必死だった。
急流に流されていく妹に私は何とか追いつき、渦巻く水の中を岸へ目指して懸命に歩いた。
妹を背負いながら岸までたどり着けたのは奇跡だったと思う。
岸に上がった私は、名前を叫びながら妹の肩を強く叩いた。
しかし、妹の顔は青ざめたままで、その口の沈黙が破られることはなかった。
――まずい。
私はこの時初めて気づいた。
――~~ココロッ!
必死だった。
急流に流されていく妹に私は何とか追いつき、渦巻く水の中を岸へ目指して懸命に歩いた。
妹を背負いながら岸までたどり着けたのは奇跡だったと思う。
岸に上がった私は、名前を叫びながら妹の肩を強く叩いた。
しかし、妹の顔は青ざめたままで、その口の沈黙が破られることはなかった。
――まずい。
私はこの時初めて気づいた。
もしかして私には、ココロが生きていることを確認する手段が無いんじゃないか?
人間が生きていることを確認するのは本来、至極簡単なことだ。
気道を確保した際に息をしているかどうか。
胸に耳を当てた時に心音が聞こえるかどうか。
動脈部に指を当てた時に脈があるかどうか。
相手に意識があるならば、痛覚に反応があるかどうか。
瞼を開けた時に瞳孔が閉じているかどうか。
他にもたくさんあるだろうが、医学の知識を持たない人間に確認できることはこれくらいだろう。
いずれも聴覚、視覚、触覚が重要であり、特に心肺機能が視覚や聴覚で確認できないほど衰弱した相手に対して重要となるのは、言わずもがな触覚だろう。
そして、今の私には――
触覚が、無い。
だから、私には妹の脈も確認できないし、微弱に感じられるはずの妹の体温も測ることもできない。
私には、妹の命を確認する手段が無い。
――嫌だ! 逝かないでくれ!
妹の、私よりも大きい胸に耳を押し当てる。
心音も呼吸音も確認できなかった。
妹の整った顔を持ち上げて気道を確保する。
呼吸の再開は確認できなかった。
こんな状態で本当に心臓マッサージをしていいんだろうか。
本当に妹の呼吸は止まっているんだろうか?
本当に妹の心臓は止まっているんだろうか?
心臓マッサージをすることで、逆効果を与えたりしないか?
もし、私がそれをすることで、妹にとどめを刺すようなことがあったら――
どうしたらいい。
……どうしたら私はココロを助けられる。
答えは分かっている。
私の触覚がもとに戻れば、私は妹の状態を正確に把握できて、妹を助けることができる。
ただしそれは、諸刃の剣だ。
私に痛覚が戻る。
そうなれば私はきっとただでは済まない。
どれだけ長い間川の中に居たと思ってる。
橋の上に靴を置いてから、どれだけの距離を素足で歩いたと思ってるんだ。
見たら分かる。
私の四肢はもうズタズタだ。
手先はありえないほど真っ赤に霜焼けしているし、足先はいたるところが擦り切れている。
幸いにも冷却されているせいか出血自体は少ないけれど、とてもじゃないが歩ける状態じゃない。
ここで感覚が戻ったとして、私は家までの距離を歩けないんじゃないか?
そうしたら、本末転倒だ。
そうするくらいなら、妹は生きていると決めつけてこのまま歩いた方がいくらかましだ。
生きていてさえくれるならば――
だけど、もし心臓が止まっているならば、私がここで適切な処理をしなければ手遅れになってしまう。
家までたどり着けたとして、そこに妹はもういない。
あるのは妹の身体だった何かと、それを抱える姉だった私――
――それだけは、だめだ。
――覚悟を決めろ。
感覚が戻った後のことは、その後の私が頑張ればいい。
今は感覚を戻すことに集中するんだ。
私が感覚を失ったのは、私が逃げてしまったからだ。
何からか? 決まっている。
現実を直視することからだ。
あの日、暑い教室でクラスメイトに詰め寄られ、私は自身の居場所とともに、存在意義である自らの心を切り捨てた。
それは心を可能な限り現実から遠ざけ、傷つく事象を直接心に取り入れないようにするための自衛の策だったのだと思う。
物事を大切だと思わなければ、自分が居て当然だという場所を作らなければ、意にそぐわない結果を得たとしてもダメージを受けることはないから。
けれど、その後、私は自らをもう一度愛することができるように、いろいろなことに手を出すことにした。
絵に力を入れたのもそうだが、東京に足蹴く通っては同人活動に力を入れていたのもそうだ。
まずは、自身の居場所を適切な場所に、自分自身の手でもう一度作りたかった。
たとえ裏切られたとしても、それでも大切にしたいと思える特別な場所を作りたかったのだ。
私にとってそれが絵だった。
けれど、私はまた裏切られたのだ。
ある日、両親が二人とも出張になった。
珍しいこともあるもんだと思いながらも、私は居間でいつも通りに、思うままに絵を描いていた。
紙の上に描き出されていくオリジナルキャラクターの数々を自画自賛し、自信を着々と身につける実感を得ながらさらさらと描き進めていくと、妹がひょっこりとやってきた。
未来姉さん、私も描いていい?
