でも、ケッツァーさんは、ケッツァーさんとして、生まれたのではないのですか?

……わからない、お嬢ちゃんだな

 ぐっと、苛立つでもなく、低く沈むような声で。

――ただ、力として、認識されるだけ。
ケッツァーなんて言葉は……名は、そのためのものだ。
呼ばれ、分けられるために必要だっただけの、ただの印なのだ

……あ、ぅ……

(……名前。その存在が、そうであると認識するためにつけられる、目印)

 ケッツァーという言葉が、なんのために付けられたのか。
 形を与えるため、認識するため。
 それは、変わらない。名を持つということに、違いはない。
 かつての世界でも、私達のように闇に生まれたものにでも。
 ――形あるものを呼ぶために、それは、つけられる。
 だけれど。

俺は……神と人の間に生まれ、
操られる、道具にすぎなかった

 男は、かつての自分を認識する言葉を、彼女に伝える。
 付けられた言葉に、含まれた意味をこめるように。
 ――その名を嫌っているような、低く硬い声音で。

どうぐ……って、意志のない、
形の方のことですか?

 道具。
 私が感じるその言葉の意味は、彼女のものに近い。
 形そのものが考えたり、動いたりすることは、ないもの。
 けれど、他の形の支えや、なんらかの刺激がある時に、その姿を表すもの。
 ……道具とは、そうしたものを想い出す言葉だった。

ケッツァーさんは、でも、ケッツァーさんなのに

 だからこそ、なのだろう。
 彼女は、その話を、受け入れ切れていないように見えた。

ケッツァーさんは……
ちゃんと、リンとお話してくれているのに

……話せるものが、道具でないとは言えん

 すっと、男は眼を細め、彼女に告げる。

お前の手元の光が、道具でないと、
なぜ言える?

――!

 その言葉に彼女は、先ほどまでと違う強い視線を、男へと返す。

スーさんは、道具ではないのです!
スーさんは、リンにとって大切な方なのです!

だが、道具だ

 男の言葉は、彼女の言葉を否定するように、重ねられる。

――この闇を払う、光を灯す道具。
俺には、そうとしか見えない

た、確かにスーさんは、
マッチのような見た目ですけれど……!

なら、そういうことだ

 にやり、と、男は不気味な笑みを浮かべた。

言葉を発し、人の似姿をした、だがそれらとは異なる――戦いのための道具。
それが、俺という形なのだ

……でも、スーさんも、
ケッツァーさんも、
道具ではないのです

 彼女は、眼を伏せ、願うようにささやく。

だって、こうして、いろいろなお顔や声を見せてくれているのに……

 その声は、男のなにかを動かしたのだろうか。

――意志があろうと、
その者の考えや声を潰し、
ただ動かされる形へと変える者がいる

 男の言葉に、私は、先ほど男が見せた苦味をまた感じていた。

生きている、道具。
それもまた、一つの形なのだ

 そして、考えた。
 男にそう感じさせた者は、形は、いったいなんだったのだろうかと。

……王は、その後、どうしたのかしら

 私の言葉に、男はちらりと目線をよこした。
 けれど、すぐに口を開くことはなかった。
 それは、私が触れた『王』の響き、ゆえだろうか。

……神を手に入れるためなら、王には、なんのためらいもなかったと聞く

 少しして、男はかつての世界の話を、再び言葉にし始めた。

王に気づかれた村は、あっという間に攻め落とされたと聞く。
逆を言えば、もう、神と呼ばれる力は乏しかったのかもしれんな

なぜ、王に抵抗できなかったのかしら

 この闇の中で襲われた時、私は抵抗し、危険から逃れたことも多い。
 どうしてその村は、神は、逃げることができなかったのだろうか。

さっき言ったことだが……平穏は、考えを鈍らせる。
その場所が、平和だったからだろう

 神の住まう村は、人里離れた奥地にあり、ひっそりと存在していた。
 交流や交易も避け、自給自足を主としていたことから、時代から取り残されていたようだと男は語る。

ええ、っと……

そうした場所は、とっても、平穏なんですね……

 彼女のどこか間の抜けた声は、理解しているようで、けれどつかみどころがなかった。

(……私も、そうだけれどね)

