瞳は未だ、潤んだまま。
 それでも、力強い怯まぬ視線で、彼女は男へと言葉をかける。
 お話の再開を、また、望もうとしている。
 ……だから、私は。

話は終わったはずよ。
あなたの聞きたかった、お話は、もう終わったのよ

 私はあえて、終わりだという言葉を、二度続けた。
 なのに、彼女の瞳は、ゆらがない。

セリン、ごめんなさい。もう少し、もう少しだけですから

いい加減に……

お嬢ちゃん。もう、話は終わった。……そっちの嬢ちゃんの、言うとおりだ

 男は、私の言葉を引き取るように、そう答えた。
 間にいる私にも、話をすべき男にも、彼女の願いはさえぎられた。

(……そう。聞きだすことは、眠っていた光は、もうない)

 男の光は、先ほどまでと変わらない。――明るくも暗くも、なっていない。
 まるで、もう、それ以上に灯すべき光が、ないとでも言うかのように。

(残ったその形だけは……まだ、光っている)

 私とグリが見つめているのは、その形が、どれだけの光を灯せるかだ。

……ケッツァーさんは

 彼女は、小さく男の名前を呼び。

誰かに、教えてほしかったんですね。ケッツァーさんが、ケッツァーさんとして、見てもらえるってことを

 もう一度口を開き。

……えっ?

なに?

 そして――私達が、理解できないことを、言葉で告げた。

(教えて、ほしい……?)

 彼女がなにを言っているのか、瞬時には理解できなくて。
 そしてそれは、言葉を向けられたはずの男も、同じだったようで。

俺が、誰かに、なにを……?

 四つの瞳を受けて、彼女は、空いた手を胸元に添わせる。
 なにか、大事なものが、そこにある。
 そう感じさせるように、小さな手を、しっかりと握りしめながら。

ケッツァーさんとしての、心を聞いてくれる。ケッツァーさんを、同じ目線で見つめてくれる。そんな人を、探していたんですね

お前は、なにを言っている

リン、初めて見た時から、ずっと想っていたんです

 すっと、彼女は大事なものを握った手を開き、男の方へと差し出す。
 それから、開いた手を大きく横へ動かして、視線もまた同時にそわせる。
 闇の中へ案内するようなその行為は、でも、全然違った意味を持っていた。

ケッツァーさん、まず、周りを見てました。誰かを探すみたいに

 やわらかい笑みと、人の手のような暖かい言葉。

……その方が、ケッツァーさんを、見てくれる人なんですよね

 彼女の言葉に、私は、頭が痛くなる。
 歯も、指も、力を入れすぎて……ふるえてしまう。

『気持ちはわかるがよぉ、セリン。身体に悪いから、力、ぬけよぉ』

 グリの声は、もしグリに手があれば、包み込んでくれそうなくらい穏やかなものだった。
 ……でも、私の心にまで発生したふるえには、一つのため息をするくらいの安らぎしか与えられない。

(――愚か、だわ。ここまで、なんて)

 あの、周囲を威圧するために備わった、重苦しい瞳。
 その瞳と連動した、容易には止められない身体から発せられる、黒い輝き。

(わからないの。わかっているの。……それとも、おかしくなっているの)

 私だって、気づいている。
 最初、彼女に向けて、男が拳を打ち込もうとした時。その後、周囲の状況を探った時。
 男は、現状を把握しようとしていた。合わせて、私達がなんであるか、この闇がなんなのか、知ろうとしていた。
 ――壮絶な男の過去を知った今なら、誰かを探していたのなら、わかるだろう。

(誰かを探していたのなら、それは、敵)

 男の話を信じるなら、味方を探すとは考えにくい。
 ……味方や親しい者という感覚を、男は、知っていないのだろうから。
 だから、男が視線を走らせたのは、周囲の観察と現状認識のためだ。
 ――それ以外の、なにがあるというのだろう。

一瞬、だけですけれど……とても、とても、寂しそうなお顔をされていたと、想うんです

 なのに、気づいているのか、いないのか。
 そうして彼女は、また、話を引き延ばそうとする。
 男に対して、なんの根拠もつながりもない、誰かの話を語りかける。
 ――それは、彼女が望んでいるだけの、理想にすぎないというのに。

あなた、いい加減に……

 止めなさい、そう口を挟もうとした時だった。

……やめろ

(……っ!?)