……良いよ
断る理由もなかったので、適当に返事をしてしばらく。
妹が描き上げた絵を見て私は衝撃を受けた。
ああ、私は妹に――
ああ……絵でも敵わないんだ
なにも現状の絵のレベルで負けたとまでは思わなかった。
妹の描く絵と私の描く絵の種類が違うことくらい、私にも分かっていた。
それらが比べるべきものじゃないことくらい、分かっていたんだ。
けれど、そのレベルに至るまでにかかった時間の差に対して私は敵わない、と思った。
目の前の妹は、私がここまで描けるようになるまでにどれだけの時間と労力をかけたと思っているのだろうか。
それを説明したとしても、天才の妹はそれを理解してくれないだろうな、と思った。
思えばずっと妹の存在がコンプレックスだった。
妹が持つものと比べて、いかに自分が持っていないかを自覚しては落ち込んでいた。
妹の存在を確認してからずっと、私はそうやってコンプレックスを抱え続けてきた。
それが再発しただけだ。
何も特別なことが起きたわけじゃない。
いつものことが起きただけだ。
だけど、私の心がまた私から離れていくには十分だった。
こんな状態で、私の心を迎え入れていいはずがない。
どうせまたすぐに傷ついて、今度こそ現実に帰ってこれなくなる。
そう思ったら、二進も三進もいかなくなってしまった。
もともとは安心して心を迎え入れるために作り始めた場所だったのに。
いつまでたってもそんな場所は完成しないんじゃないか――
この妹がいる限り、私は私のための場所を作ることはできないんじゃないか――
私はそう思って、立ち尽くしたのだ。
だから、自分の場所が育ってきた今も、私は私の心を迎え入れることができなかった。
世界を直接心に受け入れることができなかった。
だから、今も触覚(私が世界を受け入れるための手段の一つ)を切り離し続けているのだ。
でも、違っただろ!
少なくてもココロは――
いつだって誰よりも努力をしていた!
私はいつだってそれをそばで見続けていたはずだ。
幼稚園の時も小学校の時も中学校の時も。
私はいつだって妹に手伝わされていたじゃないか。
ヒーローであるために努力する妹の成長を、誰よりもそばで見続けていたじゃないか。
そのすべてを見なかったことにして、コンプレックスを卑屈に育てていたのは私だ。
なんてことはない。
妹のことも自分自身のことも。
一番見ていたはずなのに、それを認めなかったのは私自身なのだ。
そんな風だから、妹が死妹として活躍していることにも気づかずに、その絵のクオリティに勝手にダメージを受けるんだ。
妹が私よりも絵がうまく感じたのは当然だ。
だって私は、死妹の絵を見て絵を本気で描こうと思ったのだから。
妹の描いた絵は私の憧れそのものなのだから。
ココロは私よりもよほど強かった。
どれだけ理想に胸を焦がされようとも、決して心を手放すことはしなかった。
だからこそ、ココロは今もたくさんの人に愛されている。
だからこそ、ココロには特別な場所があるんだ。
本当はずっと分かっていたんだ。
心を切り離した状態で、心を安心して迎え入れる場所を作るなんて、そんなに都合の良いことできっこないって。
だけど、本当に怖くってさ、どうにかできないかって遠回りしてしまっていたんだ。
でも、もう、――いいんだ。
何があったって、私はもう心を切り離したりしない。
目の前の妹が居れば、私はいつだって私の場所に帰ってこれる。
妹さえ、居てくれれば――
――ねえ未来。そこまでやる必要ある?
いつか、ココロに向けて言った言葉を、過去の私が今の私に問いかける。
感覚を失ってからずっと、無意識下でこの問いかけは続いていた。
私はそのたびに当時の妹と同じ答えを返していた。
「もちろんだよ、だってこれが一番だもん」
こうする限り私の心は傷つかないし、いつかはきっと帰ってこれるから。
だけど、今は違う。
私は結局この状態に耐えられなかったし、妹も無くしそうになっている。
だから。
私はその問いかけへの答えを変えることにした。
――いや、無いよ。もう、必要無くなった。
――そっか。ようやく無理をする気になったんだね。
うん、私と妹のために――頑張るよ。
うん、行ってらっしゃい
――行ってきます
――痛っ!!
ゆっくりとだけど着実に手先に感覚が戻ってくるのを感じる。
これでもかってほど指先が震えている。
寒さよりも痛みが襲ってくる。
しびれて感覚が無いように思うけど、さっきまでの無痛の状態と比べればよほどしっかりとした感覚があるのが分かった。
私は、霜焼けした右手を体に擦り付けほんの少しだけ暖かくしてから、そっと妹のセーラー服の下にその手を這わせ、その胸元に押し当てた。
……――やっぱり、心臓も肺も確実に動いてない。
私は急いで救急処置を施した。
心臓マッサージは子供向けアニメソングのオープニングテーマのBPMで行う。
人工呼吸は心臓マッサージを30回行ってから2回、気道を確保した状態で行う。
うっすらとした知識をフル稼働させて、救急処置を繰り返す。
――動けっ! 動けよ!!
全力で同じ動作を繰り返す。
息が上がって死にそうだ。
妹のはだけたセーラー服が邪魔で脱がせたくなる。
後何回か繰り返したらやめたくなる。
自分の心臓の鼓動がうるさくて吐き気がする。
そんな些細な気持ちを抑えて私は繰り返し続ける。
だめだ、止めるな。
もし、この瞬間に妹が死んでしまったら、私は私のためにやめてしまった自分を許せない。
そんな後悔はたとえ死んだってしたくない。
――愛するココロ。
お前が死んでしまったら、私まで死んだようなものだ。
だから――
死なないでくれ!!
――ドクン
……今の……
急いで手を妹の胸に押し当てる。
その生命の鼓動を感じるよりも前に、妹が息を吹き返した。
――~~ゲホッ! ゴホッ!!
飲み込んでいた水を吐き出す妹の姿を見て、私はようやく安堵したのだった。
生きていてくれてありがとう……。
愛するココロ……。
思わず抱きしめたその体はまだまだ冷たかったけれど、ほんの少しだけ暖かくて、私は触覚を取り戻した実感を今一度得たのだった。