汚れと異臭にまみれた男に声をかけたのは、誰だったのか。

奇妙な、女だった

おんな……

 それは、飾り気のない服を身につけた、大人の女性だったという。
 汚れの目立ちにくい、上下の揃い。
 山道を歩くためか、しっかりしたブーツを履き、長い脚をしっかりと大地につけている。
 腰に身につけた小さな鎌と、背中に下げた籠から、山菜などを採りにきたようにも見えた。
 男はそう語った後、小さく、『戦場とは遠い装いだった』と呟いた。

やまみち……ブーツ……さんさい……?

 彼女が、男の言葉をくみとろうと頭をひねる。
 だが……男が語るそれらを、全て理解する必要はないように想えた。

その女性の、なにが奇妙だったのかしら

 戦場からは、遠い装い。
 であれば、何人か想い浮かぶ姿がある。
 この闇の中で、今までに出会った、女性という形達。
 ……だからこそ、男に声をかけたという話に、違和感を覚える。

(この闇を受け入れた光でも、男の威圧感を恐れないことは、できるのだろうか)

 ましてや、かつての世界で、血と傷にまみれた男なのだ。
 この闇の中で、形を照らしている私ですら、ためらっているというのに。

俺は、警戒した

 男もまた、自分の異様さを自覚していたのだろう。
 そして、なぜ女性が男を恐れなかったか、その理由を男はすぐに見抜いたという。

眼を凝らせば、捉えられた。
……厚くなった指先と、引き締まった腕。
それに、まっすぐと立つ両足

 それは、戦場を潜り抜けてきた男だからこそ、わかったことなのかもしれない。

俺と同じ場所を生きるために、必要な部分を引きしめた、人間の形だった

 服に覆われていてもわかる、張りつめられた身体。
 街や城で、安らかに過ごす女性からは感じられない、鍛えあげられた空気。
 その空気が、男の意識と警戒感を、本格的に目覚めさせた。
 軽く声をかけただけなのに、女性の身のこなしは、男の視線を引いたのだから。

――同じ、戦を過ごす者の、臭いがしたのだよ

 だが男の身体は、未だ傷と重みを、残していたという。
 追手か、と、男は考えたという。

おって?

目標を完全に途絶えさせるために……
ずっと、追いかけ続けることだ

ずっと、ですか……?

 不安げにそう問いかける彼女に、男は頷く。
 ――この闇が、ずっと、私達を追ってくる。
 それが、追手、というものに近いのだろうか。

だが、それにしては無造作すぎる。
俺の命が目的なら、あえて声をかける必要もないからな

 追手ではない、と、男は感じていたという。なら、彼女は、なんのために声をかけたのか。
 私の疑問を、男も同様に感じていた。
 改めて、男はしっかりと意識を集中し、こちらを見つめる女性を見返したという。
 今度は、先ほどの眠りこけたような意識のものではなく、かつての戦場を意識した、鋭い瞳で。

にらみつけ、追い払おうとした。
返り血と、長い獣生活のせいで、それだけでも異様さは与えられるはずだった

 獣でもなく、山賊でもない、草木や体液にまみれた姿。
 こびりついた血の異様さと、日々狩り続ける獣の臭い。
 そして、全身に刻まれた幾百もの傷と、どんな者も恐れた破壊者の身体。
 まさに、悪魔のような見た目であっただろうと、男は言う。
 女性もまた、そう見えているはずだと。今までの形達と同じように、男を恐れ、見下げはてようとするのだろうと。
 そう、想っていた、のだが。

『返事しなよ、生きてんならさ』

……だが、あの女は、屈み込んできた。まっすぐに、俺の眼を見るように

 恐れるでもなく、女性はただ自然に距離を詰め、男の目の前で屈んだのだという。

しっかりと、目線を、俺の瞳に合わせてきた。
無言で、返事を期待しているかのように、想わせる仕草でな

 ――そう語る男の眼は、どこか、この闇をさまよっているように見えた。
 先ほどまでの、貫くような強さは、瞳の奥に潜まってしまい。
 逆に、なにかに貫かれるのを避けるような、そんな不安定さを感じさせるものに変化していた。

そう、その目線の合わせ方は、まるで……

 なにかに気づいたように、男はそう言い。

まるで?

……いや

 最後まで言い切ることなく、視線のように、言葉をさまよわせる。
 ――けれど、その言葉の先、視線の先に、誰がいたのか。
 私は、気づいていた。

あの、その女性の方に、ケッツァーさんはなんて答えられたのですか?

