……こそっ。

わたしはドアを半開きにして、事務所の中をのぞきみています。

八葉

……はぅ、い、いました……

視線の先には、メモリアの千乃さんがいます。あまりお話したことはありません。

大体千乃さんは事務所のソファーで寝ています。すごいです。どうして、ここまでだらだらとできるのでしょうか。すごいです。

この人も……わたしの師匠になってくれる人かもしれない。

わたしは、最近思っています。
わたしはいつも頑張ったところで空回りばかり……。
一方で、千乃さんはいつもだらだらしているのに、素晴らしい結果を出しています。

わたしは、ここで千乃さんを見習う必要があります!
『頑張ることをやめてみる努力』が必要なんです。

だらけた人間になるために。ぜひ、千乃さんに弟子入りをしたいです!

千乃

くたくた……

寝言でくたくた言っています。超なまけています。
やはり、わたしが弟子入りすべきなのは千乃さんです……!

わたしは事務所の中に忍び足で入っていきます。
そばに立って、こっそり観察します。

千乃

八葉ちゃん、千乃に何か用かな?

八葉

ふわぁああ! ね、寝てませんでしたぁ……!

目をつむったままなのに、なぜわたしだとバレたのでしょうか!

千乃

ふっふっふー、千乃はね、足音で誰が誰だか区別がつくんだよ?

八葉

す、すごすぎます……!

目をこすりこすり、あくびをしながら千乃さんが体を起こします。

わたしは千乃さんに向けて、がばっと頭を下げました。

八葉

ち、ち、千乃さぁん! わたしを弟子にしてくださいっ!

千乃

弟子? 千乃が師匠になるのかなぁ? なんでだろ?

八葉

わ、わたし、ずっと頑張って、努力することが大好きで!

八葉

でもでも、力が入りすぎちゃって、よく間違えちゃうんです……

八葉

だからだからあのっ、だらけた人間になってみようと! 千乃さんのだらけ方をおそばで勉強させてほしいんですっ

千乃

えへへへ、まぁね? 千乃はだらけるスペシャリストだからね?

千乃

八葉ちゃんにいっぱい教えてあげるね

千乃さんはとっても得意げな顔です。

おいでおいで~、と、手招きをしてくれました。

八葉

あ、ありがとうございますぅ!

今までの弟子入りで、一番あっさりと許されました……!

わたしは千乃さんと並んでソファーに座ります。

千乃さんはスケッチブックを取り出して、おもむろに魚の絵を描きはじめました。

千乃

八葉ちゃんはね、マグロだと思うんだぁ

八葉

マグロですか……!?


もしかして、この魚の絵は私なのでしょうか!?

千乃

うん。常に動いてないと死んじゃうの

千乃

だからね、冷凍マグロになってみよ?

八葉

冷凍マグロに、なる……!?

どうしよう、全然意味が分かりません!

千乃さんはにこにこ顔です。頼もしいです。

千乃

うん。千乃が数えててあげるからね

千乃

まずは三分、冷凍マグロの気持ちになってね?

八葉

は、はい! 分かりました!

千乃

じゃあスタート~

意味が分からないままでしたが、わたしはぎゅっと目をつむります。

冷凍マグロの気持ち、冷凍マグロの気持ち……。
きっと動いてはいけないのだと思います。

頭の中で数えながら、想像以上にじっとしているのがつらいものだと知りました。

両足がムズムズしてきてしまいます。かかとを鳴らしてしまいそうになります。

は、は、走りたいです……っ

八葉

がんばりました……!


三分経ったので、目を開けました。

千乃

…………ZZZ

千乃さんは寝ていました!

三分数えているはずだったのに、こっくりこっくりと船をこいでいます!

八葉

す、すごいです。これが真のだらけた人間……!

わたしはまだまだ修行が足りないと知りました。






・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。




八葉

ハッ! な、なんでわたしはこんなところにいるのでしょうか!

朝。

いつの間にかわたしは、いつもの走り込みコースに立っていました。

無意識でした。習慣とはおそろしいものです……。

千乃

八葉ちゃん、おはよぅ~くたくた

八葉

千乃さん!? な、なんでこんなところに!?

千乃

プロデューサーに教えてもらったんだ。八葉ちゃん、朝、いつもこのあたりを走ってるって

千乃

頑張りすぎちゃう八葉ちゃんをね、監視しにきたんだよ?

八葉

あわわ、ありがとうございます、千乃さん!


やはり千乃さんは頼もしいです。

八葉

わたしもうちょっとのところで、また頑張ってしまうところでした……

千乃

うんうん。千乃のおかげだね?

千乃

じゃあベンチに座ろ?


千乃さんと並んで、ベンチに座ります。

千乃

いい天気だねぇ~

八葉

はいっ、太陽がまぶしいです!

八葉

きょ、今日もわたしは冷凍マグロの気分になるべきでしょうか!

両足をウズウズさせながら、わたしは聞いてみます。

走り込みロードを目の前にしていると、欲望をおさえるのに必死です……!

千乃

ううん、こういう時はネコの気分になるんだよ?

八葉

ネコ、ですか!

千乃

千乃が特別にひざまくらしてあげるから、一緒にひなたぼっこしよ?

八葉

はわわわわ、ひざまくら

千乃

おいでおいで、八葉ちゃん

八葉

……はいっ

き、緊張しますが、千乃さんの膝の上にごろんと頭をのせてみます。
やわらかくて、気持ち良いです。

ぽかぽかしていて、気持ちよくて、うとうとしてきます。
両足のウズウズも止まってきました。

ああ、これがネコの気持ちというものなんですね……。

八葉

千乃さんっ、わたしも真のだらけた人間に近づけた気がします!

嬉しくなって、顔を上げて千乃さんに言ってみました。

衝撃を受けました。

千乃

……………ZZZ

八葉

す、すごい! ひざまくらしている方が寝てしまっています!

八葉

わ、わたしなんてまだまだです……! うわぁあああん!

わたしは自分が恥ずかしくて、その場から逃げ出しました。

もっともっと、だらけた人間になる修行をしなくては。






・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。




数日たって、わたしはよろよろとした足取りで事務所にやってきました。

八葉

おはようございます……

真のだらけた人間になる為に、ずっとずっと走り込みをガマンしてきました。

日々、走りたいウズウズをガマンして、がんばっておふとんに横になり続けました。

なぜか目の下にくまができました。

冷凍マグロとネコが、頭の中をぐるぐる回り続けました。

千乃

八葉ちゃん、おはよう~くたくた

八葉

千乃さん! おはようございます!

八葉

わ、わ、わたしすっごくすっごく頑張っています!

千乃

んん? 何をかなぁ?

千乃さんはお絵かきをしながら、わたしを見てきます。

八葉

走り込みもせず! おふとんで寝てばかりでいる人間になっています!

八葉

冷凍マグロの気持ちも、ネコの気持ちも、いっしょうけんめい考えています

八葉

わたし、少しでも千乃さんに近づけたでしょうか……ッ!?

千乃

…………

千乃さんは、ぼんやりとした眼でわたしを見てきます。

千乃

ごめんね? それってなんの話だったかな?

八葉

…………!

衝撃を受けました。

わたしと師弟になったことすら、もう忘れてしまっています!

すごすぎます、これが真のだらけた人間……!

八葉

わぁあああん、わたしには到達できそうにありません!

わたしは事務所を出て、外を駆け出しました。


走ったら、すごく気分が爽快になりました。

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