 男の語る世界を想いうかべようとしても、うまく形をつかむことができない。
 ――つかむことは、できないのかもしれない。だって、視界一面にたくさんの色が広がっている場所なんて、見たことがないのだから。

(逆を言えば、それがある場所は、どれだけきれいなのだろう)

 けれど、その美しい世界を語っているはずの男の言葉は、どこか嫌な苦味をずっと含み続けている。

村は滅び、人々は息絶え、その中で……
神と呼ばれていた力は、捕らえられた

捕えられ……

そして、王と、形をつないだ……?

そうだ

 私の言葉にうなずき、男は自分を指さして、自嘲するように笑った。

そして、その神と悪魔の血を受け継いだ存在が……俺だったのだ

……っ

……

 私も彼女も、無言で彼の言葉を受け止める。
 ――その形の在り様に、どう言葉をかけていいのか、わからなかったからだ。

……そう。
俺はそうして、あの世界に、
生まれさせられたのだ

 それからも、男の話は、ゆっくりと続く。

 かつての神と村の話から、自分の主観へ。

生まれ、周囲を恐れさせながらも……
俺は、ただ、大きくなっていった

(大きく、なる……)

 断片的に語られるのは、今の男がその形になる前の、あいまいな頃。

 ……たぶん、私も以前に会ったことがある、赤ん坊という形。それが、変化している途中の、男の景色。

(あの子が、そんなふうに変わっていくだなんて、信じられないのだけれど)

 伝えられる景色と言葉が、細かく、丁寧に。
 同時に……より深く、色を増し、感情を上乗せして。

 ――成長。
 私にはなかった、存在が大きくなるための、時間と過ごす段階。
 それが、男の見てきた景色に、より強い力を与えている。

(……かつての世界では、そうして、大きくなるのが当たり前だった)

 空いた手で、すっと、自分の身体を撫でる。
 服と呼ばれる外見の下に、柔らかく動く形が、息づいている。

(私のように、始めからこの形で生まれることは、ありえない)

 ……目覚める前の私にも、あったのだろうか。今の私でない、私の頃が。

記憶は、断片的だが……
意外と、覚えているものだ

 男は、始めからこのような、黒い威圧感をまとう存在ではなかったのかもしれない。
 たまに見せるゆるめた顔が、そう感じさせるのかもしれない。
 だから……成長するまではそうなのか、と、想っていたのだけれど。

次第に、気づいていった

 ――赤ん坊は、ずっと、同じ形ではいられない。

あの、気づくって、
それまではわからなかったんですか?

今のように考えるには、時間がかかる。時間を経て……心を持ち、気づくようになる

 心。わずかなその響きに、私の胸が、妙に感じ入る。

……道具であれば、そんなもの、なくてもよいのにな

 幼い自分に、いつしか目覚めた意識。
 自我、と男が告げる、それが見たもの。
 それは――冷たく暗い、周囲の視線。男をとりまく、世界の形。

自分に向けられる、同じ姿をした者達の、怯えた瞳。
そして、排除するような態度と言葉。
そして、それを分かちあえない、孤独

 心を持ち始めたばかりの男は、その理由がなぜなのか、まったくわからなかった。

 だから、誰かを求めて手を伸ばし、言葉にならない声をかけ、触れあおうとした。

リン達と、一緒ですね……

……

 彼女のささやきに、私は、頷きも否定もしない。

……なにかの形を、求める。
そういう意味では、一緒かもしれぬな

 だが、と、男は小さく自分の言葉を否定した。

俺は、形を与えることはできなかった。さっきも言ったように……俺の手は、すでに、幾人もの人間達を破壊していたのだから

 ――その事実を知ったのも、伸ばした手を踏みつけられ、罵倒された時だと男は語る。
 目線を合わせようとしても、周囲の瞳は反射することを、拒絶した。
 近づこうと男が発した声も、低く切り裂くような絶叫で、あっさりと打ち消された。
 みながみな、男のことをよく知りながら、一方的に遠ざかっていった。
 そして……近づこうとする男には、痛みが、その動きを遮った。