 先ほどよりも強く、そして低い、しぼりだすような声。
 ――静止する男の表情は、先ほどより、視線が細く険しい。

そんな存在、俺にはいない

 打ち切るような鋭い声音に、私は想わず、言葉を消してしまった。
 ……私の、理想を打ち消そうとする言葉よりも、ずっと重く聞こえる響き。

(どういう、こと?)

 男の話を聞きながら、私は、常に警戒していた。
 張りつめた筋肉の動きも、笑いながらも射抜くような視線も、どんなに感情的になっても安定した吐息も。
 ずっと、観察していたから、わかるのだ。
 ――その響きが、今までに見せた感情的なものとは、明らかに違うものだと。

(……嘘を、ついている? 彼女の言うことは、まさか)

 動揺。男の様子は、おそらく、始めて見せたその言葉なのだと想う。
 彼女の語る、夢物語。自分が願っている、妄想の側面。
 そう、私は想っていた。
 なのに男は、明らかに、揺らいでいる。彼女の語った、わずかな、誰かの話に。
 ――動揺しているのは、彼女の言葉を予想できなかった、私もだけれど。

あの、ずっと、独りだと辛いこと……リンには、わからないかもしれないのですけれど

独りだと……辛い、だと?

 彼女の言葉に、男は疑うような声をあげた。
 続けて、私と彼女の顔を交互に見ながら、断言するように言う。

お前達も、独りのようなものではないのか

 その言葉に、私と彼女は、一瞬だけ視線を交わす。

状況判断と、お前達の考え方から、ずっと二人でいるような組み合わせには想えなかったのでな

そうね

これからは、セリンともお話ししたいんですけれどね♪

 さっと切り捨てる私と、なぜか声を弾ませる彼女。
 ……無視よ、無視。

それに、ですね

 嬉しそうな声はそのままに、彼女は右手を差し伸ばす。
 手元の光を掲げながら、満面の笑みを浮かべながら、彼女は光へと語りかける。

リンには、スーさんがいてくれましたから

 その光へと目配せする瞳は、柔らかい。
 ……大切なものを見る、瞳の輝き。

(まるで、彼女自身も、輝いていると間違ってしまいそうなくらいの……)

 そんなことは、ありえないのだけれど。
 私も彼女も、グリやスーの光がなければ、形を保つことすらできないのだから。

だから、ですね。
リン、ずっとお話を聞きながら、想っていたんです。
ケッツァーさんにも、誰かいてくれればって。
リンにとってのスーさん、
セリンにとってのグリさん、
そんな大切な存在が

……願望か。お前の想いを、勝手に俺に託しているのか

いえ、違います

なにが、違うというのだ

 話を避けようとしているのか、それとも不快なのか。
 男はどこか、苛立っているように見えた。
 そんな男の姿に、気づいているのかいないのか。
 彼女は、ただまっすぐに男の姿を見つめ、語りかけ続ける。
 その手元にある光と共に、自分の感じた想いを言葉にして、違う側面を照らし出そうとしている。

ケッツァーさんのお話。
本当に、その、お辛いだけの世界だったなら……
リン達のことも、たぶん、同じに見えるかなって

同じに見える、だと

 はい、と彼女は頷き、空いた手もとで光を抑えた。
 光が手で遮られたことにより、少しだけ、周囲の闇が深まる。

リン、始めの頃は、眼がいっぱい闇でした。
同じ色がずっと、ずっと、あって。
なにもかも、一緒に見えてました

『……懐かしいなぁ、セリン。お前さんも、そんな頃があったなぁ』

 懐かしさにふけるグリの声は、私の中だけで止めておく。
 ……でも、確かに、あの頃はなにもかもが同じに見えた。

でも、スーさんがいてくれて。
スーさんが照らしてくれた方達が、たくさんのことを教えてくれて

 語るたび、想い出すたびに、彼女の声は嬉しさに満ちていく。
 ……そのなかに、そうでない光も形もあったのに、それを感じさせない響きを持って。

だから、リンは想うんです。
リンも、セリンも、かつての世界も、ケッツァーさんはちゃんとわかってました。
……誰かと、光を暖めあったんだなって。
そう、想ったんです

……状況判断にすぎぬよ

 男は、苛立ちを漏らす言葉で、彼女の言葉を否定しようとする。
 でも、どうしてか。……それが、飾りに近いものだと、私にはわかってしまっていた。

一度眠って、起きた後だ。
何度も倒れ、目覚めた時と一緒だ。
……それに、この闇の深さを前に、状況判断も必要だった。
それだけのことだ

あのあの!

