顔を上げ、宣言する男の言葉が、耳に届く。

(始める、のね)

 ――来るか。
 私は、何度目になるかわからない警戒感を、また強めて。

『よっとっ……!』

 胸に響く、小さな呟き。
 グリもまたその様子を感じて、光の強さを増してくれた。

 ――始める。私とグリにとって、それは、開戦の意味。

 対して、彼女は……変わらぬ明るさで、男に、同じことを聞く。

はい!
あの、お話、していただけるんですか?

 明るい彼女に、返されるのは。

 ――否定の言葉と、風を切る拳。
 ――剛腕に吹き飛ばされ、闇にのまれる、彼女の小さな身体。

(……それを、想像していた、のに)

 それを自分で受け止めないよう、緊張感を、高めていたのに。

(……やっぱり、なぜこうなるのか、わからない)

 ――男は、その腕と威圧感を収め。

よかろう。
こんな俺の、話でよければな

 そう、答えたのだった。

……っ

 想わず、吐息を漏らしながら、視線を落としてしまう。

『緊張と緩みの繰り返しは、疲れがよりたまるよなぁ。おじさん、もう光が凝って大変よぉ?』

……

 グリのよくわからない疲れの話に、言葉を返す気力もない。
 代わりに、気力一杯になっているのは、もちろん彼女。

ありがとうございます!

 男から返ってきた言葉に、喜びに開かれる表情。
 ……むしろ私の方は、予想していなかった現状に、判断が追いつかない。

……ふっ

 男に浮かぶ、かすかな微笑み。
 さっきの言葉と、そのからかうような笑みは、男の鋭さを丸く収めてしまっている。
 だから私は、眼を見開いて、固まってしまった。

(また、また……なぜ?)

 動きの行く先をなくして、どうすべきか、まとまらない頭で考えるけれど。

(なぜ、こんな事態に、うまくいってしまうの……?)

 受け入れられない事態に戸惑っていると、声が聞こえた。
 よく知った、胸の内だけの声が。

『くっくっく、これは、また面白いなぁ』

グ、グリ……?

『あのお嬢ちゃん、説得しちまったんだなぁ。こいつぁ予想外だが、こんなことも、あるもんなんだなぁ』

……っ!

 陽気な声を響かせるグリに、苛立つ気持ちがわく。
 ――そこに、喜びのようなものを感じてしまうのは、私の考えすぎか、グリの演技か。
 だけれど、それを怒るのは、八つ当たりだともわかっている。

(いけない……)

 頭をふって、気持ちを落ち着かせようとする。
 ……グリの声は、緊張感が抜けていた。
 それは、すぐに行動へ移るべきではない、という意味でもあるのかもしれない。
 警戒を解いたグリに合わせ、私も肩の力を抜く。
 男に眼をやれば、やはり先ほどより、私達に向ける警戒心のようなものが減っているように想えた。

(どうして、襲ってこないの?)

 だが、そんなことを聞けるはずもない。
 ……グリの言うように、本当に、説得されたのだろうか。

(あれほど、話すことに対して、疑問を持っていた男が?)

 私がためらい、悩んでいる間に、彼女は男の前に近づいている。
 互いに近づいた距離感は、その顔にも現れていて。
 ――立ちつくす私の場所を、どこにすべきか、失わせる。

(……失うなんて、必要だなんて、ことはないのに)

 ただ、そのまま立ちつくす私を横にして、男が口を開く。
 先ほどより、ほんの少しだけ、硬さを覗いた声で。

少し、長くなるぞ

はい!
それで、あの……

なんだ?
なにか、聞きたいことがあるのか

 ここまで来て、なにを聞こうというのか。
 私も気になりながら、彼女の言葉を待っていると。

……お名前を、教えていただいても、
いいですか

 ――先ほど、私へも問いかけたその言葉を、彼女は微笑みながら告げた。

……名前、か

 一瞬、男はためらったように口を開閉した後。

ケッツァー

 短く、言い捨てるように。
 だがはっきりと、男は自分の名前を、口にした。

それが、俺という存在を避けるために、周囲がつけた名だ

(存在を……避ける……)

 避けるために、名前をつける。
 ――名前には、私と他の形を分ける以外にも、そうした考え方もあるのか。

(私の、名前は……)

 もしこの闇の中で、私の名前を知ったうえで、形を続けられる者がいたとしたら……。

ケッツァーさん、ケッツァーさんですね♪

(……でも彼女では、参考にならないわね)

 彼女の嬉しそうな表情を見ると、自分の暗い感情が、おかしいことのように想えてくる。

(……グリの言うとおり。緊張と緩みの繰り返しは、疲れるわ)

 そうは想うけれど、彼女のようには、ふるまえない。

ケッツァーさん♪

 穏やかな声で何度も、彼女は男の名前を口にする。
 正面に立つ男の口元が、何度目かの時に、少しだけ曲がった。

俺にとっては、忌むべき名前だがな

あわわ、それでは……
あまり、お呼びしない方がいいでしょうか

 低く、じっとりとした男の言葉に、彼女は慌ててそう聞くが。

かまわん。
俺の過去を語るなら、どうせ必要になる呼び名だ

 少しだけ目尻を下げ、呟いた声。
 それは……男が形を得てから、今までで一番、疲れを感じさせる響きを持っていた。

そう。
長い、長い……話、だからな

(……そうか)

