7/7/2012 21:10
大神(おおかみ)市 某事務所

白井 隆之

戸塚。電話。

 ソファーに横たわり、テレビを見ているこの男以外に、この部屋に人影はない。

白井 隆之

あ~そうか。さっきの電話で…
はいはい。出ます出ます。

白井 隆之

もしもし。大神支部です。

三輪(みわ)地区情報局の聖川(ひじりかわ)です。四条病院に丙(へい)患者搬送中との情報が入りました。現場へ急行して下さい。

白井 隆之

到着予定は?

十分後の21:20ごろかと思います。

白井 隆之

わかりました。向かいます。

それから、コールには即座に応答願います。

白井 隆之

ああ…すいません。あいにく、私以外皆出払っていて…

すべて把握しております。

白井 隆之

はあ…

以上です。では、お気をつけて。

白井 隆之

いやぁ…
声からすると美人なんだがなぁ…

 男はそう愚痴をこぼすと、出入り口まで歩いていき棚の脇のフックにかけられた鍵を一本取る。そして消灯と戸締りを済ませ、事務所の目の前にあるエレベーターで一階まで降りていった。

7/7/2012 21:19
四条病院 手術室前

 救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえる。それを確認すると、男は手術室の扉まで歩を進める。ドアに手をかけた。

白井 隆之

外科医長さん。また失礼しますよ。

 「外科医長」と呼ばれた男性は一瞬訝(いぶか)し気な表情でこの男を見たが、男が指を鳴らすと数秒間うつろな表情になった。

ああ。あなたですか…どうぞ…。 

 男は悠々と手術室の中へと入っていった。どたばたと後方の救急搬送口から騒々しい音が聞こえていたが、それを気にも留めなかった。

 しばらくすると、手術室の扉を勢いよくあけ、担架と数名の看護師が入ってきた。男は看護師の一人と目が合ったが、男を歓迎していないことを如実にわかる目立った。

白井 隆之

美人が台無しだな…

 せーのという掛け声に合わせ、手術台の上に少年が乗せられる。男は、少年の方から異様な気配を感じ取った。

白井 隆之

ん?

 思わず、手術台に寝かせられた少年の右半身側へ駆け寄った。

 すぐさま、傷口と思わしき場所に覆いかぶさる布を取り去る。すると異様な光景を目にする。少年の右腕に黒い塊が取り付き、くちゃくちゃと音を立てている。どうやら血を吸っているようだ。見ているそばから、血がしたたり落ちる。

白井 隆之

ん…なんでこんなに…

 思わず口に出してしまったその言葉には誰も反応しない。この部屋にいるものはこの男を除き、治療に専念している。

白井 隆之

荒小魂…なのか?…これは…

 荒小魂(あらこだま)は本来、低級な悪霊であり、明確な形を持たない存在である。しかし、少年の血を吸っているせいか通常はソフトボールほどのところ、バスケットボールに迫る大きさとなっている。そして、輪郭もはっきりしている。

白井 隆之

一応、「こいつ」を持ってきておいて正解だったな。

 男は、白衣の内ポケットから白く長い紙を取り出す。

 その荒小魂と呼ばれる「異形」の存在の上に、その紙をかざす。

白井 隆之

オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ

 真言(しんごん)と呼ばれる口上を述べる。その句を全てを言い切る寸前、荒小魂は男に気づいたのか、鋭く男の方を睨みつけた。

 しかし、白い紙に吸い込まれるように荒小魂は一瞬で消えてしまった。それと同時に短冊は瞬時にクシャクシャに丸まり、紙屑となった。

白井 隆之

なぜ荒小魂があれほど成長していたのか?…
それに…人を襲い傷を負わせたというのか?

白井 隆之

まあいい。
いずれにせよ、用は済んだ。

白井 隆之

オン・ギャギャネイ・ギャギャナロシャネイ・ウン

 手をヒラヒラとで印を結び、真言を唱える。先ほどと違い、周囲には目に見える変化は何もない。そのまま男は手術室を後にした。

 手術室を出て数歩足を踏みだすと、手に持っていた紙がはじけた。

白井 隆之

護符が内側から破られた?…

 手術室を出たすぐ先のベンチに少女が座っている。その少女がこちらに気づき、目が合う。すると少女はおもむろに立ち上がり、まっすぐ体をこちらを向けた。

白井 隆之

こんな時に…厄介事は御免だ…

 きっとこの少女は自分のところまで寄ってくるとこの男は確信した。面倒なことになると予見できたため、それを事前に防いだ。指を鳴らすと、少女は虚ろな表情になり、もともと座っていたベンチに再び腰かけた。

 男は、重苦しい雰囲気を感じる救急搬送口の方向へと急ぐ。悪い予感は、歩を進めるごとにうす気味悪い気配へと変わっていった。

 男は搬送口へとまっすぐつながる廊下へ出た。先ほど多くの人が、ここを騒々しく通っていったとは思えない。ただただ静寂が支配していた。蛍光灯はその温かみのない光で薄暗く廊下を照らしている。