 興奮するような口調で、彼女は男へと食い下がる。
 その身も、言葉も、そして視線も。
 まっすぐな視線で、彼の話を待っている。
 まぶしい瞳で、男に怯えることなく、見上げながら。

……俺は、無言のまま、その視線を受け続けた

 男は再び、かつて出会った女性との出会いを、言葉にしていく。
 ――男にとっての、視線という意味を、想い出しながら。

上からか、下からか。
もしくは、恐れるか、欺かれるか。
……俺を恐れる者達の視線を、想い出しながら

 ――視線。自分と、他の形をつなぐ、意志の表れの一つ。
 口で交わす言葉と、身体で表す表現と、また違うつながり。

そんな視線なら、瞳なら、数限りないほどに出会っていた。
そうした瞳しか、向けられたことがなかった

(……同じ瞳は、一つだって、ない)

 この闇の中で照らした瞳も、それは同じ。
 瞳ではなく、形ですら、重なるものは一つもない。

(あの、闇を見るのと同じように、私を見つめる瞳。……そればかりを、向け続け、られたら)

 男の境遇と、自分の今までを想い返し、眼を細める。
 見つめる私の先で、男は逆に、眼の力を抜いていった。

だが、あんな瞳は、始めてだった

 想いかえすように、男はやわらかく呟く。
 ――話の続きを待つ、彼女の瞳を、しっかりと見つめながら。

俺の言葉を、視線を、ただまっすぐに待つ相手。……初めて、出会った存在だった

……その方は、ケッツァーさんを、見つけてくださったのですね

 彼女の、微笑むような顔を見たせいなのか。
 男は、少しだけ視線を外しながら、無言になった。

『恥ずかしがってる、のかねぇ』

……わからないわ

 男の感情も、彼女の喜びも、私には理解できない。
 グリの呟きが正しいのかも、どちらでもいい。
 ――ただ、わからないのだ。
 どうして、男の身体から雫(こぼ)れる光が、少しずつ白さを増していくのか。
 あれほど、周囲の闇と同じに感じられた威圧感が、どこか遠いものに感じられているのか。

(一つの出会いが、そんなに……光を、与えてくれるというの?)

 男の声も、依然低く抑え込んだものだったが、威圧するような鋭さは感じられなくなっていた。
 ――それは、女性の様子を語るほどに、よりよく見えるようになっていた。
 周囲の闇を照らすのは、グリと彼女の光だけでは、もうない。
 ……本当に、かすかだけれど。

俺は、ただ女を見つめ続けた。その時の俺は、近づく者はみな敵だと、そう想っていたからな

 語らない男に、女性は、また改めて同じ調子で問いかけてきたそうだ。

『あんた、誰だい?』

そう、あの女が聞いてきた

 身を屈め、より近くになった、女性の姿。
 まっすぐに男を見つめてくる様子に、男は戸惑いながら、どこか胸をくすぐられるような心地を感じたのだという。

……すごい方なのですね。
見ているだけで、ケッツァーさんのお心まで、触れてしまうなんて

 彼女の言葉に、男はかすかに微笑んで、先ほどの問いかけの答えを告げた。
 女が問いかけた、『お前は誰か』という、問いかけに対して。

俺は、神か悪魔、そのどちらかだと答えた

かみか、あくま、ですか? ケッツァーさん、ではなく?

女が問いかけたのは、俺の名前ではない。
何者であるか、だ

何者で、あるか……ですか?

……そう、言葉をとらえた。
なぜなら俺には、名前より、その力こそが求められる理由だったからだ

 そう語る男の言葉を、私は考える。

(名前や呼び名が、かつての世界では、その形がなにであるかを決めていた。……でも、それ以上に、男にとっては力こそが全てだった)

 その身の威圧感とともに、男は、自分が異端であると語ったのだろうか。

気づくと感じていた。
女の身のこなしは、俺と同じ戦場を生きるものと、似た匂いがしたからな

 男は、敏捷な気配を漂わせる女性なら、その意味に気づくと考えたという。


 ――周辺の国々に、鳴り響いたであろう噂。
 ――不安定な、人同士の戦い。
 ――その中に、突如として現れた、人ではない化け物。
 ――目の前の、明らかに普通でない、血と危険な臭いにまみれた男。
 ――その口が語る、神と悪魔という単語が含む意味。
 ――男がなんであり、今まで、何をしてきたのか。
 ――おそらく、女性はそれを知る者だった。


 男は、確信していたと、そう語る。
 身をかがめて覗きこむために、女性はより接近していた。
 動けぬ男の視線にも、より深く、その姿は映し出されていた。
 観察し、刻まれた傷や絞られた筋肉から、男は判断が間違っていないことを確信したという。

だからこそ、俺は……排除されることも、考えた

はいじょ……なぜ、ですか?

