彼女も私も、不思議そうな声を上げる。
――確か、すごく前に、グリに聞いたことがある。
かつての世界に生きた者が、死んでしまった、その後のこと。
良き者は天国、悪しき者は地獄に行くと、言い伝えられていたらしい。
冥府というのは知らないが、似たようなところなのかもしれない。
じ、ごく……め、いふ……???
……じごく……めいふ……
彼女も私も、不思議そうな声を上げる。
――確か、すごく前に、グリに聞いたことがある。
かつての世界に生きた者が、死んでしまった、その後のこと。
良き者は天国、悪しき者は地獄に行くと、言い伝えられていたらしい。
冥府というのは知らないが、似たようなところなのかもしれない。
『冥府ってのは、地獄に似てはいるが、もう少しいろいろな意味を含んでたような気がするなぁ』
グリが少し説明をくれるが、大きく外れてはいないだろう。
(死しても、その先の世界があると、願えるのなら)
かつての世界に生きるということは、それだけ、惹きつけられるなにかがあったのだろうか。
死してもまだ、存在し続けたいと、そう願えるなにかが。
(……では、今のこの場所は?)
――今まで出会い、言葉を交わした、数えきれない顔と声。
その内のどれだけの形が、この場所の先を、想像することができたのだろう。
わからぬということは……違うのか
低く抑えるような男の呟きは、どこか残念そうな響きにも感じられた。
それは……と、私も想う。そしておそらく、男が想っているのは、同じ考え。
俺の行く先は、その辺りしかないと、想っていたのだがな
――やはり。
だからこそ、天国という言葉は、出てこない。
(良き者、悪しき者。その違いは、私にはわからないけれど)
わかることが、一つある。
男の身から発せられる空気は、今までに出会った者達の中でも、特に鋭いものだ。
それはかつての世界においても、恐れられていたのではないか……そう、感じざるをえないものだった。
だからこそ私は、男の動きから、眼を離すことはしない。
じごくやめいふって、なんですかスーさん!?
……そう。彼女のように、慌てたような素振りなんて、見せていいはずがない。
慌てたように、手元の光へ問いかける彼女。
ちらりと横目で見れば、光に向かって頷きながら、悩むような声を上げるのが見てとれる。
(答えられないのか、彼女が理解できないのか)
男の言葉を理解しようとする彼女の様子には、備えというものはまるでない。眼の前の男から感じられる、危険への備えが。
私は、男の視線に逆らうためと、横でうなる彼女のために、説明を口にしていた。
地獄とは、死した者が訪れる、償いの来世。
他者を不幸にした、罪人が行く場所。
……そう、だったわよね?
……決して、彼女を助けるために言ったのではない。男に対して、知らないという不利を、見せたくなかっただけのこと。
なのに。
は、はうぅぅぅ???
その説明を聞いた彼女は、さらに混乱を増したのか、悩むような声を大きくする。
……その様子で、人とお話したいなんてよくも言えたものね、と想ってしまう。
『セリンよぉ、相手にあわせて話すってこと、久しぶりだからって難しすぎるんじゃねぇ?』
(私に、地獄のことをそう教えたのは、グリでしょうが……!)
そう言いたいが、場が混乱するので、ぐっとこらえる。
しかし、不思議なものだ。
じごく、らいせ、つみ……ううん、と……じゃあ、じごくはわるいひとが……
難しい顔で、カタコトの単語を繰り返す彼女。
自分の中の言葉も組み合わせて、おそらく、必死に理解しようとしているのだろう。
(理解が早いと想えば、わからないこともあるのね)
男の危険から眼を離さず、しかし私は、彼女の悩む様子に少し驚いていた。
状況を見抜き、素早く動く判断力はあるのに。
こうした、少しややこしい単語を使った会話ややりとりは、あまり上手くないのかもしれない。
『苦手なのかもなぁ。空気は読めても、文字は読めないって』
……そういうもの、なのだろうか。
『生きてたり考えてたり、存在するヤツってのは、なにかしらの得意や不得意があるものさぁ。セリン、お前さんにもなぁ』
……ッ!
