彼女は今まで、この光景しか見たことがない。
今まで病気で寝たきりで、外の世界を見るどころか、家の外に出たことがない。
その足は家の木の床と、ベッドしか感じたことがない。
その目は決して栄えてはいないながらも活気のある街を見たことがなく
その耳は騒々しくすら感じる人々の声を聞いたこともない。
彼女は今まで、この光景しか見たことがない。
今まで病気で寝たきりで、外の世界を見るどころか、家の外に出たことがない。
その足は家の木の床と、ベッドしか感じたことがない。
その目は決して栄えてはいないながらも活気のある街を見たことがなく
その耳は騒々しくすら感じる人々の声を聞いたこともない。
……ねぇ、またお話聞かせて?
あぁ。今日は何がいいかな?
んー、ミュレクの洞窟の話、また聞きたいかも
君も好きだなぁ。構わないよ
あれはもう半年も前か。私は道に迷ってしまってね、森で立ち往生してる時に通り雨がやってきた。木陰に逃げようとも思ったが、どうも葉がろくに付いてない季節でね、途方に暮れた私は偶然見つけた洞窟に避難したんだ。そしたらそこには――――
私は、彼女のと外を繋ぐ唯一の接点だった。
私は旅人として何年も様々なところを旅してきた。
親の残した遺産を食いつぶしながら。
そして、偶然立ち寄ったこの街の雰囲気を気に入り、腰を落ち着かせた。
そこで天啓のように出会った彼女に付き添い、こうして毎日私の体験談を聞かせてやっている。
ありがとう、旅人さん。なんでだろうね、旅人さんの話聞いてると生きる気力が湧いてくるんだ。あぁ~こりゃこの目で見なきゃな~みたいな
随分余裕じゃないか。その調子だ、病なんかに負けてはいけない。百聞は一見に如かずというし、諦めなければ実際に見て感動できる日が来る
……ねぇ、旅人さん
その時は……一緒だからね。また勝手に旅に出ちゃ……嫌だからね
…………あ、あぁ
彼女が好きだった。
思慮深くて、それでいて臆病で、優しくて、笑顔が輝いてる
彼女が好きだった。
いつからこの気持ちが移ろいでいったのだろう。
ただの友人として、時には妹や娘に近い想いが、いつのまに予期せぬものに変わっていったのだろう。
私は、いつから彼女に恋していたのだろう……
それから数か月後
奇跡が起きた。
すごい……大きい
そうだろう?
彼女の病気が奇跡的に完治した。
勿論奇跡的なんてものは元来ありえない。
彼女と街を歩く夢を諦めきれなかった私が、街の人に頭を下げたのだ。
他所から来た旅人が。と追い返されると思っていたのだが、実際はそんなこともなく予想よりもあっさり金を借りることができた。
結果、大きい町の医者に診てもらうことができ、彼女も無事治った。
旅人さん、本当にありがとう。お金、ちゃんと返すから
私は何もしていないさ。金を出したのはここの人達だ。お礼をするべきは彼らに、だろう?
ううん、勿論この街の人にも感謝してるよ。でも、旅人さんには本当に沢山の物をもらったから。どうやって返せばいいいのか分からないくらい
私がかい? 君に何かを与えたことがあったかな?
旅人さんのお話。私ね、本当に聞くのが好きだった。貴方は私にとって窓みたいなものだったんだ
尚更お礼しなきゃなんて思わなくていいよ。窓は恩賞も報酬も求めないだろう?
そーいうの屁理屈。それに今の窓は比喩で旅人さんは人なんだから。お礼をもらう権利があるの
私がしたいことなんだからさ、やらせてよ。いいでしょ?