危険なだけの存在なら、動けぬなら、消してしまうが安全だろう?

そんな、ことは……!

――では、この闇に眠るモノが襲ってきても、お前は話し続けることができるのか?

そ、れは……

 ためらう彼女は、正直だ。
 ――話し合いにすらならない存在は、この闇の中に、出会った光以上にいるはずなのだから。

それで、あなたは排除されたのかしら

 死には、しないのでしょうけれど。
 そんなことを考えながら問いかけた私に、男は、彼女から視線をそらさずに答える。

……考えたよ。
どの部位が動くのか。
それとも、なすがままになるべきか

 今度は、どんな責め苦を受けるのか。
 もしくは、王の軍勢に引き渡されるのか。敵方に、差し出されるのか。
 それほどまでに男は、戦場で一目その姿を見たものから、恐れ恨まれる存在であったという。

どうなってもよかったのだ。
そう、どうなっても

 男が漏らした冷たい言葉の答えは、しかし、同じ口から否定された。

すると、あの女……どうしたと想う?

 小さく、しかし楽しそうな、笑い声と共に。
 同じように、笑いながら話しかけられたと、男は言うのだった。

『受け答えできるんじゃ、人だね。こんなに汚れて、大変だったねぇ』

 女性の言葉を語りながら、髪の毛をかきあげる。

当たり前のように、ごく自然に、女は俺の髪へと触れてきたよ

 腕の陰へと顔を隠したように見えるのは、私の、気のせいなのだろうか。
 太い腕の横から見える、かすかに照らされる瞳。
 その瞳の奥は、髪をかきあげながら、女性が触れた時を想い出しているのだろうか。

ほええ……。それからお二人は、ケッツァーさんは、どうされたんですか?

どうもしなかった

はえ?
それは、どうしてですか

女の言葉の意味が、俺には、わからなかったからな

(……自分を襲うかもしれない存在を、恐れず、触れあおうとする)

 ――横目で、不思議そうな彼女を眺める。
 眼の前の男は、彼女にとっても、女性にとっても、恐れる前に触れあおうとする存在ということだろう。

(私には、わからないけれど)

 男もまた、その点に関しては、私と同じようだった。

少なくとも、驚いてはいたのかもしれない

 だが、と男は言ってから、女性の言葉を続けた。
 もっと驚いたのは、次に問われた質問だと、先に言ってから。

『アタシが聞いたのは、あんたの名前だよ』

『で、なんて言うんだい?』

……そこでようやく、俺は、自分の名前を想い出したのだ

 そうして男は、自分の名前を答えた。
 人と、人ならざる存在の間に生まれた、男を識別するだけの単語。
 ――自らが呟くことはなかった、ケッツァーという名前を。

『ケッツァーね。なるほど、いい響きじゃないか』

 一人頷(うなず)く女性の反応に、男はずっと戸惑ったままだったという。

だいじょうぶ、だったんですね

 男と女性の関係を聞きながら、そこで、彼女は息を吐く。
 喜ぶような、期待するような、彼女の声。
 ――なぜか、男の語る女性の姿と声に、彼女のその様子が重なって見えた。

(顔も、形も、声も。なにも、わからないのに)

 その女性は、男にとって、予想できない振る舞いをする存在のようだった。

髪を触れられ、傷ついた姿をさらしながら、俺は身動きをしなかった。
驚いていたのもあったが、なぜか、その微笑みに……動く力を、なくしていた。
そしてそれが、嫌ではなかったのだ

 だからこそ、過去の世界を振り返りながらも、その女性を語る時だけ柔らかい感触なのかもしれない。

自分のこと、なのにな。
初めて、自分の考えというやつが、わからなくなったよ

 そして、ゆっくりと。
 今の男の目線で、感覚で、当時のことを語りだす。

 ――まるで、つかみきれないような。
 ――もしかすると、触れれば壊してしまうような。
 ――自分と対等の目線で語る存在を、どうしたらいいのか、わからない。

まるで、初心の小僧のようだな。
だが……悪い心地では、なかった

 男のそんな戸惑いを無視して、女性は、さらに踏み込んできたそうだ。
 髪を触り、肌に触れ、全身を見回して。

くくっ……

 そこまで言って、男は――可笑しそうに笑った。

そうして、俺に触れた女。
なんて、言ったと想う?