驚きは言葉に出さず、内心で呟く。
(考えたことも、なかった……)
――もしかすると、かつて、あったのかもしれない。
けれど今は、そうした自分という者への考えが、どこか他者のように感じられてしまう。
(……ずっと、進み続けてきた、から)
彼女のアンバランスさに戸惑いながら、自分への疑問も少し浮かび上がる。
どうすべきか、迷っていると。
そう、簡単に言えば……ろくでなしが行く場所と、言えるな。
死んだくらいじゃまだ足りない、という、罪を犯した者の行き先だ
低く、少し笑いを含んだ声で、男は言葉をこぼした。
その言葉は、簡単にはしてあったが、私の言っていた内容とほとんど変わらないように想えた。
そして、私は気づいてもいた。
低く呟いたその声と笑いが、決して楽しげなものではなく、あざ笑うような響きであることを。
――罪を犯し、地獄に行くべきだという自分を、男は笑っているのだ。
そ、そんな……
そんなふうには、見えません
悩んでいた顔を止め、彼女は男の言葉を否定する。
しかし私は、違う部分が気になり、想わず言ってしまった。
ろくでなしは、わかるのね
あの、ろくでなしじゃないと、
リンは想います!
……言葉の意味の方よ
あ、そっちでしたか!
はい、意味はわかります、けど……
落ち込んだ顔から一転し、彼女は、眼を見開く。
マッチを持つ手と、空いた手。両の手を、なにかを握り締めるように、硬くしながら。
でも、やっぱりあなたは、すっごくしっかりされてると想います!
自分の考えを、男に告げる彼女。
だが男は、彼女の言葉を一蹴する。
しっかりしていれば、罪がないと言うのか?
は、はい?
すぐに返された男の言葉に、彼女は驚くような顔と声。
男は、第二第三の言葉を続けて、彼女へと投げかける。
逆に、ろくでなしだと罪となるのか? 動かなく、協力せず、だが人に迷惑はかけない……そういった場合も、罪があるのかね
え、ええと、ええと……???
(……理解が、追いついていないのね)
――あの、マッチの教え方なのか。それとも、彼女が持つ、知識や吸収の力の違いなのか。
男の言葉に、彼女の理解の方は、まったく追いついていないようだった。
(私も、同じだけれど)
語られた言葉が、いったい、なにを言いたいのか。
理解できない私は、逆に考えることをしない。――話す必要などないのだから、理解できないものをあえて取りこむことも、ないからだ。
……訂正するか
だが、彼女のどこか気の抜けた様子と違い、男は真剣な様子で受け答える。
俺は、ただ、この手を振るい続けた。
足を踏み出し続けた。
叫びを止めず、恐怖をふりまいた。
しっかりと、休むことなく――
罪を、重ね続けたのだ
……ッ
低い声で、ゆっくりと語られた言葉は、どこか私の心にまとわりつくようなもの。
ナニカに近寄られた時ともまた違う、払いきれない、重い心地。
そして男が発する圧迫感から、その言葉が偽りでないことは、聞くまでもないことがわかってしまった。
――それは、彼女にも伝わった、はずなのに。
そ、そうじゃなくてですね……!