よくも、生きていけたものだよ

 他人事のように、自身の境遇を、男はそう語る。
 そもそも、男の自由は許されていなかった。
 足元には、重い鎖。
 閉ざされた部屋の周囲には、重厚な鎧の兵達。
 まれにやってくる世話係や教育係に与えられるのは、研ぎ澄まされた視線と圧迫するような言葉。
 ……冷え切った男の手が、暖かい肌に触れることは、できなかった。
 言葉も、身体も、立場も。
 男という存在の周囲、その見える世界の全てが。
 ――ただ、鉄と氷に囲まれたような、冷たい視界でしかありえなかったのだという。

……あ、うぅ……

 身をふるわせるように、彼女が、小さく呟く。
 私も、言葉は発しないまでも、男の境遇を想像して目を伏せる。

なにも知らぬ心が、その意味を、わかるまでには時間がかかった

 あからさまな嫌悪を持つ教育係の言葉を、鎖を鳴らしながら受けていたと、男は語る。

……ある時、教育係は俺の成長を恐れ、手を挙げた

 教えていない言葉や考えを、教育係に問いかけた時だと、男は語る。
 それは、ただ、部屋の周囲を兵士達の言葉を真似ただけだったのに。

手、ではないか。
足が、主だったか。
それを……雨のようにな

あめ……?

 不思議そうな彼女の声と同時、私の胸に、グリの声が響く。

『雨ってのは、わかるかぁセリン。……雨ってのは、上からふってくる、避けようのない触れ合いってことさ』

……足が、いっぱい、上から触れあう……

 グリの説明に、私の背中が、想像でふるえる。

(……闇を背負うのとは、また違う、嫌な体験ね)

 そして――教育係が、なぜそんなことをしたのかに、想いを巡らせる。

(わからないものへの、怖さ。……それは、かつての世界でも、この世界でも、変わらないものなのね)

 教育係も、男の小さな疑問を、そうして受け取ってしまったのだろうか。
 ……男のもつ闇は、その時から、発せられていたのだろうか。

何回も、何十回も、足は続いた。
熱さだけが、俺の身体を、埋めていった

 たんたんと語る男は、すっと、右手を上げて。

だから、右手を伸ばした。
ただ、足を止めようとな

 無意識に、ただ、少しだけ力を入れ。
 男は、熱く柔らかい教育係の足を、つかんだのだと言う。

……足は、止まったの

止まったよ

代わりに、絶叫が生まれたがな

ぜ、っきょう……?

この闇の中なら、どこまでも響くような絶叫だったろう。
……次第にその声も、苦しみの嗚咽に変わったがな

……!

 ――教師は、もう二度と、男の前に現れることはなかった。

雨は止んだ。
だが代わりに、より強い痛みが、
監視者どもに与えられたがね

 それから、男の教育係は何度も変わった。
 より冷たく、男の弱点を見抜き、苦痛を与えられる存在へと。

苦しい時間だったが、閉ざされた部屋で教えられる知識は、嫌なものではなかった

 男の言葉に混じる、理解できない単語の数々は、この教育の時に覚えたものなのだろうか。
 そうして増えた知識で、男は自分のことを考え、成長していったのだという。

ある時、ふと気づいた。

自身の部屋に出来た、不気味な穴や、壊れた家具。
自分の求める食事の量も、他と違うと言うことに

 冷たい視線を向けるのは、教育係だけではなかった。
 まれに部屋を出されれば、なにも案内されずに放り出される。
 さまよう男に偶然を装って、その身を傷つける者達もいた。
 また、閉ざされた部屋に一見優しく近寄ってきて、毒を盛った食事を提供した者もいたのだという。

思考、機転。
耐久力、回復力、警戒力。
それらの、成長速度

……全ては、道具がどれだけの力を持ったか計るための、実験の一部にすぎなかった

 それらを男は、受け止め、理解し、苦しみ。
 しかし、蘇り……成長していった。

う、ぅぅぅ……!

