八葉の足音は分かりやすい。
ドタバタといった風に、慌ただしく事務所に駆け込んでくる。
プロデューサーさん、プロデューサーさんっ!
駆けこんでくるのだけど、探してみると声だけ聞こえて姿が見当たらない。
……大体どこかの物陰にこそっと隠れているのだ。
なんだろう八葉
姿が見えないままだったけれど、八葉のそういうところに僕はもう慣れている。
私、あの、分かっちゃいましたっ!
何がだろう?
アイドルとして頑張るべきことは何か……
私、ずっと、ずっとずっと……っ、ずーっと考えてきました
うんうん
努力家の八葉のことだ。
それはもう四六時中、アイドルとしての努力の方向性を考えているのだろう。
大体いつも、間違えた方向に頑張っているのだけれど。
それで、どう頑張ることにしたのかな?
か、か……っ
かわいくなる努力をしてみようと! 思います!
おお……!
方向性がまともだ。
やっちゃん! やっとそこにたどりついたんや!
一緒にいたミユも、驚きの声をあげた。
やっちゃんは今でも十分可愛いけど……
もっと可愛くなろうと頑張るやっちゃんの姿、見てみたい~
そうだね。アイドルにとって可愛らしさは最大の武器になる。その頑張りには賛成だし、大いに協力するよ
はい! 私、が、がんばってみましたぁ……!
柱の陰に隠れている八葉は、ゴソゴソと物音を立てて何かの準備をしたらしく、僕らの前に飛び出してくる。
……
……
……
クマや!!
事務所に巨大なしろくまがいる。
とてもシュールだ。
業者さんから、借りてきました! これを着ていたら、私可愛くなれると思うんですっ
テレビで見たんです! みんなのアイドル、しろひぐまさん特集。みんなに可愛いって騒がれて、街でも人が集まってきていて、大人気でした!
この着ぐるみは正確にはしろひぐまさんではなくて、似たようなただのしろくまですけど
でも似てるのできっと大丈夫です!
何も大丈夫じゃないと思う。
これが真のアイドルの姿……
いやいやいや。ちょっと待って八葉。それは……
着ぐるみを着ていたら、本来の姿が分からない。誰か分からない。
やっぱり間違えていたか。
僕が指摘しようとしたタイミングで――
事務所のドアが開いて。
入ってきたのは、よりにもよって唯だった。
えっ、くま……!?
わぁ、か、可愛い!
入ってきた唯は、途端に頬をバラ色に染めて目を輝かせている。
唯は可愛いものに目がない上に、着ぐるみは唯の大好きなしろひぐまさんによく似ているので、堪らないのだろう。
あ……あのなー? 唯さん、それはやっちゃんがな、アイドルとしての方向性に悩み続けた結果、クマと化した姿で……
いったい自分は何を言ってるんや
まったくだ。
すごく可愛い! 握手してくださいっ!
テンションが上がりまくっている唯に、ミユの声は届いちゃいなかった。
えへへへへ……
しろひぐま(仮)は満更でもなさそうに、唯と握手をしている。
ほくほく顔の唯としろひぐま(仮)を、写真撮影してやって。
満足した唯は事務所を出ていった。
す、すごいすごい。大成功です……!
あのなー、やっちゃん……?
ミユさんっ! 私これからずっとこの姿でやっていこうと思います!
よろしくお願いしますっ
しろひぐまさんに扮した八葉は、どこか堂々として勢いがあった。
ミユの両手をガシッとつかんでぶんぶん振っている。
えー……?
どうしよう? という顔でこっちを見ないでほしい。
* * *
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
* * *
ともあれ、着ぐるみを脱がさなければいけないだろう。
唯の反応によって自信満々になってしまった八葉は、着ぐるみはアイドルの真の姿なんだと思い込んでしまっている。
ミユと僕によって、説得は試みたのだけれど……。
はうぅ、私、分かってもらえるまでもっともっと頑張ります……っ
ダメだった。
そっかぁ、うん
じゃあやっちゃん、ちょっと外出よ?
ミユは笑顔で言いつつ、僕の方にこっそりと話しかけてくる。
外で運動させたら、たぶん、暑さで耐えられなくなると思う
というわけで、僕らは公園までやってきた。
あっ、くまさんだぁ! わぁい!
すぐに小さな女の子が、八葉に駆け寄ってきた。
それを機に、わらわらと小さな子供たちに囲まれてしまう。
はわわわわ、に、人気者ですぅ!