まるで聞いていない、とばかりに、精いっぱいの言葉を彼女は探しているようだ。
あわあわと言葉を探す彼女と、ひねくれた言葉をつむぐ男。
その会話の進展のなさに、私は口を挟むことにした。
逆を言えば、能動的でしっかりしていても、道を踏み外すということよ。
それは、望む、望まないとに、関わらず
ゆっくり、手元のグリをかざしながら、私は強く視線を向ける。
グリ
『準備は、できてるぜぇ』
……そう。本当なら、戯れはいらない。
私は、グリは、少しでも早く、進まなければならない。
――『永遠の光』。それを、見つけるために。
(けれど……難しい、わね)
男はその身体を動かすことなく、こちらの様子を覗くように、ずっと立ったままだ。
なのに、少しだけ踏みこむことすらためらうような雰囲気が、周囲には満ちている。
それは、周囲を被う闇の圧迫感とは、また違う。……ぼんやりとしたものではなく、明確な、眼の前の形から向けられた威圧感のようなものだと想えてくる。
――グリの光は、まだ、見せられない。
そう判断した私は、あえて男の話にのることにする。
あなたは……望んで、そうなったのかしら。
それとも……やむをえず、かしら
光により浮かび上がる、屈強な肉体。
出会った様々な形を想い出しても、比較できる者がほとんどいないほどの力強さ。
そこに蓄えられた力が、なにを求めるのか。なにを求め、形を保ってきたのか。
(その力を聞きだすことも、対処する際の、理由になる)
――張りつめて硬そうに見えるその節々に、薄い筋が、無数に見える。おそらく、一度断たれて、元に戻ったようなアト。
……私のお腹が、少しだけ熱くなったような、そんな錯覚をする。とてもよく似たスジは、けれど、私も驚くくらいについている。中には、はっきり切られたアトだと、わかる部分もあった。
――身体を覆う、硬い肉の塊は、その身を守るためのものだろうか。それとも、その身体へ刃を向けた者を、打ち倒すためのものなのだろうか。
男の身体は、もちろん裸ではなかった。服とよばれるものは身に着けていたし、腕や足、腰などに、生物ではない銀色の塊も見てとることができる。
(あの銀色の塊なら、刃も止められるかもしれない)
けれど、と私は考えてしまう。
もし、その身体を守るなにかを身につけていても……男の身体にとって、そんなものは不要なのではないか、そうも想えてしまう。
両足を闇に立たせ、両肩から力を抜いた男の姿。
先ほどよりはその身の圧迫感を低くしたような男だったが、それでも十分すぎるほど、危険な雰囲気を周囲に放ち続けていた。
……ふっ
観察する私へと、男はまた、自虐的な笑いを漏らす。
どっちも一緒だ。
俺は、罪人と呼ばれ、その手を血に染めたのだからな
……!
驚いて、声が出ない彼女に代わり。
そう
私は、できるだけ感情を浮かべずに、受け流した。
――内心では、もちろん違う。危険は早く取り除くべきだ、そう感じ続けている。
(危険だけれど……男の様子は、ゆるまないかもしれない)
私は、先ほどまでの観察から、行動するしかないと考え始めてもいた。
すっと、グリを握る手に、力を込める。
『やれるのかぃ、俺はかまわんがねぇ』
私は言葉で答えず、グリの取っ手へ指を鳴らす。
とん、とん、とん、と三つ。音はかすかで、気づかれるはずがない程度。
かつて取り決めた、『はい』の意味を持つ合図を、私は静かに送る。
(やるわよ、グリ)
――だが、グリは奇妙な言葉を、私へと送ってきた。
『お嬢ちゃん、また、悲しむぜぃ?』
……
……どうしてこのカンテラは、彼女の肩を持つのだろう。
苛立ちを感じながら、また指を軽く鳴らす。
少しして、言葉なく、光が揺らめき。
グリとともに、私が動こうとした、その時だった。
――私達を照らす空間の影が、少しだけ、動いたのは。
あの、どうして……
どうして、そうなってしまったのですか
理由は、彼女。男に一歩近づき、そう問いかけていたからだ。
(……っ)
その動きは、無意識なのか。グリと男をつなぐ光に、彼女という影ができてしまった。
――彼女の身が危険になろうと、私には、関係がないのだけれど。
(彼女がいると、踏み切れない……)
彼女自身の動きも、彼女を男がどう扱うかも、わからない。
……胸の内の黒いよどみは、ずっと、たまるばかりだったけれど。
『まぁ、もう少し様子を見ても、いいんじゃねぇかぁ?』
……
仕方なく、男の言葉を待つしかなくなった私。
少しして、男は彼女に向けて、口を開くのがわかった。
どうして、か。
それを知って、どうする
……リンは、あなたのことを知りたいんです。
だから、教えて欲しいと想いまして
知りたい……?
俺を、か?
彼女の言葉は、予想外だったのか。
男の声にははっきりと、驚くような響きが込められていた。
はい!