 否定されているはずなのに、彼女の言葉は止まらない。
 先ほどまでの、男の話に胸を苦しめている姿とは、まるで違う。
 ――確信を持った答えを知るように、彼女は、男へと微笑み続ける。

拳を止められた時、眼を凝らされましたよね。なにか、じっと、確認するみたいに

……何者なのかを判断するのは、当たり前のことだ

はい。
だから、リンは違いました。
想いだしたんです

なんだと……?

王さんや、その周りの方達とも、今は違うと想っているんです。
だって、リンの顔を見た時……
ケッツァーさん、すごく寂しそうな瞳を、されていましたから

……っ!

 男の息が、少しだけ、止まるのがわかった。

その瞳を見て、リンは、想ったんです。――お話してみたい、どんな光を持っていらっしゃるんだろう、って

そんな眼は、していない

 ただ否定をするだけのために、言葉をひねりだす。
 そう想えてしまうような反応を、男は彼女へと向ける。

俺の眼に映る、動く影は……全て、同じモノでしかない。ただ、破壊するための……

リンは、お話を聞いていて、想ったんです。
もしかして、探していたのは……寂しい瞳をされた、その方なんじゃないのかなって

……そんな、瞳など……

 ――かみ合わない、彼女と男の、言葉のやりとり。
 一方的に、彼女が自分の信じた考え――妄想、か――を、語っているように見えなくもない。
 だが、奇妙なのは、その妄想に付き合わされている男の様子だった。

(まるで、その妄想を……そうでないと、したがっているみたい)

 言うならば……逆に、そうであるからこそ、否定したがっているようにも見えてしまう。
 偽りであれば、聞く価値などない。
 笑い流すか、怒り飛ばすか、少なくともまともに相手をする必要はないだろう。
 なのに、先ほどから男が彼女へ語る言葉は、どこか、言い聞かせるような苦みを感じさせる。
 重ならないやりとりで、先に言葉を変えたのは、男の方だった。

……お前には、誰か、いるというのか。この、闇の先に

リンには、スーさんがいてくれますから♪

 力強く微笑む彼女とは真逆に、男の顔が、少し強張る。

……物を支えにするのは、俺の世界でも、いなかったわけではないが

はえ?

そんな灯りにすがらねばならぬほど、この闇を、歩いてきたのか

えっ、だからですね、スーさんはリンと一緒に歩いてくれてまして……!

 慌てながら説明をする彼女の横で、私は、今更ながらのことに気づく。
 男も、私達の全てを、見抜いているわけではないことを。

(……そうか)

 男には説明したつもりだったが、私達と光の関係は、誤解されたままだったようだ。
 グリも、彼女の光も、私達に知識を与え、この闇の中を進む支えとなってくれている。
 むしろ……彼らの光なしでは、私達は、"自分の形を保つ"ことすらできない。

(……支えどころか、命ですら、あるのかもしれない)

 そして、その命を支えるために、私達がしていることは……。

あの、あのですね

この子も、私も、それが当たり前だったのよ

ぬ……?

この光には、意志がある。だから、すがっているのは、その通り

 すがらなければ私達は、形も考えも、何一つ保つことすらできない。

でも、その当たり前と、あなたの当たり前。一緒のはずが、ないものね

 ――知らず私は、胸の内の感情に従って、自分でもわからない言葉を口にし始めていた。

セリン……?

 不安そうな彼女と、眉を寄せる男。

(……私だけが、わかってない、みたいな顔ね)

 かつての世界で、ずっと、光と闇の狭間をさまよっていた男。
 何にも支えられず、支えることもできず、ただ破壊することだけを望まれた存在。

だから、あなたの当たり前が、どれだけ辛かったとしても……私達に、理解できるはずがない

 私達は……いや、私は、ただ進んできた。
 数限りない、あらゆる光の形と出会い、その力を取り込んで……今、ここにいる。

――言葉と会話は、混ざり合って、伝わっている様なのに、そうじゃない。
意味なんて、ない。
この、光と闇のようなもの

 ――あぁ。どうして私は、こんなことを、口にしている?