握手やハグに応じつつ、八葉の声が活き活きしている。
調子づいて、ダンスやバク転なども披露して子供たちを大いに沸かせていた。
しろひぐまさん、すごぉーい
もっともっと! もっとやってぇー!
はぁっ、はぁっ……は、はい! 次は宙返りをやりまぁす!
着ぐるみの中は相当暑いのだろう、八葉の息が切れている。
それでも十分に子どもたちを楽しませて、八葉が僕たちのところに戻ってきた。
ほえーすごいなぁ、やっちゃんは。なんかいつもより、いきいきして見えるわぁ
はいっ! 私、なんだかすごく居心地が良くて! ずっと身を隠していられるからでしょうか!
たどりついてしまいました……! 着ぐるみこそが、私の頑張るべき居場所だったんですぅ……!
これ、全然脱ぐ気ないやつだ。
僕とミユは顔を見合わせてしまった。
もうナチュライクの3人目はしろひぐまさんってことにしとこ?
いやいやいや、諦めちゃだめだろう。そ、そうだ、八葉、お腹空かないかな?
言われてみたら、たくさん運動したのでお腹が空いてきたような……
うんうん、よし、ごはんを食べにいこう
* * *
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
* * *
う……うぅ……
あーこのハンバーグめっちゃうまいー。やわらかくて肉汁たっぷりで幸せやわ~
わざとらしいくらい、ミユは美味しそうにハンバーグを食べてくれている。
僕も心苦しいが、パスタをそれはもう美味しそうに食べてみせていた。
八葉の前にも、八葉が頼んだドリアが置いてある。
た、食べられませぇん……
着ぐるみの中からとても哀しい声が聞こえてきた。
スプーンですくったドリアを手に、ぷるぷると震えている。
これはもう、着ぐるみ脱いだ方がえーんとちゃうかな?
な、やっちゃん?
はうぅ、うう……! ま、負けるわけにはいきません……!
あっ! こんなところにバナナがー!
ミユはどこからかバナナを取り出した。どうして持っていたのかは謎だ。
ミユは八葉の前に、バナナをねっとりとちらつかせる。
はぁーこのバナナめっちゃ美味しそう~
やっちゃんにあげようかなぁって思ってたけど、なんか食べられへんみたいやねぇ、それは残念
自分、食べてもいーかな?
あ、あ、ああぁ……
もはや泣いているレベルの喘ぎが聞こえてきた。
それでも頑なに脱ごうとしない。
八葉はある意味、すごいと思うよ。
方向さえ間違えなければ……。
そこで、再びタイミング良く、唯がレストランに入ってきた。
うちの事務所のアイドルたち行きつけの店なので、遭遇することもままあるのだ。
あっ! またくまさんがいる……! どうしてここにも!?
しろひぐまさん(仮)を前にすると、人が変わる唯である。
深く考えずに、ぱぁっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
おそらく僕とミユの姿も唯の目には入っていないのだろう。
あの、あのっ! さっきは握手してもらったんですけど!
は、はい……
次はぎゅーってしていいですか……!?
え、え、ええええ!?
ゆ、夢だったんです。大きいくまさんにぎゅーってするやつ……!
一度だけでいいんです! 私の夢を叶えてくださいっ
そ、そんな、そんな……どうすれば
ええよ
何故かミユがあっさりと許可を出した。
あ、ありがとうございますっ!
八葉は立ち上がって身を引いたが、唯の方は待ってはくれない。
ぎゅっと抱きしめてすりすり頬ずりまでしている。
大きいくまさん……! 可愛い、可愛すぎる……っ! 好き、大好き
ひゃぁああああぁ! ご、ご、ごめんなさぁああああい!
この攻撃にはさすがに耐え切れなくなったらしい。
八葉は唯から逃げて身を潜め、着ぐるみを素早く脱ぎ捨てた。
全身真っ赤になって湯気がたちのぼっている。
私には難易度が高すぎましたぁあああ~!
逃げ出してしまった。
取り残された唯は、状況がよく分かっていないでぽかんとしている。
あ、あれ? さっきのくまさんは……? 八葉はなんで逃げたの……?
唯さんが最強、ってことで
う、うん。本当にありがとう唯。助かった
え、え……?
八葉が着ぐるみを脱いでくれて本当に良かったよ……。