そしてまた、彼女のまっすぐな声も、周囲へと響きわたる。
困ったような顔で、男は彼女に言葉を返す。
俺に、何のメリットがある
言ってから気づいたように、男はまた軽く笑う。
……ふっ。
この世界では、そんな損得の考え自体が無駄なのか
その言葉は、眼の前の彼女へ向けてのもの。
こちらの嬢ちゃんは、少し違うようだがな
――そして、ゆっくりと穏やかに、私の方へと首を巡らせる。
(……っ!)
視線で刺され、内心で驚く。
軽い口調や言葉から、私の方を見ているのだと想ったのに。
(視線の高さが、違う)
『いやぁ。想った以上に、だ、なぁ』
グリも気づいて、悩むような声を私へ響かせる。
そう、男の視線の先にあるのは……私ではなく、グリだった。
――つまり、男は、理解している。
警戒すべきなのは、私ではなく、グリなのだと。
『見られすぎたなぁ』
グリに指摘され、自分の行動を振り返る。
……そして、想い返し、後悔する。
グリを握り、踏み込もうとし、ためらい、言葉を受け流す。
それらが全てつながり、私がとろうとした動き。
細かい動きとはいえ、何度も繰り返していれば、嫌でも眼につくようになる。
私がなにに力を入れて、注意していたか――それも、男には、すでにわかっているのだろう。
『気にしすぎんなよぉ、セリン。ありゃあ、あっちが……鋭すぎるだけだ』
諦めたようなグリの言葉に、ならどうするの、と答えたくなる。
もちろん、男に見せるわけにはいかないから、無言になってしまうけれど。
(ささいな動きにも、気づいている)
男の見立ては、間違っていない。だから、その観察力に、驚いてしまう。
――私もグリも、危険を進んできたつもり、だったけれど。
ほんのささいな動きでも、危険にさらされる環境。
かつての世界で、男はそうした状況にさらされながら、生きてきたのだろう。
そして、そんな状況のなかでも……長い時を、生き延びてきた。
だからこそ身についた、圧迫感と、観察力。その眼を支える、硬い身体。
その光、まぶしくはないが……
あくまで、最初のような恐ろしさは見せず、男は語りかけてくる。
恐ろしくはあるな。
浴びせすぎないでくれ
男のからかうような口調に、精一杯、言い返す。
私は、良い子ではないからね
そう答え、グリを掲げる。気づかれているのなら、あえて見せつけるのも、方法の一つ。
そして、距離は今のままで、前には進まない。
見抜かれていたならば、すぐに動かない方がいいとも考えてしまうからだ。
無言のままのグリだったけれど、私の考えはわかっているはず。
皮肉気に言った私の言葉を聞いて、男は視線を動かす。
良い子、か
視線の先にあったのは、横に立つ彼女の姿。
良い子、の定義は難しいけれど……どちらがそれに当てはまるかと言えば、私よりは彼女なのかもしれない。
――今まで出会った、胸に甘い感触をもたらす人々の影が、そう教えてくれる。
……
男はそのまま、口を開かず、動きもせず、またじっとその場で身を止める。
私もまた、特に感情を見せず、男の様子をうかがうだけ。その視線の意味を、動きを、見逃さないために。
沈黙が生まれ、いつ終わるのかもわからない流れが、続くのかと想われたけれど。
あ、あの、そのじごくってところに、行かないといけないんですか?
――ゆっくりとその空気を破ったのは、やはり、彼女だった。
じごく。地獄。……罪と呼ばれる悪いこと、それをした者が最後にたどり着く場所。
彼女は、その場所に男が行くことに、疑問があるようだった。
(地獄。冥府。奈落。……かつての世界では、そんなにも、恐ろしい者が行く場所が、あったのかしら)
……本当にあるのか、私も知らない。
グリや、今まで出会った知恵ある者達も、どこにあるのかはわからないと言っていた。
知識や言葉で作られた、恐ろしい場所。
(でも……似ている場所なら、わかるわ)
彼らの語る内容や、グリの説明を聞いて、私は一つのイメージを浮かべていた。
言葉にはしなかったけれど、彼らも、そう想っていたのかもしれない。
――この闇の世界が、その場所に、もっとも近いのだと。
――みな、言わずとも、そう瞳が語っていた。
男は、彼女の顔を見つめながら、低い声で受け答える。
行かなければ、ではなく、行かされるのだ
行かされる……どうしてですか?