……ああ、そうだね
それとね、旅人さん。私に文字を教えて。私、旅人さんみたいに物語を作ってみたいんだ
構わないけど……私の話はフィクションじゃないんだけどな…………
あはははっ
このまま丸く収まってしまえば、この話は「良い話だった」と終わることができるのだろう。
敢えて<エピローグ>を語るならば、彼女は勤勉だった。
病み上がりとは思えないほどよく働き、仕事のない日はよく勉強した。
そして、寝る前にはいつも私の話を聞きたがった。
ミュレクの洞窟の話は、何回したか知れない。
彼女は、綺麗だった。
断言しよう。何度でも言ってやろう。
彼女はまさに天使だった。
綺麗で優しく、彼女の笑顔は周りの人々を安心させた。
そして、私は醜かった。
私は、自分という人間を見誤っていたらしい。
さて、<プロローグ>はお分かりいただけただろうか。
美談で終わらせたいという御仁は、ここでお引き取り願おう。
潔癖な方には、この話の終着点は些か見苦しいだろう。
それでも、という勇者はそのままご着席を。
これより、本当の始まりです
………うん?
そして、外に出てみると、見事に空は腫れてお星さまが出ていました。おかげで私は進みたい方角を知ることができたのです
おしまいっ
やーっ、面白いね! 君が考えたの?
ううん、そうじゃないんだけど……あまりに好きだから覚えちゃったんだよね
あれは……彼女か?
仕事の休憩時間なのか、知らない男性と話している。
そして、今話していたのはミュレクの洞窟の最後の部分だ。
何度も何度も聞いてるうちに覚えたんだろうか。
それはいい。
嬉しい限りではある。
だが、隣にいるその男は誰だ。
何故君は、その男にそんなに明るい笑顔を向けているのだ。
寧ろ、私のこの感情は何なのだ。
いつからか、君の笑顔が遠く離れていってるような、
そんな寂寥感が胸を漂い始めていた。
………ねぇ、旅人さん。今日ね、アンドレさんとお話しできたの。この前旅人さんに聞かせた物語、面白かったって
……そうか。良かったじゃないか
彼女は病気が治ってからも変わらず私に笑いかけてくれた。
それが嬉しくて
その笑顔を壊したくなくて
彼女の前では努めて普段通りでいようと思った。
私の中の何かが致命的に変わっていくとしても
彼女との関係は変えたくなかった。
旅人さん、今日も話聞かせて
もう私の話のネタは尽きてしまってるよ。寧ろ、君が話を作ればいいんじゃないのかい?
そんな意地悪言わないで。私はミュレクの洞窟を暗記する位好きなのよ。聞いたことあるかないかなんて関係ないの。私は旅人さんの話が好きなの。だから聞きたいの
…………ありがとう
君の言葉は素直に嬉しいよ。
けど、君はその屈託のない笑顔を他の人にも向けるんだろう?
私の話を、君は他の人に嬉しそうに語るんだろう?
きっとすぐ、そこには私の入る余地はなくなる。
知らない男と笑いあい、楽しそうに暮らしながら私のことを忘れていくのだろう。
子供が親離れするように、彼女はいつの日にか私を必要としなくなる日が来るだろう。
私は、もういらないんじゃないか……?
その疑問は一度よぎったら頭からなかなか離れず、気づけば私は荷物をまとめていた。
彼女にバレないように、私は街を出奔した。
認めよう。
私は逃げたのだ。
自分の居場所を失うのが怖かった。
それ以上に、彼女が私から離れるかもしれないという現実から逃げたのだ。
他の男に笑いかける彼女を見てるのが怖かった。
他の男に彼女を取られるかもしれないという未来が怖かった。
私は、彼女から逃げたのだ。
旅人さん、またお話聞かせて
私は、自らあの手を放したのだ。
ただ、私が臆病だった故に。
それから、あてもなく地方を旅した。
それでも、なるべくあの街に近い雰囲気の街は避けた。
雰囲気が似てるというだけで彼女のことを思い出すし、女性とすれ違う度に振り向いてしまう。
なんとも未練たらしい人間なのだとその都度恥じてきたが。
それでも、長い間離れてみて、改めて分かったことがあった。
彼女に会いたい
彼女に聞かせたい話が沢山できた。
何か面白い出来事に遭遇するたびに話を聞いて楽しそうに笑う彼女を想像した。
その度に、胸の奥が温かくなった。
帰ろう。
くだらない意地で街を出てきてしまって、今更後悔してきた。
彼女はきっと怒るだろう。
けど、ちゃんと謝れば許してくれるだろうか。
きっと、そうに違いない。
こうして私が街に帰ることになった。
出奔してから、既に3年が経っていた。
久しぶりの街は静かだった。
まるでみんながどこかに行ってしまったかのような、閑散とした雰囲気があった。
………おい
えっ?