 私は、気づいた。
 男の瞳と唇が、少しだけ揺れたことに。
 今までと違う、なにかを感じたような、奇妙な動き。

(……緊張と緩みが疲れるのは、私達だけでは、ないのかもしれない)

 先ほどから感じていた違和感に、私はようやく、気づき始めていた。
 間違いか、気のせいか。そう想っていたけれど、どうやら違うようだ。
 ――男の注意や意識は、依然、最初のままと変わらない。
 特に私に対しては、なにかを行えばすぐにでも動きをとれるよう、意識を払っている。

(でも、彼女に対しては……戸惑っている、のかしら)

 彼女に向ける眼は、少しだけ、柔らかい色を持っているように見えた。
 ――その柔らかい色は、彼女が信じ、男にあると譲らなかったものなのかもしれない。

(油断は、できないのでしょうけれど)

 男の表面に浮かんでいるのは、今だけの仮面なのか、本当の内面が現れたものか。
 ……どちらにしろ、それを引き出したのは、彼女なのだ。

(彼女には、なにか……ある、のかしら)

 そう想いながらも、そんなことはない、と自分で否定する。
 もし、そうであるのであれば、私との違いはなんなのか。

 ――かつて、そう信じていた私との違いは、どこから始まったのか。

 答えのでない問いかけを、無意識にしていることに気づいた時。

……まだ、ケッツァーという名すら、存在しない頃のことだ

 口を開き、男は物語を始めた。
 自分が体験した、かつての世界。
 私達が存在していなかった、彼が住んでいた、かつての世界の話を。

物心ついた時、俺は……

もの、ごころさん?

……物心、わかるか?

えぇと……
リンがリン、って、
わかった時でしたか?

そうだな。
大まかに言えば、そうだ

 男は頷(うなず)いて、同じ話し方で言葉を続けた。

俺はその時、すでに奴隷であり、誰からも見捨てられていた

誰、からも……?

さっきも言っただろう。
生まれた時から、俺は、祝福されていない子だった

 いや、と、男は小さく呟いて、言葉を続ける。

……祝福されて生まれてくるものが、当たり前ではないが

 男はそう言いながら、私と彼女、それぞれに視線を送った。

 ――私には、最初に浮かべていたような、挑発的な色を。
 ――そして彼女には、少しだけ眼を陰らせた、同情したような色を。

 視線を見返すように、私は口を開く。

そうね。
そうであるなら……
こんな闇が、世界を覆うことも、
なかったはずだから

 想わず漏れた、私の皮肉。
 男もまた、鼻を鳴らして頷(うなず)く。

そうだな。
この闇しか知らんままに、
今があるのなら……
俺の過去など、実感はわかないかもしれんな

なら、やめる?

 ――さっさと終わりにしたいのは、変わっていない。
 しかし挑発は、彼女の存在があっさりと消してしまう。

あの、ケッツァーさん

 私の物言いに、彼女が口を挟んでくる。
 それは、ようやく受け入れてくれた男の言葉を、さらに引き出したいためか。
 それとも。

生まれた時から、誰も喜んでいないなんて……そんなこと、あるんでしょうか

 眉を下げ、不安そうに小さく問われた、その言葉を。

ある

 迷いなく、切り捨てるように、男は返した。

そんなこと……悲しすぎます

 訴えるように、小さく囁く彼女。
 だが、男は揺らがない。――揺らいでは、いけないかのように。

お前達も、そうだろう?

……リンには、スーさんがいます

 すっと、手元の光に空いた手をかざしながら、彼女は微笑む。
 暖かいわけでもないのに、光に自分の手を当て愛おしむ姿は、なにかを求めているようにも見える。

それに、セリンも。
グリさんが、いてくれるんですよね

……そんなこと、今は関係ないことでしょ

 彼女の無邪気な問いかけに、私はなぜか、胸の奥がくすぐられたような気持ちになる。

(挑発を流されるより、居心地が悪いわ)

 そんな私の心境を、知ってか知らずか。

『タハーッ、一時期はあんなにギュッて頼ってくれたのに! グリ、悲しいぜぇ……』

 ……わかる。これは、私にも、よくわかる。

こんなふうに?