どうして?
どうして、か
男はまた、顔を歪めながら、皮肉めいた口調で応える。
何度か見たその顔に、私はあることを感じる。……確信は、ないけれど。
俺は、誰とも理解し合うことなく、非道と呼ばれる行為を働き続けたのだ。
ならば、ヤツラの崇める神が言う、平等や博愛の精神に背いている。
ならば……当然だろう?
びょうどう……はくあい……かっみっ……!?
唇をかんで、眼をしかめる彼女。
難しい単語をたくさん言われ、混乱してしまったようだ。
『噛んだなぁ、あの子。カミだけに、か?』
……くだらないことを言わない
さすがに、ぼそりとグリに注意する。
口を開いてしまったのと、混乱する顔の彼女、そして男の鋭い目つき。
やむをえず、私は口を開く。
つまりあなたは、あなたの言う神とやらに、地獄へ送られたと言うことかしら。その、かつての世界の行いによって
……おこないに、よって……?
私の言葉を聞きながら、でも、まだ混乱したような顔の彼女。
――彼女の歩んだ道と、相棒は、とても優しい光で溢れていたみたいだ。
仕方がない。私は、もっとかみ砕いた言葉を選ぶようにする。
あなたは、悪い人と呼ばれていた。
そう、前の世界の人達に想われていた。
そして実際、神と呼ばれる偉い存在にも、そう判断された。
だから、この闇に似た、恐ろしい場所へ落とされた
……そんなところかしら
私の言葉に、彼女は眼を見開く。それは、今度は理解できたが故の、戸惑ったような表情だった。
そしてその、戸惑う彼女と、彼を悪し様に評価した私へ。
男の乾いた声が、さらに続く。
お前の言うとおりだ。
俺は、罪人なのだ。
善悪というものを造り上げた、かつての人の世界においては、な
とがびと……?
あなたは、なんの罪を犯したの?
私は、聞く必要のないその問いかけを、知らず求めてしまった。
罪。それは、かつての世界で決められていた、ある一定の枠組み。
――それは、この闇の世界では、失われてしまったものであり。
――かつて出会った光達に、私とグリが投げかけられた、言葉でもあった。
男は、少し口を閉ざしてから、ゆっくりと口を開き。
低い声で、重く告げた。
かつての世界で、俺は……人を、動物を、命を、殺し続けてきたのだ。
――区別なく、眼に入るモノ、その全てを
ころ、す……?
……それが、あなたの……
殺す。その単語の意味を、頭の中でかみ砕く。
他者の命を、自分の考えで、奪う行為。
かつて存在した世界で、それは避けられていた行為だと、グリが言っていたことがある。
理由は、簡単なもの。
――他者の命を奪う者が、その他者から、狙われないはずがない。
命に関わる場合や、そうせざるを得ない場合。
もしくは、代償を払ってでも、その行為に価値を見いだしている場合。
そうした状況を除いて、積極的に他者の死を望むことは、かつての世界では危険な行為であったのだという。
男の理由が、はたしてなんなのか。私の想い浮かぶ考えの中に、それがあるのか。わからない。
だが、その手に下した結果が、同じなのであれば。
……男が、私達に対して、その行いをできないはずもない。今が危険であることに、変わりはないのだろう。
私は納得し、やはり、と確信を強めた。
――男から発せられる意識は、かつて出会った殺人鬼のものと、とてもよく似ていた。
――さきほどの拳の勢いは、かつて襲われた軍人のものに近いとも、感じられた。
(……身を持って体験すると、忘れないということかしら)
その時の記憶と傷が痛むのは、錯覚なのか、事実なのか。
しかし、複雑な気分にもなる。
――何者かを無差別に殺すことが、罪だというのなら。
――この世界を進む、私は。
――彼女は。
――いったい、どこへ墜ちればいいのだろう。