今度の定期テストであんたの平均点が六十点を下回ったら、ケータイ没収するからね!

そんな、現代っ子の私にとって死ぬより辛いことを言い放った母が、私の部屋のドアを思い切り閉めた。バタンッという心臓に悪い音とともに起きた振動のせいで、きっと、隣の部屋に引きこもってヘッドホンで音楽を聴いている兄は、地震が起きたと勘違いしてパニックなっているだろう。

何よ、赤点ではなかったんだからいいじゃない……

誰もいないドアに向かってボソッとつぶやく。しかし、ケータイを没収されるのは非常に困るので、私は不貞腐れた顔をしながらも机に向かった。椅子に浅く座り、背もたれに寄り掛かる。そういえばこの間、そんな座り方をすると腰を痛めるぞ、と学校の先生に注意された。そのせいで自分が痛めたらしい。

ええい、そんなこと知ったこっちゃないわ!

私は英語の参考書を手に取った。適当に真ん中あたりのページを開くと、上の方に『独立分詞構文』と書いてあった。なんじゃそりゃ。

自習用にと半年ほど前に買ったのに、まだ使ったことのなかった新品のノートを開き、表紙に折り目をつける。そして参考書の問題を解こうとシャーペンを握った。

……どうしよう、ちっともやる気が起きない

ケータイを没収されるのは嫌だと、そう強く思っているのに。それなのに全くやる気が出ないとは何事だ。こんなにもやる気が出ないのは、きっと部屋が汚れているせいだろう。思えばかれこれ二週間も掃除をしていない気がする。汚いわけだ。

勉強より掃除が先ね

掃除機を使うと、きっとその音を聞きつけた鬼の母が、勉強しなさい! とまた怒鳴りこんでくるだろうから、あちこちに散らかっている物を片付けるだけにしよう。

まずは、物であふれかえっている机の周りを綺麗にすることにした。しかしどこからどう手を付けたらいいのか分からなかったので、取り敢えず机の下に置いている大きめの箱の中を整理することにした。そして、そこにまたいろいろ詰めていこうと思ったのだ。

ちなみにこの箱は、十一年前、つまり私が幼稚園の年長組――ちなみに月組さん――だったときに、卒園祝いとしておじいちゃんに貰ったランドセルが入っていた箱だ。なかなか丈夫でいい感じの大きさの箱だったので、今は物入れとして使っている。

箱のふたを開けると、私の記憶にはもう残っていない物がぎっしりと詰まっていた。一番上に乗っていた謎のノートを手に取る。

2の3 かわはら あおい

下の方に、ギリギリ解読できる汚い字で私の名前が書かれていた。小学二年生のときの私の字だ。

ああ、確かこれは自由帳だ

ペラッと表紙をめくってみると、一ページ目のど真ん中に、微妙な大きさの未確認生物が描かれていた。身体は長細い楕円形で、白地に黒の斑点が付いている。パッと見チンアナゴだが、なんと美しい脚が四本も生えている。当時の私は何を描きたかったのだろう、と思ったときに見つけた、ノートの下の方に小さく書いてあった『ダルメシアン』の文字に、私は思わずはあ? と言ってしまった。

ほかのページを見る勇気が私にはなかったので、静かにノートを閉じて床に置いた。

箱の奥の方をガサゴソしていると、指先に硬くて冷たい物が当たった。何かと思い、それを掴んで無理やり引き上げる。

うわ、懐かしい

それは、最近あまり見なくなった赤い缶のドロップスだった。いや、実際にはまだスーパーなどにちゃんと売っているのかもしれないけれど、私はずっと家にこもっているからそのあたりのことはよく分からない。ちなみに私はいちご味が好きだった。

だけど、なんでこんなものがここに入っていたんだろう。まさか、中にまだ飴が入っているとか……

試しに振ってみたが、当然中からは何も聞こえてこなかったので空である。溶けて缶にくっついてしまった、とは敢えて考えないでおいた。

缶の底の部分を見てみると、そこにポップな絵柄のくまちゃんのシールが貼ってあった。

あ、これは

思い出した。これは、私がまだ八歳だったときに、家族旅行で行った浅草で出会ったお兄さんに貰ったものだ。もう捨ててしまったのかと思っていたが、まさかこんなところにあったとは。

お兄さん元気かなあ……

自然と自分の頬が緩んでいくのを感じた。

浅草の昔の面影残る街並みが好きな母の、浅草に行こう! という一言で私たち河原一家のその年の夏休みの旅行先が決まった。

しかしその日、みんなで浅草巡りをしていたとき、私は家族とはぐれてしまった。私も母に似て趣のあるものが好きで、それに加えて大の和菓子好きである。すぐ横にあった甘味処の年季の入った木造の建物と薄汚れた白い暖簾に見惚れ、さらにそこから漂ってくる甘い香りに鼻孔をくすぐられ、気づいた時にはその老舗の中にいた。ハッとしてあたりを見回すが、家族に何も言わずに店に入ってしまったからか、どこにも両親と、私と年が三つ離れた兄の姿はなかった。

迷子になったときは、その場から絶対に動くなよ。葵は可愛いから誘拐されたらお父さんが困る!

と、父に言われたのを思い出し、私は店の前にあった木のベンチに座った。それからすぐに、目から涙が溢れ出した。

このまま家に帰れなかったらどうしよう。一生家族に会えなかったらどうしよう。

悪いことばかりが頭をよぎり、さらに涙があふれる。止まらない涙を何度も何度も拭ったせいで、目の下がヒリヒリしてきた。

脳にまで、激しく脈打つ鼓動が響いている。叩きつけるような心臓の音が、私をさらに焦らせた。うるさく鳴いているはずのセミの声さえも、私の耳には入ってこなかった。

お嬢ちゃん、どうかしたのか?

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