彼は……確か、彼女にミュレクの洞窟の話を聞かされてた青年だ。
胸にうっすらと昇るモヤモヤを必死に押し殺す。
もし彼女が彼と一緒に暮らしていたとしても、私にはそれを責める資格がない。
アンタ………
彼は私を見つけると、大股で近づいてきて――――
気づいたら私は空を向いていた。
口の中が切れたのか、血の味がうっすらする。
あぁ、私は今殴られたんだと遅くなって理解した。
アンタ今までどこに行ってたんだよ!!
…………!?
あの子はなぁ!! ずっとアンタのこと呼んでたんだ!! アンタの話ずっと聞きたがってたんだ!! なのに、なのにアンタはぁっ………!!
その場でズルズルと崩れ落ちる男。
私の襟をつかむ手は、ひたすら震えていた。
圧倒されながらも、私の背中を嫌な汗が流れる。
嫌な予感が、頭から離れない。
あの……彼女は…………?
…………
死んだよ
…………えっ?
今、なんと言った?
死んだ?
彼女が?
あの人が、もうここにいない?
アンタがいなくなってから、あの子は壊れちまった。俺達を不安にさせないために笑いながらも、いつも目は笑ってなくて、気が緩んだらずっとアンタのことを呼んでた。アンタから聞いた話をずっと諳んじてた
微笑いながら、泣きながら
捨てられ、裏切られたと絶望しながら
彼女は、私から聞いた話を「読み」続けた。
私と過ごした日々を、思い返すように。
私が彼女に与えた傷跡は
私が勝手に抱いた傷跡よりもずっと深かったのだ。
ぁ…………
1年経って、あの子の病が再発した。心が沈んでたせいなのかもな……あっという間だったよ。最期まで……アンタのことを呼んでた
ねぇ……旅人さん
また、お話、聞かせて…………?
あっ………あぁっ……!!
体が言葉を捨てたかのように、上手く喋ることができない。
告げられた事実が渦のように頭の中をかき混ぜ、私を壊していく。
どれだけ否定しようとも、禍々しいほどに頭が悟ってしまった。
私が、彼女を殺したのだと
あああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
喉が裂けるほど絶叫するしか、思いつかなかった。
感情を吐き出さないと、体が破裂してしまいそうだった。
二度と街に来ないことを条件に、彼女の墓の場所を教えてもらった。
虚ろになった目で、彼女の墓を見つける。
そっと触れてみると、当然ながら固かった。
まるで突き放すかのように、冷たかった。
触れてみて、改めて実感する。
彼女は、もういないのだ。
私の話をねだる人が、私に明るい笑顔を向けてくれる人が
もう、どこにもいないのだ。
ごめんね、君を独りにさせてしまって
墓石を撫でるのは縁起が悪いと聞いたことがあるが、関係なかった。
こうでもしないと、彼女は許してくれないだろうから。
私達は、互いに必要とし合っていたんだ。
なのに、私が臆病だったせいで握っていた手を放して逃げ出してしまった。
過ぎた時間はもう戻らない。
私はきっと、一生自分を恨み続けるだろう。
……今から2年と半年も前か。私は道に迷ってしまってね、森で立ち往生してる時に通り雨がやってきた。木陰に逃げようとも思ったが、どうも葉がろくに付いてない季節でね、途方に暮れた私は偶然見つけた洞窟に避難したんだ。そしたらそこには――――
だから、これはせめてもの償いだ。
彼女に私がしてやれる、罪滅ぼし。
私は、とつとつとミュレクの洞窟の話を語り始める。
今回の旅で、沢山君に話したいことがあるんだ。
どうか、聞いてくれないかな………?
そう、切に願いながら。
旅人さん、もっと話聞かせてよ
……あぁ、いいとも
きっと全てを話し終えた時、私はもう動くことはないだろう――――
今度こそ、君と旅に出るために