなおさら意味が分からない。
その人女好きでね、隣に越してくる人が女の人だと思って買ったみたいなんだ。その人がその人が僕の顔を見たときの表情には地味に傷ついたね。とにかく、自分はスケジュール帳なんて使わないから貰ってくれと言われてさ、使わないのももったいないから使ってるってわけ
何その人、なんだかムカつく
ムカついたあまり、思わず飴をガリッ、と噛んでしまった。
俺もムカついた! でも、同じ大学の、しかも同じ学部の先輩だったから文句も言えず……
ガクブって?
んー、簡単に言うと、グループみたいな?
同じクラスにいる仲の悪い女の子を思い出した。私とその子はいつも衝突してしまい、よくまわりに迷惑をかけている。今更だが、みんなに申し訳ないなと思った。
葵ちゃん、これ可愛いと思う?
思うよ
どのくまが一番好き?
うーん、と少しの間唸ってから、右端にいた少し見切れている黄緑色のくまを指さす。
この子!
眠そうな目が可愛らしいと思った。
ちょっと待ってね
そう言うと、秀治郎さんはスケジュール帳の最後のページを開いた。そこには、表紙と同じくまたちがずらりと並んでいた。
黄緑だからコイツか。このシール、使いどころが分からないんだよな
黄緑色のシールを一枚はがし、私の左手の甲に貼ってくれた。
手に貼るとかぶれちゃう
ついこの間、体中にシールを貼って遊んでいたら、かぶれるからやめなさい! と母に怒られた。
それもそうだな……あ、それなら
またリュックの中を探ったかと思うと、取り出したのは先ほどのサクラ式ドロップスの缶だった。
これに貼ろう
えっ、だけどそれはお兄さんの……
いいよいいよ、あげるよ
どうしようかと迷っていたら、秀治郎さんは私の手からシールをはがして缶の底の部分に貼った。人の指がたくさん触れる可能性がある側面に貼るとはがれてしまうと思ったから底に貼ったのだろう。
家に大量にありすぎて全部食べられる気がしないし、その前に飽きると思うから貰ってくれるとありがたい
じゃあ、秀治郎さんがそう言うなら……
私はぎこちない動きで缶を受け取った。
缶をひっくり返して、底の部分に貼ってあるシールを見る。何度見ても、この眠そうな目をしたくまちゃんは可愛いと思う。
実はこの飴、あと二つ持ち歩いているんだ
まさかと思って顔を上げると、確かに彼はリュックの中から二つ缶を取り出して見せた。
どうしてそんなにいっぱい持ってるの?
友だちに会ったときに押し付けようと
秀治郎さんもなかなかひどい人だ。しかし嫌いではない。
お兄さんは、
ん?
小さいときに迷子になったことがある?
ふと思ったことを聞いてみた。
そりゃあるよ! そのときは大号泣しながら交番に駆け込んだ。親とすれ違うといけないから、あんまり動かない方がいいのかもしれないけど。でも、俺の地元よくイノシシが出るんだけど、俺本当にイノシシが怖くてさ。襲われるのは嫌だから、安全なところに行くしかないじゃん?
たまに、イノシシが町に下りてきて人を襲う事故が発生したというニュースを目にする。それを思い出して顔を青くすると、秀治郎さんに笑われた。
葵ちゃんの地元では何か変わった動物は出ないの?
舌の上で、小さくなった飴を転がしながら、数秒間考える。
庭によくリスが出るよ
野生のリス? 動物園にしかいないと思ってた
ついこの間も、リスが電線の上を歩いているのを見た。
私はあんまり好きじゃないの、リス
どうして? 可愛いじゃん
お家で育ててたラグラスをぐちゃぐちゃにされたから
随分とオシャレな名前のものを育ててたんだな……
ラグラスというのは、別名バニーテールと言って、ふっくらとした丸みのある穂が可愛らしい植物である。
一度兄が、猫じゃらしだー! と言って五、六本抜いているのを見て、私はアイツに延髄(えんずい)チョップをお見舞いした。どこをどう見たら猫じゃらしなのか。
まあ、イノシシもよく畑を荒らすし、イノシシよりもリスの方が断然いいだろ。気持ち的に
確かに
それに、リスが人を襲うことなんてほとんどない。
下を向いて手元にある缶を再び見たとき、聞き覚えのある、しかしどこか必死な声が耳に入ってきた。
葵ッ!!
その声に、私は反射的に立ち上がって声のした方に体を向けた。
あの人たちが葵ちゃんのご家族?
秀治郎さんの言葉に、鼻の付け根がツン、と痛くなる。
もう、どこに行ってたのよ!
早く会いたいと思っていた大好きな三人の姿に、私の口角がピクピクと痙攣し出し、視界がぼやけてきた。瞬きを一つすると、両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
お母さんッ!!
一目散に駆け出して、私は両腕を広げていた母の胸に飛び込んだ。
レトロ缶を見つめてニヤニヤしながら回想をしていたら、突然部屋のドアが開かれた。
葵、そろそろお昼――
なんと母だった。
ドアが開いた瞬間、ふわっ、とカレーの香りがしたので、昼食ができたと呼びに来たのだろう。
……何してるの?
えっと、掃除しようと思ったら懐かしいものを見つけて……
一瞬の静寂。
ああ、掃除をしてたのね。あら? あなたノートも掃除したのかしら? すごーい、真っ白!
ごめんなさいごめんなさい
すぐに謝り、昼食を食べるために部屋を出ようとしたが、母に片手で止められてしまった。
今開いてるページの問題をすべて解いてから下りてらっしゃい
えー……
今日のお昼、カレーうどんよ
わああ、急いでやります!
カレーうどんは和菓子の次に好きな食べ物である。
私は慌てて机に向かい、シャーペンを握りしめて問題の一問目に目を通した。
パタン、とドアが閉められる音がした後、私はふと思った。
待てよ? そういえば、今の担任の名前って『しゅうじろう』じゃなかった……?
よく考えてみたら、訛っている口調――十年近く東京に住んでいるらしいが未だに訛っている――とか、何よりもあの優しそうな雰囲気があのお兄さんにどこか似ている。
い、いやまさかね……
あんな物忘れが激しい人が、あのお兄さんのわけがないわ!
……そんなことよりカレーうどん!
首を左右に激しく振り、ノートにシャーペンを走らせた。
床に置きっぱなしにしていた缶を踏みつけて、その痛みにひどく苦しむのは、今からおよそ五分後のことである。