『イタタタッ!? ちが、違うぜぃセリン!?』

 ぐっと空いた手でランタンの上層部をつかみ、ギュッと握りしめる。
 ――そんな、いつだったかも闇に置いてきたことを、想い出させなくても良いじゃない。

で、ですから、ケッツァーさんも……

悲しくは、ない

 彼女が必死に否定しようとした言葉を、男は、変わらず叩き切る。

なぜなら、それが俺の現実だったのだからな

現実……

 呆然と呟く彼女の横で、私は、自分が目覚めた時を想い出す。

 ――私と彼女は、闇に生まれた中、幸運にも光があった。
 ――けれどそれは、逆もありえたはずのこと。
 ――形を持てない、闇でしかなかったことも、ありえたこと。
 ――かつての世界に、その境目は、あったのだろうか。
 ――光と闇の入り交じる世界で、よりよい形での恩恵を与えてくれる……そんな、幸運が。

……生まれた時から、奴隷と言っていたわね

 私は頭を切り替えて、話を続けるよう、男へ投げかける。
 彼女に任せていても、一つ一つの反応が大きく、なかなか進まなさそうに想えたからだ。
 話をふり、引き出し、終わりを待つ。
 やはり、打ち切るように進めても、よかったけれど。

(私を見る視線は、変わっていないようだから)

 警戒され、手間取られても困るからでもあった。

……ああ

 奴隷、という言葉に反応した男は、右手で左肩を押さえる動きをした。

知ったのは、もう少し大きくなってからだがな

 ――その肩には、なにかがあるのかもしれない。
 気にはなったけれど、私は、かつての世界の男の立場を聞くことにした。
 そこから、男の放つ危険な空気の意味合いを、わかる気がしたからだ。

なら、あなた……もしくはあなたの親は、誰かに従う立場だったのね

そのとおりだが……少しだけ、違う部分もある

違う、部分……?

 奴隷というのは、確か、誰かに従わなければ殺されてしまうような立場の者だったはずだ。
 ――過去に会った、奴隷の少年。
 怯えながら彼は、でも、周囲の闇に驚いていたのではなかった。
 自身の主から、切り離された事実。仕えていなければ、なにをされるのかわからない、恐怖。
 少年の心には、視界に映る以上の闇が、ずっと満ち満ちていた。
 闇に生まれた私ですら、少年の主が彼へ為した行為に、胸を痛めてしまうほどに。

(……確かに、違う)

 奴隷、という言葉は同じなのに、見えるものは全く異なる。
 男には、あの少年のような歪みは、感じられない。
 誰かに植え付けられ、逃れられなくなってしまった、へばりつくような闇の歪みは。
 男から感じるのは、むしろ――。
 違う部分に関して、思考を巡らしながら、問いかけようとした時。

あの、どれい、さんって……誰かの役になるよう、その、がんばられる方でいいんでしょうか

誰かの役に、がんばる……?

 奴隷。その意味する存在を何度か知る私には、ずいぶんと甘い言葉。
 ……ずいぶんと甘い意味に教えたのは、あの、手元の光だろうか。
 最初に出会った時から、変わらずに淡い光を放つ、マッチのような光。
 カンテラというものに似たグリの光に比べれば、手元で淡く輝くそれは、どこか頼りない。
 しかし、消えずに光を放ち続けるそれは……その雰囲気は、確かに、彼女とよく合ってはいるのだが。

ち、違うのでしょうか

 戸惑う彼女を見ながら、私は、奴隷についての知識を話す。

違うわ。
奴隷とは、意志も人格も、その生死も――その主人に、定められた者。
その存在を、自分のものと出来ず、他人に決められた者のこと。
そして、そうした状態に逆らえない者のこと、よ

 ――そしてまた、あの時の少年のことを想い出す。
 考えることも、求めることも、自分の意志を述べることも、全てが閉ざされた姿。
 最後まで彼は、私に、怯えた瞳を向け続けたまま、霧散してしまった。
 ……そして、光になる瞬間、主に再会することを願ったのだ。
 勝手に眼の届かない場所に来てしまった、その罰を恐れて。

そう、まるで……

 言ってから、ふと、暗い考えが頭に浮かぶ。

 ――まるで、この闇に逆らえない、淡い光のようなもの。
 ――自分の意志や考えを持ちながら、周囲の意志一つで、なかったことにされてしまう存在。

(なら、私達は……)

おおむね、その認識でいい

 男の声が、耳に響く。
 ……不覚だけれど、その声の低さに、少し落ち着いてしまう。
 今日の私は、物思いに耽(ふけ)りすぎているから。

奴隷とは違う、とは、どういうこと?

物心つくまでは、その意志のままに、生きてきた。そして、そうせざるをえない力が、俺にはあったのだ

……わかるような、わからない答えね

 意志を持つ前の、段階がある。
 ――それは、かつてグリに聞いた、成長が終わる前のことなのかもしれない。
 さっき、男が彼女へ問いかけた、物心もその一つ。
 人も動物も魔物も、ある程度成長するまでは、その役目を果たすことは出来ない。
 ――この闇の中で出会う形は、始めから、その形ではなかったのだと。
 そう、グリに教えられた。

(私のように、この形のまま……変わらないということは、ないのだと)

 ……それは後程、私が自分で気づいたことだったけれど。

(私や彼女のような形となるには、長い時間がかかる。……そう、だったわよね)

 その成長がすむまで、命を育くむ必要がある。
 誰かに、それを見守り、支えてもらう必要があるのだと。
 ――そう、聞いていたのだけれど。

では、あなたは……奴隷としては、生まれなかったのね

 ありったけの知識から解釈して、推測を述べる。
 だが。

違う。生まれた俺は……

――魔物だったよ。神という名の、な

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