 男はさらに歩みを進め、邪悪な気配へと慎重に近づいていく。

白井 隆之

影?…

白井 隆之

悪霊…ではないな…しかし、何故ここにこれほど集まっている…

 男は、さらに幽霊たちに迫っていく。

 血だ。男はそれですべて合点がいった。

白井 隆之

なるほど…原因は、少年の血か…

 その時、背後から迫る邪悪な気配と殺気を感じる。

 左腕の二の腕を鋭く強い痛みが襲う。寸前で避けたつもりだったが、肉を食いちぎられた。傷の長さは5センチほど、深さは1センチちょっとぐらいだろうか。血が滴る。

白井 隆之

うっ…コイツ…さっきより力を増して…

白井 隆之

笑ってる?…

 男は焦る。このようなタイプの妖(あやかし)と一対一でやりあったことはない。もっぱら悪霊やそれに毛が生えた程度のものばかりを相手にしてきた。しかも、この妖が動物のように本能だけで襲ってきたわけではないと、先ほどの反応から察する。

 「笑う」ということは、すなわち感情を最低限持ち合わせており、もしかすると知能あるいは理性も持ち合わせている可能性がある。そうだとすると非常に厄介だ。応援要請をすることが最優先と男は判断した。

白井 隆之

こういう時は、携帯がどんな能力よりも便利だとつくづく感じるな…

 そう呟きながら、目の前の妖から気をそらさずに携帯を開くと、履歴から素早く電話をかける。発信を確認すると素早く耳元へ携帯電話をあて、目線はまっすぐ獲物を捉えている。

白井 隆之

オン・バザラバイラバ・ソワカ

 男が真言を唱えると、先ほどの妖は空中から地面へと「見えない力」でたたきつけられた。地面に突っ伏した表情はゆがんでいる。身動きが取れなくなっている様子はまるで、何かに上から踏みつけられているかのようだった。

うっす!どうしました?先輩?

白井 隆之

俺の専門外だ。四条病院救急搬送口まで2分で来い。

えっ!?そんなの無理っすよ!最低でも3ぷ…

白井 隆之

じゃあ3分だ!

 用件だけ伝えると電話を切った。15秒にも満たない非常に短い電話だったが、この緊張感の中では1分以上の長さにも感じられる。

 「見えない力」に抑え込まれているそれは、確かに身動きも取れない状態であるはずなのに、底知れぬ恐ろしさを感じさせる。

白井 隆之

一瞬も気が抜けないな…

白井 隆之

な、なんだこいつ!?

白井 隆之

床についた血をなめてる!?

 あやかしは、「見えない力」を押しのけ宙へ再び浮き上がった。それに対し、再び真言を唱え始める。

白井 隆之

ノウマク・サマンダ・ヤキシャシバラ・ソワカ

 再び何らかの「見えない力」が妖に対し加わり始めたことは、その動きの緩慢さからわかるが、動きを封じきれない。そして、ゆっくりとその妖は近づいてくる。

白井 隆之

くそっ…このままでは…

 じりじりと詰め寄ってくるその妖を避けようと後退するが、壁が背に迫ってくる。

白井 隆之

アキャネイ・キャネイ・クリ・ケンダリ・センダリ・マトウギ・ジョウグリ・フロシャニ・アンチ…
アキャネイ・キャネイ・クリ・ケンダリ・センダリ・マトウギ・ジョウグリ・フロシャニ・アンチ…

 先ほどと打って変わって、妖は完全に動かなくなった。しかし、この真言を繰り返し復唱するごとに、目に見えてこの男が消耗していく。

白井 隆之

アキャネイ・キャネイ・クリ・ケンダリ・センダリ・マトウギ・ジョウグリ・フロシャニ・アンチ…
アキャネイ・キャネイ・クリ・ケンダリ・センダリ・マトウギ・ジョウグリ・フロシャニ・アンチ…

白井 隆之

アキャネイ・キャネイ・クリ・ケンダリ・センダリ・マトウギ・ジョウグリ・フロシャニ・アンチ…
アキャネイ・キャネイ・クリ・ケンダリ・センダリ・マトウギ・ジョウグリ・フロシャニ・アンチ…

白井 隆之

くっ…

 男が膝をつき、もう無理だと思った瞬間、救急搬送口の二枚の扉の隙間から一枚の紙が勢い良く入ってきた。

 式である。勢いよく真っすぐ綺麗な軌道を描き、男と妖の間に割って入る。紙が空中でピタッと止まったかと思うと閃光とともに人影が現れた。

暗雲天

おやおや。こんなみっともない姿のあなたは初めてです。せっかくなので、もうちょっと眺めていましょうか。

白井 隆之

いいから…早く…助けろ…

 白衣の男は、もはや真言を唱えることさえできない。先ほどまで迫っていた妖は、目の前の怪しい男の背中に隠れて見えないが、どうやら何かに阻まれて進行を止めたようである。

暗雲天

せっかくなので拳(けん)を待ってから、写メとやらを撮りましょうか。これは我ながら実にいい考えです。

白井 隆之

くだらん…

暗雲天

まあ、あなたが気を失ってしまっては、観客のいない戯れ…空虚な一人遊びですからね…興覚めです。

 この着物の男は踵を返し、妖の方へと向き直った。その表情は一変し、鋭い表情だ。

暗雲天

破ッ!!!

 

 着物の男がそう唱えると、先ほどの妖はどす黒い煙のようなものを一気に噴き出し弾け飛んだ。しかし、その吐き出された黒い邪気が巻き戻るかのように一か所に集まって何か丸いものを成していく。

目だ。

 そしてその眼球は、ゆらゆらと浮遊しながら着物の男の纏う黒い煙の中に入っていった。

暗雲天

ほう…これは…なかなか面白いですね。

 救急搬送口の向こうに、誰かが走ってくるのが聞こえる。

一章 第6話「後始末と血痕」

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