♪~

井上当吾

……

若い清掃スタッフがモップで店内を滑るように動く。

当吾は気取りすぎたスタッフの制服に眉をひそめたが、
何も言わず座り直した。



奇妙な目撃者から直接話を聞くために、
普段は来ないようなカフェの一席に陣取っていたのだ。

井上当吾

疑問は、二つ。
まずは証言そのものの信頼性だ

指定の時間よりも10分ほど早く席について、考えを巡らせる。

井上当吾

いくら線路に面した家とはいえ、電車の窓から中が見えるのは一瞬だ。
果たして、人が突き飛ばされるところがはっきり確認できるか?

タイミングについては思うところもあったが、
それにしても、だ。

井上当吾

男が『立っていた』というのも妙だ。
そういう表現をしただけかもしれないが、状況から見て、ガイシャが落下したのは車椅子に乗っているとき。どうにも合わない……

結局のところ、この証言はかなり疑わしい……

というのが、当吾の見立てだった。

井上当吾

もう一つは、この女がなぜ名乗り、素性を明かしたか、だ

井上当吾

状況は一見、ただの事故。
詳しい検証はまだだが、この目撃証言が入らなければ、そう判断される可能性も高かった

先ほど、証言は嘘の可能性が高いと言った。

ならば、何故、すぐに嘘らしいと分かるような証言をしたのか。

井上当吾

捜査を混乱させるためか、誰かを嵌めたいのか

ならば何故――匿名ではなく、名乗ったのか。

井上当吾

名乗ることでのメリットは、ある

目撃したのが確実にその事故のシーンだと確定させられる。
信頼性をわずかでも増すことができる

だが、それにしても、
すぐにバレるような嘘を吐いてなお名乗る決定的な理由には
思えないのだった。

小笹小百合

遅くなってすみません。コーヒーを

小笹小百合は飾り気のない女性だった。
制服を着ているところを見ると、高校生か。
どこか沈んだ顔をしている。

当吾は小さく息をついて、緊張を見せないように振る舞う。

井上当吾

いいえ。捜査にご協力いただき感謝します

世間話

天気

乗り心地

最初から本題には言及しない。

いくつかの簡単な質問をしながら、
それとなく目的のものを混ぜるのが当吾のやり方だった。

井上当吾

あなたは、突き落とされた男性……但田忠孝(ただたか)さんのご友人だとお聞きしましたが

小笹小百合

……はい。あの方とは華道の教室で出会いました。
先輩として良くしていただいています

井上当吾

生け花ですか。
見せていただいても?

小笹小百合

……拙いものですが

小百合はスマホを取り出すと、ついと指を滑らせて
当吾の方へ差し出した。



画面には、朽ちかけた紅葉の葉を斜に活けた
ひび割れた器が映っていた。
わざとらしいほどに華やかさを避けたその地味な中には
鮮やかな色の花は無く、落ち着いた生け花だ。

模範的。そんな印象を受ける。

井上当吾

……

井上当吾

あの日も、現場となった但田氏の家を訪問されていたとか

小笹小百合

……はい。その後、帰る電車で、見ました。あの人が突き落とされるのを

小百合は胸の前で手を握りしめた。

井上当吾

失礼ですが、訪問はどういった用件で?

小笹小百合

……花、の、話です。話を、するために

井上当吾

なるほど

小百合の話し方にどこか動揺が現れているのに
当吾は気づいたが、今は何も触れないことにして話を変えた。

井上当吾

ところで目撃したシーンの詳細を聞きたいのですが、但田氏を突き落とした女性の格好は?

小笹小百合

黒い首までのセーターに、薄い藍色のジーンズです

井上当吾

小笹が答えた瞬間、当吾はテーブルを叩いていた。

小笹小百合

ひっ……

井上当吾

ガイシャは2階から突き落とされた。
なぜ、ズボンの色まで分かる?

俺はあんたに会う前に現場を確認してきたが、2階の窓は全面張りなんかじゃない、上半分だけの一般的な窓だ。階段上に立ってたんなら、せいぜい上半身しか見えない

小笹小百合

そ、それは

井上当吾

話にならないな。偽証はれっきとした犯罪だ

当吾は立ち上がった。

小笹小百合

っ……

小笹小百合

……ま、待って!!!

井上当吾

まだ何か?

小笹小百合

そこから離れて!

井上当吾

は?

小笹小百合

でないと怪我するわ!

井上当吾

それは、どういう……

うわっ

店員が足を滑らせ、
盆の上のコーヒーが当吾の頭に降ってきたのは
その数秒後だった。

小笹小百合

あ、だ、大丈夫……ですか?

井上当吾

ああ……

大変申し訳ありません!!

井上当吾

いや、気にしなくていい……

気の毒なほどに動揺しながら布巾を抱えてきた店員に
あれこれ謝罪され、やっと一息ついたとき、
額からぽたりと垂れた雫に
小百合がハンカチを差し出したのだった。

井上当吾

いや、これは……コーヒーじゃない

小笹小百合

で、では、わたくしの掛けた水では

井上当吾

ああ……コーヒーは熱かったからな
正直あれは助かった

これは汗だ、と言うところだったのを、飲みこむ。

小笹小百合

……

井上当吾

……なあ、あんたは何故分かったんだ?

小笹小百合

分かった、といいますのは

井上当吾

あんた、店員が転ぶ”前”に言ったよな

小笹小百合

……

小笹小百合

……信じてはいただけないでしょうが

小百合は、新しく淹れ直してもらったコーヒーの表面に
顔を映しながら言った。

小笹小百合

わたくしには時々、未来に起こることが分かるのです

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