時屋 吉野

あまり、怖い顔をなさらないでください

羽邑 由宇

怖い顔なんてしてませんよ?

時屋 吉野

……あまり余裕がなさそうですね

羽邑 由宇

今日はその話じゃありませんよ

いつこの日がやって来てもおかしくはなかった。

心の準備だって……していたつもりで。

でも僕はきっと、日常に浮かれていた。舞花を見守って、ずっとそばに居られるような気になっていた。

……いや、今はそんなことはいい。僕のことは、いい。

今はそう、僕は舞花のために此処に居る。花楓さんの頼みは頼みとして、果たすけれど。ふたりのために此処に居ることに違いはないけれど。

僕が今、こうして、こんな状態で生きているのは、舞花のためだ。

あぁ、でも、落ち着け。

時屋吉野、この人のペースに吞まれてはいけない。この余裕に満ちた表情に、心を乱している場合ではないのだ。

まずは、役割を果たさなければ。大丈夫、そのくらいの時間、いまさら惜しくはない。

残された時間はすくない。けれど、出来ることを、取りこぼさないように、確実にこなさなければいけない。

無駄なことなんてひとつもないんだと、信じてきたし、信じ続ける。

だから、落ち着かなければ。

羽邑 由宇

花楓さんから、質問を預かっています

羽邑 由宇

今花楓さんは、末期の胃癌で入院しています。余命は……半年です。そのことについても訊きたいことは山ほどありますが、まずはひとつ、花楓さんがこの店に来れなくても、時間を売っていただくことは可能ですか?

時屋 吉野

癌……そうですか。それは問題ありませんが、今日は無理ですね。花楓様の私物をお持ちください。付き合いの長い、親しみ深い物を

羽邑 由宇

わかりました、花楓さんに伝えて、次回持ってきます

これで、ふたりから任された役割は果たしたことになる。

……今日ひとりで来たほんとうの目的の切り出し方について迷っていた僕に、時屋さんの小さな笑い声が届く。

時屋 吉野

それだけではないのでしょう?奥へ行って、掛けていてください。看板を下げてきます

羽邑 由宇

……わかりました

見透かすような態度。きっとほんとうに読まれているのだ。……悔しい。

作り物のようだった--------舞花が時屋さんに抱いた第一印象だ。

ほんとうに、その通りだと思う。感情が全く読めない。いつも穏やかな表情をしている。

驚くような戸惑うような、そんな動揺が顔に現れても、それは作り物なのではと思わせるような……昔から変わらない、時屋吉野という人間の雰囲気。

背筋が凍るような気持ち。……でもだからこそ、冷静さも取り戻せた気がするから癪だった。

店の奥、此処へ来るのも……何年ぶりだろうか。

時間が過ぎていくのは恐ろしくはやい。遅いと感じたことは、あの日以来……ない。

別に、なにか雰囲気が変わるわけではない。時計や砂時計が所狭しと並び、本棚には本がぎっしり詰まっている。

変わったのは店ではない。

此処で変わったのは、僕の人生、そして、正蔵さんの人生。

だからそう、すこし移動しただけで、こんなにも息苦しさを覚える。

後悔などない。僕にも、おそらく正蔵さんにも。

でも……それでも、どうしようもなく、自分に対する違和感を思い出す。

歪んでしまった時間を、失くしてしまった時間のことを、思い出す。

時屋 吉野

では、お話を伺いましょうか

この人に頼らなければ、どうしようもない問題だ。こんなに胡散臭くても、僕はこの人を頼るしかない。

深呼吸をして、僕は切り出した。

羽邑 由宇

舞花が思い出しました、正蔵さんとの『記憶』を

羽邑 由宇

いちばん守られるべきは、舞花だ。なぜ彼女が、あの『記憶』を取り戻せるんです?

羽邑 由宇

説明、してください

なにも言わず、彼はただ僕をみつめた。……表情を、一ミリたりとも崩すことなく。

そして、悠然と、こう言い放った。

時屋 吉野

なにを言っているんです?

時屋 吉野

私が守るべきものは、契約です。契約の上で取引した、『時間』です

時屋 吉野

私には、契約者様の大切な方を守る義務など、ございません

頭が真っ白になる。

守るべきは、契約。時間。

……じゃあ、僕は、一体なんのために契約を?

時屋 吉野

いやはや、さすがの私も驚いてしまいました。そんな責務を果たす利益など、私にはないというのに

羽邑 由宇

本気で、言っているんですか……?

時屋 吉野

本気もなにも、羽邑様、私は貴方とそんな契約を交わした覚えはございません

羽邑 由宇

『記憶屋』に行ったんですよ、舞花は

時屋 吉野

あぁ、あのお人好しがやっている慈善事業ですか。それがどうしたのです?

羽邑 由宇

は……?お人好し……?

時屋 吉野

彼は、自分が預かるのは依頼人の『記憶』で、それは元は依頼人のものだからと対価をほとんど取りません。ただえさえ実体のあやふやな商売だというのに、あれでは店を構えている意味がないですから

羽邑 由宇

貴方はそれが気に食わないと言うんですか?

時屋 吉野

気に食わない?いえいえ、気にも留めておりません。実体のないものを取り扱うという点は確かに共通しておりますが、それ以外はなにもかもが異なっています。気にもなりません

時屋 吉野

だから、舞花さんがあの店に行ったからと言って、私には憂う理由はないということです

……まったく取り合う気はないようだ。

舞花はなぜ、正蔵さんとの『記憶』を……?

あの『時間』は、現実世界に関わるものではないと、僕のすべてが変わったあの日に、時屋さんは言った。

……思い出さない保証なんてなかった。それはわかっている。

だからこそこうして、『時間屋』へやって来たというのに。

頭がうまく回らない。

僕は、これから、どうすればいい……?

残り時間が、いやに強く主張してくる。

お前に、もう猶予などないのだと。

舞花をこの店から遠ざける術を探せ、と。

第十五話へ、続く。

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