 それらのエピソードに、彼女は口を抑える。
 悲しんでいるのか、辛いのか。
 だが、そんな同情は、男の過去になんの灯火も与えないものでしかない。

人は、自分たちと異なる姿を、特に恐れる者なのだ

 ……そして、自分と同じ姿だった者達が、まだ幼い頃。
 言葉も話せず、頭の大きさがまだまだ大きいと感じさせる、そんな頃には。
 腕や足、身体をすっきりと伸ばした男は、すでに周囲の大人達を圧するほど、成長を見せていたと語る。

神の血か、人の血か、その混ざりゆえか。
……とにかく、異常な存在であることは、誰の眼にも明白であったろうな

 そして……だからこそ、避けられないものだと、気づいたとも言う。

――対等な視線など、一つもなかった。
上から抑えつけるような眼か、下から媚びてくるような眼。
俺の存在は、だが、その狭間にしかなかった

 男が語る、生まれたときからの距離。
 そして、周囲を怯えさせるほどの、無意識の力。
 ――神でもあり、悪魔でもある、男の力。

……おかしいわ

 だからこそ私は、かつての世界の男の存在に、疑問を持つ。

おかしい?
なにがおかしいんですか、セリン

 今の男の話が本当なら、矛盾がある。

生まれただけで、人間を超える力を持っている。
そして、人間には、それらを制御できる力はない

なぜ、そう想う?

制御できるのであれば……それほど、恐れる必要はない。
でもあなたの話では、成長しない段階ですら、人という形はあなたを恐れているように想える

 もし、神の力を人が操れるのなら、周囲の不安はなかったと想える。
 周囲からの、異常ともいえる襲撃もそうだ。
 まるでそれらは、不安を消そうとしているようにも……。

(試しているようにも、感じる?)

だから、あなたの力は、人の手には余るものだった。
……あってるかしら

あぁ。
そのとおりだ。
人間は、神を従わせることは、出来なかった

 男の眼が、射抜く。
 ごくり、と喉が鳴る。私だけじゃない。横の彼女も、雰囲気の異様さに気づいている。
 ここから先は、触れてはいけない――触れるな――、と。
 そう、男の眼光が、こちらの心に刃を突きつけているように感じられた。
 だが、私は、口を開いた。

ならばなぜ、神と同様の力を持つあなたの母親は……
王に逆らえず、あなたという形を、成すことになったの?

 その過程は、グリに教わったことがある。自分には関わりがない。
 そう感じていた、形と形が交わる、不思議な行為。
 ……それが、とてもおぞましく、この闇に似た行為にもなると知ったのは、望まぬことをされる寸前まで追いつめられたことがあるからだ。
 だから、よく知っている。
 その、ただ押し潰されそうな、恐怖と嫌悪と共に。
 ……だからこそ、と、男には想った。
 男には、力がある。
 人を超える、世界を変えられるとそう言った、圧倒的な力が。
 男がそうであるなら、その母もそうなのだろう。
 なら、男は従うはずがない。従わなくても、良かったはずだ。
 私のその考えに、しかし、男の答えは返ってこない。
 やや反抗するような私の言い方が、気に障ったのだろうか。
 だが……男が口を開いて、次に形にした言葉。
 それは、深く想い返すような、どこか苦い響きを持ったものだった。

――物心ついて、少し経った頃か

 話が変わったことに疑問を持つが、私も彼女も、言葉の続きを待つ。

自分の世界を意識して、知識をつけ。
そう……周囲の眼を、欺けるようになった頃のことだ

あざむく……

 私の呟きに、男は遠い目つきをして、答えでない話を続ける。
 だけれど次の言葉は……今までの環境を、一変させる響きを持っていた。

周囲の眼をくぐりぬけ、部屋を抜けた俺は……
城の中を、さまよっていた。
ただ独り、あの場所とは違う、景色を求めて

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