十五年前のことだ。

羽邑 由宇

花楓さん、こんにちは

……瘦せ衰えた彼女は、今日もベッドの上。

二ノ宮 花楓

由宇、来てくれてありがとうね

今にも消えてしまいそうな儚げな笑顔で、僕を出迎えてくれる。

入退院を繰り返す花楓さんは、僕の茶道の師匠だ。

茶道のことだけでなく、なにか悩みがあれば、すぐ花楓さんを訪ねた。

いつもお世話になっている彼女は、しかし、人より体が弱かった。持病があるだけでなく、いよいよ六十路目前ということもあり、最近は病院に居る時間が増えた。

このまま死んでしまうのでは……今までより長い入院期間は、僕を不安にさせるには十分だった。

二ノ宮 正蔵

由宇君、今日も来てくれたのか

不安を打ち消すようなタイミングで病室へ入ってきたのは、花楓さんの旦那さん、正蔵さんだった。

羽邑 由宇

正蔵さん、こんにちは。もちろんですよ

二ノ宮 正蔵

いやはや、ありがたいな。花楓、ほんとうにいい弟子に恵まれたな

二ノ宮 花楓

えぇ、心強いわ

……違和感を覚える。

なんだろう、今日の正蔵さんは、なんだか--------。

二ノ宮 正蔵

由宇君、私は用事があるから、失礼するよ。花楓をよろしく

羽邑 由宇

あっ、待ってください

二ノ宮 正蔵

どうしたんだい?

羽邑 由宇

あ、あの、えっと、

羽邑 由宇

ぼ、僕も行きます!!

始まりなんてあっけないのだ。それだと気づかぬうちに、物語はもう始まっていて。

気づいた時にはもう、取り返しのつかない段階まで進んでしまっていて。

でもこれだけは、何度でも、はっきり言える。

僕はあの時考えなしに正蔵さんについて行くと言ったけれど、

根拠のない違和感にただ突き動かされただけだったけれど、

あの選択を後悔することなど、決してないと。

羽邑 由宇

何処へ、向かっているんですか?

二ノ宮 正蔵

覚悟があるのなら、黙って、ついてくるんだ

電車とバスを乗り継ぎ辿り着いた街、時蔵。

此処に来るまでずっと沈黙が続いていたけれど、僕はいよいよ我慢できずに口を開いたのだが。

いつも穏やかな正蔵さんの、険しい表情。初めてみる、人間の純然たる決意。

軽率な自分が恥ずかくなる。けれど僕は、

羽邑 由宇

はい、わかりました

彼の決意にあてられるように、迷いなく返事をしていた。

見慣れない路地裏、人気のない、静かな街。

時蔵街、此処は、死んでいる。

この死んだ街の路地裏の先で、いったいなにが待っているのだろうか。

物語は、そうだと気づく前に始まっているものだ。

気づくのが遅すぎたのだろうか?

もっとはやく違和感に気づいていればなにかが変わっていたのだろうか?

いまさらなにを言っても、現実は変わらない。

すでに動き出していた状況を、自分の知らないところで動いていた現実を、僕は僕のものにしたかったのかもしれない。

最初の最初、僕が物語の登場人物になったときに望んでいたことは、そんな、どうしようもなく自己中心的なことで。

これから主要人物にまで上り詰めることになるなんて思いもせずに。

深く考えもせず、ただ、

僕はその店へ足を踏み入れたのだった。

時屋 吉野

いらっしゃいませ

店主は、作り物めいた綺麗な笑顔で、僕たちを、出迎えた。

これは、十五年前のことである。

第十六話へ、続く。

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