時間屋を後にして、僕たちはすぐに最終バスに乗り込んだ。二ノ宮家に着いた頃には日はとっぷり暮れていて、正蔵さんは話を先送りしようとした。
なにから話せばいいかな
……最初から、全部、です
時間屋を後にして、僕たちはすぐに最終バスに乗り込んだ。二ノ宮家に着いた頃には日はとっぷり暮れていて、正蔵さんは話を先送りしようとした。
でも、それは正蔵さんの『逃げ』だ。僕はすこし強引だったかもしれないけれど、構わず家に上がり込んだ。
お茶を淹れ、座布団を敷き、しばらく座ろうともしない正蔵さんを、待ち続けた。
ようやく腰を下ろしたころにはお茶はすっかり冷めていたけれど、それでもまだ正蔵さんは語らなかった。
訊きたいことが山ほどある。聴かなければいけないことが、山ほど、ある。
だから僕は、長く続いた沈黙が終わるのを、ひたすら待って、待って、そうしてついに、正蔵さんは口を開いた。
もう後戻りは出来ないのだと、理解しているつもりだ。
時屋吉野と、『契約者』のやりとり、おそらく契約を果たすための過程をみた僕に、戻る道など、ない。
十年前……私が五十二歳、花楓が四十八歳の頃だ。
……由宇君も知っているだろうが、花楓は心臓を患っている。持病に苦しみ、入退院を繰り返しながらも、花楓は今までどうにか命を繋いできた
だが、十年前、ついに花楓は危機に陥った。生死の境をさまよい続けて、十日間眠り続けた。
私は……耐えられなかった。花楓が命を削られていく様子を、みていられなかった
……大変申しにくいのですが、二ノ宮花楓さんが再び意識を取り戻すことは……もう、ないかと
…………
なにも言えなかった。言えるはずもない。死の宣告を受け入れる覚悟など、なかった。
悲しみに暮れ、だが、諦めることも出来なかった。
……時間屋のことを知ったのは、ちょうどそんな頃だ。
花楓の教え子に、社長令嬢が居た。社長とは私も懇意にしていて、よく知っていたのだが、彼は道楽が好きで、手広くいろいろなことをしていた
その、社長さんが……?
あぁ、時間を買った、というのだから、最初は耳を疑った。信じられるわけもなかった。
だが、彼は高値で時間を買い、道楽にふけったのだと言う……私は金持ちではないから、そんな話を聴いても、時間屋を訪ねようとは思わなかった
だが、自分の寿命と引き換えに、時間を買うことが出来るのだと知った
居ても立っても居られなかった。すぐに場所を教えてもらって、店を訪ねた
……こうして、私は時間屋と出逢った
初めまして。お客様、本日はどのようなご用件で?
私は、二ノ宮正蔵という。
……時間を買うことが出来ると聴いて来た。ほんとうなのか?
店主が若いことに驚いた。……その結果、気が抜けてしまったことは、否定出来ない。
そうでなければ、店など構えません。前提を疑われては、こちらは責務を果たせません。信用出来ないというのであれば、どうぞ、お帰りください
……穏やかな表情と、息が詰まるような、鋭い視線。只者ではない雰囲気。
いや、すまない、疑うつもりは微塵もない。時間を買いに来た
そうですか、では、奥へ
長い間生きてきて、あんな人間に出逢ったのは初めてだった。
時屋吉野は、顔色ひとつ変えず、何年ぶんの命にいたしますか、と言った。
……これが、私と『時間屋』との、最初の契約だ。
一度目で十年、二度目で五年、そして今日は五年ぶんだ。私の寿命の余裕も、もうない。
次で何年ぶん買えるか……
正蔵さんは、黙り込んでしまった。
話は終わりなのか……?
いや、違う。これは、正蔵さんの『始まり』。
でも、『なぜ始まったのか』を、彼は明言していない。
僕が知りたいのは『どう始まったのか』ではない。
『なぜ始まったのか』、だ。
正蔵さん、まだ、大切なことを聴いていません
あ、あぁ、なんだね?
どうして時屋さんと契約したのか……貴方は、自分の寿命と、なにを交換したのですか
…………
私は、私の寿命を『時間屋』に預け、私が売った『時間』を以って、花楓の『寿命』にしてもらうよう、契約した
だから正確には……私は、時間を『買った』のではなく、『売った』。
……でも、私は花楓のために、時間を『買った』、のだと思っている
……話せることは、ひとまず話した。
他になにか、訊きたいことはあるかい?
時間が止まったような感覚に陥る。
僕はその言葉の意味を理解するのに、多くの時間を消費しなければならなくて、しばらく声を出すことが出来なかった。
第二十話へ、続く。