あなたがしてきたように、この闇を照らすなら、光がいる

 ――そして、その光に必要なものは、いったい、なんだ?

……どちらかが、残るとしても

 ――私は、男と、同じだ。ただ、進んできたのだ。

そのために、言葉と会話を交わすなんて……不純でしか、ないのよ

 ――有無を言わさず、形になる前に、その光を喰らいながら。

だから……もう、わかるでしょう。この会話に、意味なんて、ないということが

(それが、自分が進むための、方法だと想って)

 私の、一気に吐き出すような言葉。
 それを聞いて、彼女は大きく口を開き、叫ぶ。

セリン、どうして、どうしてそんなことを言うんですか!?

 闇に響く声は、私の低くどろりとしたものと違い、まるで耳の奥がすっきりするような綺麗さに満ちている。
 ――光。かつての世界を、この闇の世界を、より鮮やかに見せる暖かいもの。
 グリや、スーと呼ばれる光が、もし言葉になったのなら。
 こうした、どこか白に似た心地をさせてくれるものなのだろうか。

言ったとおりよ。あなたも、わかっているでしょう。結局、全ては、この光か闇に――

グリさんとの会話も、そう感じて、おられるんですか……!?

……っ!

 そう問われ、私は、想わずふるえてしまった。
 らしくもなく、息も乱れた。

(グリ……っ)

 問いかけたい。ずっと、一緒に進んできた彼に、答えてほしい。
 けれど、口を開くことは、できなかった。
 怒るように私を見つめ、答えを待つ彼女から、視線を外すことができないからだろうか。
 それとも、男への警戒をなくしてはいけないという想いが、まだどこかにあったからなのか。
 ……グリは、答えない。いつもなら、軽い軽口と共に、私を慰めてくれるのに。

(答えてくれないのは、確かに、辛いものね)

 沈黙するグリと、まっすぐな瞳の彼女に、挟まれた私。
 目元と口元を強く引き締め、ただ、弾くように見つめ返す。
 そんな私の耳元に、聞こえてきた言葉は。

……そっちの嬢ちゃんが言う方が、正しい現状認識だろう

ケッツァーさん……

俺は、同じ世界に住んでいた者達にすら、疎まれていたのだから

でもそれは、ケッツァーさんがそうなろうとしたからじゃ、ありませんよね?

……この闇の世界でも、同じだ。ただ、同じ眼差しを受け、お嬢ちゃん達の恐怖となればいいだけのこと

 あくまで男は、先ほどまでの威圧感を、かつての世界の恐怖を、表そうとする。
 けれど――それがもう、揺らいでいるのを、私ですら見抜けてしまう。

そんなに、悲しい瞳をされているのにですか?

……

――この闇とケッツァーさんは、リン、似ていないと想います

 彼女の言葉に、男の口から小さな声が漏れる。
 眉を寄せたその変化と合わせると、戸惑っている、のかもしれない。

恐がれとか、逃げろだとか、不思議です。
本当に、ケッツァーさんが、この闇と一緒なら……
リン達のことを、そこまで考えてくれないと、想いますから

 彼女のその言葉に、男は、表情を完全に失った。

ケッツァーさんは、悪魔でも闇でもなくて、ケッツァーさんなのです。
ですから……ケッツァーさんとしてのことを、否定しないでほしいのです

……ふふっ

 男は小さく笑い、全身の緊張感を、完全に失った。
 両肩を落としたその姿は、寂しささえ感じる変化だった。

あいつと同じようなことを、お嬢ちゃんは言うんだな

 ふっと、今までの男にはなかった弱々しさをまとい、男は奇妙な言葉を口にした。

あいつ、さん?

……っ!

 あからさまに眼を泳がせ、困ったように顔をしかめる男。

……あの、もし本当にお嫌でしたら、これ以上は

 今更のように彼女は、そんな言葉を言い始める。
 彼女の忘れてほしくないという願いが、男に満ちたことを、わかったからだろう。

(けれど。その形までを、語る必要はない)

 言い逃れもできるし、そもそも、話す必要など最初から男には存在しない。

 ――私が、男を燃料としか見ないように。
 ――男も、私達を敵とだけ、見ればいいこと。
 ――なのに。

……恨みは、あの戦場で、消えたのだ

あの、戦場?