 そんなもの、わかるわけがない。
 彼女も、特に言葉を発しない。
 男の答えを、待っているのだろうか。
 ほとんど間をおかず、男は、楽しそうに答えを口にした。
 今までの男からは想像もできない、どこか脳天気な答えを。

『あっ、こりゃイケないね。風呂に入れて、メシ食わせないと』

ほえ?

はっ?

 ふざけたような言い方に、変に高い声。
 その、今までの男のイメージとあまりにも違う言い方に、私達二人は小さく驚きの声を発してしまった。

(フロに、メシ。それは、ええと……)

あの、メシって、口から食べるっていうもののことですか?

 彼女の言葉に、男は頷(うなず)く。

そう、食事のことだ。
……そう聞いて、しばらく、空腹であることも想い出した

 メシ。ご飯。食事。
 それは、かつての世界に存在する者達が、等しく必要とした燃料のことのようだった。
 口から採るらしいそれは、かつての世界で、必ず必要とされていたものらしい。
 ある形は表情をゆるめて、違う形は絶叫するように求め、他の形は興味がないと言いながらも必要として。
 不思議なのは、語る者によって言葉の装飾が多くて、一つの形や言葉にならないことだった。

(同じ単語でも、語られる情報が、ぜんぜん違っていた)

 だから私には、未だに、実態がつかめない。

(……それでも。なにかしらの光と想いは、誰もが持っていた)

 種々様々に語られる、食事の形。
 それをとりまく思い出と話題は、語る形達にとって、印象深い記憶であるようだった。

『メシかぁ。不思議だねぇ、そう聞くと腹が空くような気分になっちまうのはなぁ』

 グリもかつては、それらを燃料としていたことがあるのだろう。
 かつての世界で、それは前に進むために欠かせないものだったと、懐かしむように語っていたこともある。

(グリは、言ったわ。それがなくなることは、この世界で、光が亡くなることに等しいって)

 ――それを探し求めながら、手に入れられず。
 ――光の形を失い、闇にのまれてしまった存在がいたことを、想い出す。

 ――老人のような肌をした少年は、私の眼の前で。
 ――乾いた息と食事を求める呻きだけを残し、消えていった。

不思議な、感覚だった

 男の屈強さは、あの少年の乾いた輝きとは、真逆のもの。
 ……それは、神か悪魔の力ゆえか。それとも、他の要因があってのものか。

ふしぎって、どういうことがですか?

あれほど、拒絶されていた他者の眼。
それがなくなれば、わからなくなるものなのだと、感じたのだ

 男の返答を、私は上手く理解することができなかった。
 それは、彼女も同じだったようで。

他の方の、眼……?
わからなく、ですか?

……いったい、なんの話かしら

 私達二人の問いかけに、男は、開いた自分の掌を見つめながら、ぼんやりと呟いた。

俺が、何であるのか、だよ

何で、あるのか?

 問いかけたのは、私で。
 そして、気弱な男の様子に、何を言いたいのか察してしまう。
 だから……ざわついた気持ちを、抑えることができなくて。

(わからなくなるなんて、ありえない)

 私は独り、男の言葉に反発していた。
 そんなことを、言うはずがない。
 そう想っていた男だから、それゆえに、私はその言葉に頷くわけにはいかなかった。

 ――だって私は、わからなくなっていない。
 ――グリと、ただ前へ進み続けると、誓って歩き出したから。
 ――男のように、孤独への道へ、追いこまれたわけじゃない。

(私は、グリは、自分で――聞かない道を、選んだのに)

 ――私の名は。
 ――進むべき、道は……。

『セリン、手ぇ、イテぇ』

ぁ……

 小さく響くグリの声に、息を漏らす。
 硬く握りしめられた指先は、本当に痛かったのだろうと、申し訳ない気持ちにもなるのだけれど。

(全然、気づかなかった)

 私は……私も、彼女と、同じなのだろうか。
 男になにを期待し、ここまで、耳を傾けてしまっているのだろう。

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