 そこから、男は……隠していた感情を、より深く吐き出し始めた。
 私には、そう、見えた。
 ――なぜなら。
 その身からわき上がる、闇に似た黒さを交えた、鈍い光。
 次第にその中から、より透き通った光をこぼし始めたのが、見えたからだ。

あの戦場……俺が、王に派遣され、終わりを願われた戦場だ

 男が語る戦場は、彼が死を望まれた場所。
 王の国の行く末を決める、最大の決戦が行われた時のことだという。

さっきも言ったとおり、途中から俺は、戦意を喪失していた。
次第に俺の動きは止められ、その隙に新たな刃を身体に打ち込まれ、最後には奴らの前で倒れていた

 敵国の者達も、男の武勇伝は伝え聞いていたのか。
 それとも、その姿を見ただけで、普通の者ではないと感じたのか。

俺の身体は串刺しにされ、そのまま、見捨てられていた。
……蘇ったことは、嘘ではない。
だが、やつらに死んだと想わせるほど、朽ちてもいたのだ

 敵国の者達は、その後どうしたのか、男は記憶にないと言う。
 ――全身にそれだけの傷を受け、敵にも捨てられるほどの状態であれば、記憶のある方が恐ろしい。

その中でも、俺はやはり、身体を再生された。……このあたりは、さっき話したな

あの、ケッツァーさんは、それからなにをされたのですか

……このまま、消えてしまおうかと。そう、感じていたのだがな

 幾多の死体の山のなか、むせ返るような血の臭いと熱気に包まれ、男の意識はまどろんでいたという。
 だがその身体は、無意識に、朱い色をまとわりつかせながら、動き出していたのだという。

我がことながら、恐ろしき生命力だ

――あなたはその後、王の国へ向かったのではないの?

 気になるのは、ここから先のことだ。
 ついさっき聞いた話では、ここからの男の行動には、光が指す印象を受けなかった。
 ただ、かつての世界への怒りのままに、全てを破壊し尽くす。
 ――彼女の語る、大切な誰かがいただなんて、想像する隙間もない。

(では、そこから……なにが、あったの)

……わきあがった感情は、あった

 胸元に手を当てる男の様子は、淡い光を増すほどに、なぜか弱さも感じさせる。

だが、それは黒ではなく、むしろ……灰色と呼べるようなものだった

はい、いろ……

王の国へは、向かわなかった。
俺の身体と無意識は、ただ、人眼のない場所を探して、さまよい始めていた

 ――そこからの男の生活は、先ほどまでのように見張られている生活とは、真逆のものになったようだった。
 倒れた人の海を抜け、鬱蒼とした森の匂いを嗅ぎ、川の水で汚れを落とし、人里離れた山を潜り抜け、襲ってきた人や獣を打ち返しながら、餓えと乾きだけを満たす。
 男の生活は、ただ生きるというだけを求める、獣のような存在になっていったのだという。

『獣かぁ。まぁ、生きてるって意味では、さっきの話よりもよっぽど自由に想えるがねぇ』

 グリの呟きは、私には今一つわからない。
 獣のような生活というものが、感覚としてわからないからだ。

(ただ、形を保つため、必要なものを求める。光を、形を保つために、奪うように)

 ……なら、私は、闇にさまようナニカと同じ、獣と言えるのだろうか。

ケッツァーさんは、それからずっと、そうされていたのですか

いや。……再生されながらも、俺の身体の奥深くは、悲鳴を上げていたのだ

 戦場から無意識で逃れたのは、身体が指示したのかもしれない。男は、他人事のようにそう語る。
 傷は次第に深く広がり、ついに男は、さまようこともできなくなったという。

森の中でその身を横たえ、いつ途切れるかわからない意識で、周囲を眺めていた

 どれほど、そうしていたのか。
 薄れる意識の中で、死ぬことも生きることも、曖昧なまま。
 男は、ただ、穏やかな世界を見つめていた。

このまま、消えることができるのか。そう、ぼんやりと、想っていた時だった

『……あんた、生きてるのかい』

あの女が、そう、俺に語りかけてきたのは

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